猫は可愛い
喜ぶどころか怒りを露わにした猫に、ルベウスは首を傾げた。
「どうした。ほら、食べろ」
そのまま逃げようとした猫の身体を掴み引き留めたが、軽く目を見張った。長毛種であるせいで外見からは分からなかったが、身体は驚く程細く、成人した猫にしては軽すぎた。
「こんなに痩せて⋯⋯誰にも気にして貰えないのか?」
眉を顰め、そして到底己がそんな事を言える立場では無かったことを思い出し、呻く。ずるずると座り込み、そっとディアナを地面に降ろすと、深いため息をついた。
ディアナは怪訝そうにルベウスを見返してみれば、何故かいきなり落ちこみ始めた元・夫がいる。
――――何してるの。
「⋯⋯可哀想な事をしたな」
――――だから、なにが?
労るようにそっと伸ばしてきた手を、ディアナは思いっきり猫の手で叩き落としてやった。人間であった時、他者から触れられるのは苦手で、肌や髪に触れる侍女を限っていた。猫となって王都を歩いていたら、老若男女問わずやたらと触りたがってくるので、迷惑極まりなかった。
そこで覚えたのが、必殺・猫パンチだ。
何度か見た事があったが、練習で猫じゃらし相手にやってみたら、思った以上に素早く手が動いて、ちょっと楽しかった事もあって、めきめき上達した。こんなにも猫人生を謳歌しているというのに勝手に同情して、しかも感傷に浸らないでほしい。
現実を見てほしい。貴方のすることはただ一つ。
――――私に美味しいミルクを持って来ることよ!
「⋯⋯おい、容赦ないぞ」
――――するわけないでしょ。貴方は一人で立ち上がれる男だわ。
冷めた目で見ると、ルベウスはくすくすと笑って頷いた。
「分かった、別の品を考えよう」
ルベウスはまた調理場に向かうと、しばらくして戻って来た。ディアナの前に置かれた器には、念願のミルクが入っていた。その隣に置いたのは、焼き魚の白身で、骨をとって解したものだ。
「牛の乳だ。身体に合わないかもしれないから、少しにしろ。魚は⋯⋯焼いたものを貰ったがどうだ?」
ディアナは目をまん丸にした。
猫好きなのだろうが、それにしても優しい男だ。一介の野良猫の我が儘なのだから、捨て置いて去っていかれてもおかしくないというのに、すぐに柔軟に対応を変えたらしかった。
鳴き声にしかならなかったが、一声お礼を告げて、口を付ける。久し振りに美味しい食事にありつけて、ディアナは幸せを噛み締める。
ルベウスは夢中で食べる猫の傍に座り、黙って見つめていたが、やがてぽつりと漏らした。
「⋯⋯可愛いな」
その瞬間、猫の尻尾がぴんと伸びて、毛が爆発した上、驚愕の眼差しで見上げて来たので、彼はくすくすと笑った。
「お前の事だ。案外、素直じゃないか」
ディアナはぶるりと身震いした。あまりに言い慣れていない事ばかり聞く所為で、耳がおかしくなってきそうだ。
早く食べて、出て行こう。
続くルベウスの甘い言葉に耳を閉ざし、ディアナが食事を続けていると、庭先に一人の若者が駆けてきた。褐色の長めの髪を後ろで縛り、整った顔立ちながらも、男にしては大きめの目をしているせいか、童顔だとよく言われていた。ただ、その丸眼鏡の下の黒の瞳はいつも油断なく周囲を見定めている事を、ディアナは知っている。
見かけに反し、この男の思考は極めて冷徹であり、ルベウスの敵と見るや一切容赦がない。
ルベウスの腹心であり、右腕とも言える存在――――ジェミナイは、早速主君の足元にいる小汚い黒猫に気付いた。
「なんです? その猫」
「王宮の庭に迷い込んでいたところを見つけたんだ、可愛いだろう」
自慢げに言う彼に、ディアナは呻いた。
――――嬉しくないわよ。⋯⋯もう勘弁して。
ジェミナイは、この微妙な空気を一蹴してくれるはずだと思いきや、彼は真面目腐って頷いた。
「はい。愛らしいですねえ」
真顔で答えた側近に、ディアナはドン引きする。この男も猫派らしい。
――――猫って凄いわ⋯⋯。
わたしは、皆から怖いしか言われたことが無い。