3.嵐の前の静けさ
3.嵐の前の静けさ
まずは腹に何かを入れないと、良い案も出そうになかった。
「『腹が減っては軍ができぬ』」
バルタザールが軽口をたたきながら、昨日の残りが入ったタッパーウェアを開いた。
「ああそれはこっち」
アッシュが受けとって、筝に手渡した。広東料理の蟹春雨だ。スヴェトラーナから見えないところで「いただきます」をした。
想像しただけでもダメらしくスヴェトラーナが腕をかいた。
出雲といえば、松葉ガニだからしょうがないといえばしょうがない。なお、ウラジオストクでも蟹は獲れる。
(だから日本に来たのかしら)
ディアドラはそう考えたが、口に出すようなことはしなかった。
三蔵と八戒は精進料理を食べていた。二人とも酒は飲まない。
アッシュと中尉は助六寿司だった。冷えても美味しいし、腹持ちもいい。二人とも左利きらしい。
スヴェトラーナは和牛。イヴァンも肉好きらしい。
箸が使えないバルタザールは蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具を使ってほじっていた。
ディアドラは小乗が取りだしたカニを食べていた。
カッツは痛みで食欲がないらしく、先ほどと同じちゅ~るに似た水飴を三蔵にもらってなめていた。
早々に食事を終えると、中尉とイヴァンが辺りを偵察することになった。
エビアンで薬を飲むスヴェトラーナに、体力のないバルタザールが「ラ・フランス」と言われてしまった。#洋梨
「痛みますか?」
アッシュに声をかけたのは小乗だ。
「湿布をしたのですが」
筝が不安そうに見ている。
「失礼します」
「!」
「折れていますね」
「尺骨か……。全治三か月といったところかしら」
「そうなりますね。ギプスで止めましょう」
「はい」
「取りますよ」
湿布をめくると、異臭が広がった。
「筝! 斬れ」
骨が見えており、赤紫になった血塊が肘に向かって動いていた。
「でも……」
「斬れ!」
筝が鯉口を切ると同時に主人の右肘から下を斬り落とした。
「触るな!」
小乗が興味を持つ前にアッシュが叫んだ。
血塊が土の上に落ちると、そのまま地面に吸い込まれた。
(なんだアレは……)
小乗が止血している間にアッシュが自分の血を見て気絶した。
*
中尉が先頭にツーマンセルで近くの土地の裂け目から、降っていった。ちょうど人ひとりぶん、大柄なイヴァンでも歩ける道がある。
やがてひんやりとした風とともに潮騒が聞こえてきた。
「アレはなんだったんだ?」
陸上で生活するカニもいるが、それでも水辺がなければ生息できない。
イヴァンが質問したが、中尉が口に人差し指をやった。
カニもどきは厄介だが、本当に恐ろしい敵は人間だ。
(気配はない)
手にした鉈で夜露を払いながら前に進む。
強化樹脂の模造刀だが、新品だからかよく切れる。朝にはボロボロになっているだろう。
左から道が開け、水面が見えるほどになった。
カニもどきはいない。あれほどいれば音を立てるはずだが、消えさったときから幻のように音がしなくなった。
右の壁から水がしみでていて、海に流れ込んでいた。
満潮らしく海が近い。
(足音?)
