ディアナの居場所
その頃、王宮の人々は、揃って腰を抜かしていた。
ディアナが女王として辣腕を振るっていた時も緊張感が漂っていたが、物静かなルベウスに代ってからは、いささか気が緩んでもいた。だが、そんな彼らの甘えを、ルベウスは一蹴した。
「ひぃいいい⁉」
という、声にならない悲鳴が、そこかしこで響く。
誰もが彼に無言で道を開け、一刻も早く通り過ぎてくれることを願った。彼を密かに侮っていた者は、自分が恐ろしい事をしていたと気づき蒼くなった。気の毒なのは、王宮を駆ける彼に慌てて付き従った警護兵である。
職務のために逃げる訳にいかず、凄まじい怒りと覇気を滲ませるルベウスに怯えながら、揃って後をついていく。そして長官を筆頭に、魔術師達も随伴していた。
それというのも、壁に阻まれてディアナを見失ったルベウスが、すぐさま王宮へと入った時、『ディアナの呼吸が急に浅くなった』と知らせにきたからだ。ディアナの身体にずっと付き添っていたリーリアが宰相へと報告し、魔術師達にも話が伝わっている。
魂と身体が離れて長いだけでなく、魂の――――つまり、猫になっているディアナの方に何かあったのではないか、というのが魔術師達の見立てだ。
ルベウスは、剣を取った。
誰の仕業か、彼はすぐに理解していた。新たな王宮の主と担がれ、ディアナの残した遺言のもと、着々と公務を進めていた彼だが、お膳立てされたことだけをこなして安穏としてはいなかった。ディアナの死はあまりに急すぎる。よもや暗殺されたのでは、という可能性も考えた。
代替わりし、不安定な情勢に付け込んで、不穏な動きをする貴族がいないか、ジェミナイを始めとした部下達を使って、監視の目も強めている。
貴族たちの情報は彼に筒抜けであったし、些細な事も耳に入っていた。アンバルが狩猟を趣味としており、自ら鷹を操る事も、だ。
ディアナを攫ったのがアンバルの鷹であるかどうか、確たる証拠はない。しかし、ディアナの身体にも異変が起こっている以上、一刻の猶予も無い。
ルベウスはアンバルが滞在している客間の扉を叩くと、返事を待たずに、開け放った。そして、室内をくまなく見回す前に、彼はアンバルの姿を見つけた。バルコニーの手すりから、身を乗り出すようにして、下の庭を凝視していたからだ。
ルベウスはそのまま速足で室内を横断して、バルコニーへと出ると、
「そこで何をしている」
と唸るように言った。
アンバルは彼の激怒を滲ませた声にようやく我に返って振り返る。ひどく動揺した様子の彼を、ルベウスはじろりと見下ろし、息を呑んだ。
彼の足元に、引きちぎられたディアナの首輪が落ちていたからだ。
「貴様⋯⋯ディアナに何をした!」
怒号をあげたルベウスに、アンバルは蒼白になり、彼に付き従っていた警備兵達までも、とうとう腰を抜かした。
ディアナはゆっくりと目を開けた。かび臭い嫌な匂いが鼻につく。立ち上がろうとしたが、身体に痛みが走り、動けない。おまけにずぶぬれで、寒い。
――――最悪だわ⋯⋯。
ぽつりと呟いて、なんとか顔を上げる。僅かな隙間から漏れる光に、ディアナは自嘲の笑みを浮かべた。
なんとかアンバルのもとから逃げようと、バルコニーから飛び降りたまではよかった。思うように力が入らない身体をおして、無我夢中で庭を走った際、誤って古井戸に落ちてしまったのだ。
長年使われておらず板で蓋をされてもいたが、一部が腐っていたようで、運悪くディアナは踏み抜いてしまった。真っ逆さまに中へと落ち、したたか身体を打って、気が遠くなったことを覚えている。
幸い枯れ井戸で、中は雨水がたまっていただけだったので溺れずにはすんだ。しかし、ディアナのいる底と、蓋の穴までは、人の背たけあろうかという高さだ。到底、よじ登れるものではない。
ディアナはぶるりと身震いした。
――――⋯⋯また独りぼっちね。
ここでひっそりと野垂れ死ぬのは、自分に相応しい末路かもしれない。
でも、寒くて嫌だと思うのは、温もりを知ってしまったからだろうか。
怖いと思ってしまうのは、守ろうとしてくれる人がいると、知ってしまったからだろうか。
『私がいるからな』
目から涙が溢れ、自分の名を呼ぶ声が聞こえると共に、落ちた。
「ディアナ!」
逃げる時にバルコニーの柱に引っかかって、首輪は外れている。だから、自分の言葉はまた彼に届く事はない。答えなければいい。このまま野垂れ死ねば、今度こそ彼が王になる。民を苦しめた王家は滅び、新たな王朝が開かれるだろう。
ルベウスは、寝室で一緒に眠っていた女性と――――ちょっと趣味が悪いような気もするが――――添い遂げられる。
このまま、魂は滅び、身体も道連れに死ぬ。それで良かったはずなのに。
――――⋯⋯帰りたいわ。
ディアナは、にゃーんと小さく鳴いた。
猫でも人間でも良いから、恥を忍んででも、ルベウスの元に戻りたい。
壁に手をついて、必死で繰り返し鳴く。しかし、弱った猫の小さな声は、井戸の中で虚しく響き渡るだけだ。
絶望がディアナの胸に広がる中、僅かな隙間から垣間見えていた光が広がった。大きな手が蓋を外すのが見えて、ディアナは最後の力を振り絞って声を上げた。
井戸の底を覗き込んだルベウスは、ディアナの姿を捉えると、すぐさま中へと飛び降りた。後から追ってきた警備兵たちの悲鳴など、彼はものともしない。溜まった雨水でズボンが汚れるのもかまわず、泥だらけのディアナが飛びついてくると、抱きとめた。
「こんな所にいたのか⋯⋯もう大丈夫だ。怖かっただろう」
ルベウスの声はあまりに優しく、腕は変わらず温かい。背を撫でてくれる大きな手に、ディアナは途方もない安心感を覚え、身を預けたが。
「⋯⋯あの男は、私が始末しておくからな」
ボソッと呟いた彼の言葉に、ディアナは目を泳がせた。恐る恐る彼を見あげてみると、にっこりと笑ってくる。
――――貴方もちょっと怖いわよ⁉
と思ったが、首輪が外れているので、幸か不幸か彼に届かなかった。




