猫の好物
ルベウスは王宮で暮すようになっても、一度たりとも己に気を許そうとせず、ディアナもそれで良いと、あえて彼を『飾り物』同然にした。
家臣達を集めた会議の場でも、政務をする時も己の傍に置くだけに留めた。
それでも後で二人きりになった時に、さり気なくルベウスに話を振ってみれば、自分と臣下達の会話をきちんと聞いて理解していたのが分かった。ディアナが読む書類も目に入っていたはずだから、内容も把握しているだろう。だから、自分が死んだ後は国王のみが知る機密事項を中心に把握していけば、彼の治世が始まっても物事は滞りなく進むはずだ。
自分が死んで、彼も政務がやりやすくなったはずだ。自分の時代が来たと、晴れやかな顔でいていい。
心を通わせる事を徹底的に避け、冷めた夫婦関係を維持し、あり得ないとは思いつつも妻の急死に自責の念を僅かでも抱かないよう努めた。
それなのに――――結婚していた時以上に、眉間の皺が更に深くなっているのはどういうことだ。
愕然とした思いで再会を果たしたルベウスを見返していると、なんと彼が躊躇いがちに、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「おいで」
その一言に、ディアナは耳を疑った。
彼のものとは思えない、甘く優しい声だったからだ。
冷めた目しか向けてこず、口を開けば父親の伯爵に似て苦言ばかりだった男なのに、随分と甘ったるい台詞を真顔で吐いてきた。
無論、ディアナが猫になったとは思っていないからだろうし、もしかしたら自分が知らなかっただけで、かなりの猫好きだったのかもしれないが、こんな態度を取られた経験のないディアナにしてみると、恐怖を覚えるくらいだ。
――――誰よ、これ。なんだか怖いわ!
あまりの衝撃を受けた上に、空腹であった事もあり、ディアナはその場によろけて、座り込んでしまった。
猫でも腰が抜けることがあるのだと、つい呑気に考える。
すると、ルベウスが更に表情を曇らせて、少し慌てたように訊ねてくるものだから、ディアナは毛が逆立ちそうになった。
「おい、大丈夫か? 腹でも空かしているのか」
まじまじと自分を見てくる猫に、ルベウスはつい問いかけてしまう。無論、相手は猫であるし、言葉が通じるとは彼も思っていなかったが、彼女の髪や目の色に良く似た猫を見てつい話しかけてしまうほど、彼の心は妻の事でいっぱいだった。
さりとて妻はもういくら声をかけても返事が出来ぬ身だったから、尚更である。
見れば、この黒猫は首輪をつけていなかった。
王宮で猫を飼っていると言う話は聞いていなかったから、どこからか入り込んできたのだろうと彼は思った。
「ここで待っていろ。調理場から何か貰ってきてやるからな」
そう言って、何度か振り返って猫がそこにいるのを確かめつつ、急ぎ足で建物の中へと入っていった。
ようやく衝撃から立ち直ったディアナは、一つ納得した。
――――知らなかったわ。あなた、猫好きだったのね⋯⋯。
いくら毛や目の色が酷似していても、普通は人間が猫になるなど思わないし、もしも気付いていたら、あんなに優しく声をかけてくるはずがない。
それに、心なしか表情も少し明るくなったように見えた。慣れない政務を始めて、少し疲れでもしていたのだろう。そうでもなければ、国王となる男が、まるで途方に暮れているかのように、庭で一人うろついているはずがない。
――――大丈夫そうね。
ディアナは胸を撫で下ろした。お腹を満たさせて貰ったら、後は王宮内を少し偵察して、帰ろう。
帰る所は無いが、少なくとも王宮はもう自分の住む場所では無い。主はルベウスだ。
猫が好き好みそうな物など限られているし、堅実な彼ならば間違えたりはしないだろう。
期待をして木陰で休んでいると、片手に皿を持って彼が戻って来た。
「さあ、食べろ」
またそう優しく告げて、ディアナの前に皿を置いた。
そこに載っていた物は――――猫の好物である『生魚』だ。
彼は何も間違っていなかったが、ディアナは呻いた。
都にふらりと出て、食と住に困っていたのは事実である。特に食事に関しては、他の野良猫達のように残飯漁りをするのは、どうにも匂いが受け付けず、しかも餌がありそうな場にも縄張りがあって追い払われた。他の猫の食べ残しの生魚を見つけた事もあったが、独特の臭みに完全に怯んだ。
だから、ディアナが欲しかったモノは一つで、ルベウスも衰弱した猫に固形物を持って来るはずがないと思ったのに。
『私を侮る気か!』
かつて、己を軽視して劣悪な品を持って来た商人を、そう一喝して震え上がらせたものだが。
「んにゃあぁあっ!」
今は残念ながら、鋭い鳴き声にしかならず、ディアナは肩を落とした。
――――無念だわ⋯⋯!