二人がゆっくり振りかえると、白い衣を着た髪の長い女が裸足で駆け降りてくるところだった。
「ノートルダム?」
「え?」
いつもならひとり騒がしい聖母マリア役の若い女性が黙って二人を突き飛ばすと、そのまま海に飛び込んだ。
一瞬浮いたように見えたがそれは月の光で、人ひとり取りこんだ海は波の音がするだけだった。
双眼鏡やらナイフなど装備をはずすイヴァンに、中尉が「ダメだ」と制止した。
「うるさい! 助けなければ!」
イヴァンが腕を振りほどこうとするが微動だにしなかった。
「二次災害になる」
二つ月に雲がかかっていた。
目の前には暗い海があるばかり。
勇猛果敢な宇宙飛行士が我にかえり、中尉の顔を見た。
「まだ助けられた」
「いや、すでに死んでいた」
「見たのか?」
「ああ」
「確かに見たのかと聞いている!」
「見た。首の骨が折れていた」
中尉が、ノートルダムの赤紫色の顔をイヴァンに話した。その首が背を向いていたことも。
「戻ろう。姉御が心配だ」
ゆっくり瞬きしたイヴァンだがそれでももう一度、海を見た。
*
バスのある場所に戻ると、小乗の足が包帯だらけになっていた。
「何があったんだ?」
イヴァンの質問に「血が変質した」と小乗が答えた。
「変質ってなんだ?」
「血が肉を侵蝕したと言ったほうが正確だ」
大声で気がついたアッシュが答えた。
「何が正確だよ! まったく分からん!」
「傷んだ肉をえぐったんだ。よく耐えられるな」
「『死ぬよりはマシ』」
両足の至るところに包帯が巻かれていた。
「歩けるのか?」
「問題ありません」
とは、筝だ。小道具のカッターナイフの血を拭った。懐紙を捨てると血が土に消えていく。
「どうなってるんだ? まるで魔物だな」
「『違うところに来ちまったんだろうな』」
中尉がこめかみに片手を当てた。正しい台詞は『変なところに来ちまったんだろうな』だ。
「運転手さんは?」
イヴァンが問いかけた。
「気づいたら消えていたのです」
三蔵が血のにじんだ風呂敷のほうを見た。
「歩いていったとか?」
ミーシャが言うと「上(半身)はどうすんのさ?」と熊使い(テイム・ベアー)が返した。
「這っていったとか」
「ホラーだ。ホラー」
「『闇の奥』?」
アッシュの感想にカッツが質問をした。ジョゼフ・コンラッドの小説のラストだ。
「ウィラード大尉のように帰ってこられるか分からないな」
同じ『闇の奥』を原作とした映画の主人公だ。
「ところでノートルダムを見なかったか?」
「海に飛び込んで消えた」
「そうか……。眠っていると思ったら、バスの床(右ガラス)に落ちている血を飲んでいた」
小乗が事実を述べた。
「なんでまた?」
「昨日から変だったが……そうした精神状態だったんだろう」
と擁護した。
「飲みすぎなのはいつものことでしょう? 誰が悪いのでもなく、あの人のせいです」
バルタザールが年上の女性を非難した。
「どうにかバスから出して横にしたら、気が狂ったように駆けだして誰も追いつけずに海の方に」
鎮痛剤でも両足の痛みは酷いらしい。顔が歪む。
「元から死んでいた可能性は? 事故の時に亡くなった可能性は? 先生」
アッシュに質問した。中尉だけがそう呼ぶ。
「事故の時か……」
アッシュが記憶を再生した。筝にシートベルトを「切れ」と命令した時点から逆再生させる。画像記憶の動画版だ。
受け身。右手の痛み。シートベルトにかかる体重。衝撃。途中に異音がある。
「鈍い音がしているなあ……。だからシートベルトをしろと言ったのに」
「自業自得」
ベルトを引きちぎったスヴェトラーナが言い放った。
「首が後ろを向いていた。飛びこむ寸前は」
「どうして、どうして助けなかったの?」
ディアドラが中尉に詰問した。
「もう話している」
中尉の代わりにアッシュが答えた。
「そんな……飛びこむ前って一瞬でしょう? どうしてそんなことが分かるの? もしかして――」
「――そこまで。そこまでだよ」
アッシュがディアドラを制止した。左手で抱きよせる。
「腕、なくなっちゃったね」
「また生えてくる」
「あんたは黙ってて」
ディアドラに対するカッツの品のないジョークに、中尉が何か囁いた。たぶん、馬に蹴られないための忠告だろう。
その後ろで、筝が左手を握りしめていた。指が白くなるほどに。
「来た」
バルタザールが振り返った。
カニもどきが色を塗ったように地上一面に蠢いていた。