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猫の肉球

 翌日、ルベウスは朝食を済ませると、ジェミナイを伴って執務室に向かった。彼の腕の中には、相変わらず黒猫のディアナがいる。


 ディアナとしては、この状況はいささか不本意だった。


 まず、背中を撫でられながら目が覚めて、顔を上げればなんとも優しい眼差しで自分を見てきた元夫と目が合った。一晩中起きていたのか、と驚くと共に、何だか気恥ずかしくなって動けなかった。


 そうしている内に、リーリアが食事を運んできて、世話をしてくれた。ディアナが舌鼓を打っている間に、その隣でルベウスも朝食を済ませていた。彼がまるで詰め込むように勢いよく食べたので、こんなに早食いだったかとディアナは驚いたほどである。


 しかし、お陰で出て行くタイミングを完全に逸した。


 ルベウスはリーリアに「今日はいい」とディアナの世話を断ると、腕に抱き上げたからだ。逃れようとしたら、今度はジェミナイが仕事の時間だと呼びに来たのだ。


 結局、ディアナは彼らと共に、王宮の廊下を進み、ルベウスの執務室へと入る羽目にあった。


 彼の執務室は、結婚の準備をしている際、ディアナが一番気を配ったところだ。夫婦の寝室は、自分の死後に好きなようにすればいいと家具類は一切入れなかったが、執務室は違う。彼はすぐに公務をこなす必要性が出てくるだろうし、臣下も訪れる。


 机や椅子、調度品に至るまで、全て実用的かつ品質の良いものを揃えさせた。彼が仕事をしやすいこと、そして誰にも侮られないこと、それが肝心だ。


 室内はディアナの記憶にある物と殆ど遜色なかったが、執務机の上に、一つだけ見慣れぬものがあった。


 赤い大きな丸いクッションである。


『まぁ、なんて寝心地の良さそうな⋯⋯違うわ! なんでこんな物があぁ⋯⋯』


 ルベウスにそっと降ろされて、ディアナは絶望した。


 柔らかく体を包み込んでくれたクッションは、離れがたい代物だ。猫好き男に、抜かりはなかったらしい。


「気に入ったか?」

『いらないわ!』

 と、言いながら、また前脚で揉んでしまうディアナである。


 穏やかに微笑むルベウスだけでなく、ジェミナイまでも苦笑している。ディアナは何だか悔しくなったが、それ以上に気になるのは、室内で控えていた重臣たちである。


 突然、ルベウスが猫を執務室に連れてきたので、驚いているのだろう。全員が目を丸くして、絶句した顔で自分を見ている。かつて王宮を震撼させた女が、こんな姿になっていると知ったら、腰でも抜かすのではないだろうかとディアナは思う。


 ただ、猫に変化した所は魔術師達に見られていなかったようで、王宮で彼らに会っても、誰も何も反応しなかった。誰も自分が猫になっているなどと思わないだろう。

 意思が伝わらないのだから、知る術もない。


 気付かれる心配もなく、安心して寝られるというものだ。


 ちょうど寝床が整ってきたこともあり、ディアナは彼らに背を向けて、クッションの上に丸くなって寝始めた。あまりの心地よさに、頭上で交わされる人間達の会話など、まるで耳に入ってこない。


「ルベウス様⋯⋯この猫はどうされたのですか?」


 臣下の一人が尋ねると、ルベウスはディアナを見つめながら答えた。


「先日、王宮の中庭にいたところを、私が見つけたんだ」

「な、なるほど」


 彼は執務室に連れてくるほどの猫好きだったのかと、臣下達は思った。ジェミナイも苦笑していたが、彼はいつになく主君が穏やかな顔をしている事に安堵もしていた。ディアナを失ってからというもの、ルベウスの表情はずっと硬いものだったからだ。


 そんな時、執務室に勢いよくやってきたのは、魔術師達である。昨日、ディアナの行方についてルベウスに聞きそびれた彼らは、今日こそは教えて貰おうと意気込んだのだ。


 彼らを引き連れてきた長官は、椅子に座るルベウスの元へと歩み寄り、第一声を発っする前に、机の上にいる猫に気づいた。怪訝そうな顔をしたが、その毛並みを見て息を呑む。


「ルベウス様⋯⋯まさか⋯⋯」

「あぁ。彼女が『ディアナ』だ」

「おぉ⋯⋯! よくぞご無事で!」


 長官は目に涙を浮かべ、魔術師達も食い入るように見つめた後、全員が喜色を露わにした。ルベウスは、困惑しているジェミナイや重臣たちにも、経緯を説明してやった。


 一同はしばらく絶句した後、ようやく口を開いたのはジェミナイである。


「とても信じられません⋯⋯あの女王陛下が、猫などになるとは⋯⋯」


 自他ともに厳しい孤高の女王が、よもや小さな猫になって、呑気に寝ているなどという光景は、到底信じられないものだ。だが、ルベウスは嘘をつくような男ではない。ディアナは仮死状態にあることは周知の事実で、なおかつ魔術師達が心から安堵している姿も、彼の言葉を裏づけていた。


「どうして猫が良かったのか私にも分からないが⋯⋯どうも是が非でも元の姿に戻りたいようでもないようだ」

「ディアナ様がそうおっしゃったのですか?」


 一同は、彼の腕に嵌まっている腕輪の説明も併せて聞いている。ジェミナイの問いに、ルベウスは首を横に振った。


「寝室に入りたがらないんだ。そこに自分の身体があるのは、一度見て知っているはずなのにな」

「なるほど⋯⋯」


 話を聞いていた魔術師達や重臣たちは察するものがあり、一様に顔を曇らせている。ルベウスは小さくため息をついた。


「だが、早く戻ってもらわなければならない。魂と身体は長く別々にあっていいものではないそうだからな」


 その言葉に頷いたのは長官である。


「さようでございます。何としても、ディアナ様に戻りたいと思っていただかなければ⋯⋯!」

「しかし⋯⋯どうする?」


 ルベウスが夫婦の情に訴えるのは難しいと、誰もが分かっているのか口にしない。全員が悩み深い顔をして話し合い、小半時ほど過ぎた頃、ディアナが目を覚ました。


『ん⋯⋯? なによ、これ』


 寝た時には無かった書類の山が、目の前に積み上げられていた。なんとも懐かしい光景であるが、猫であるせいか、山は非常に大きく見える。


 室内にいた人々は、相変わらず自分を気にしてみてきていた。よっぽど執務室に猫などがいるのは物珍しいらしい。その中にいつの間にか魔術師達までいて、ディアナはぎくりとする。気づかれないはずだと思いながら、そっぽを向けば、ルベウスと目が合った。


 重臣の一人が鼻息荒く、

「さぁ、ルベウス様! お早く!」

と、彼に書類を押しつける。


 ルベウスは少し躊躇しながら書類を受け取って、紙面に目を落とした。ディアナは怪訝そうな目でそれを見上げる。


『何をしているの。この程度の量、すぐに捌けるでしょう?』

「あぁ⋯⋯分かっているが⋯⋯」


 ルベウスの眉間に皺が寄る。書類はびっしりと細かい字が連なっていた。ディアナの口ぶりからして、彼女はいつもこうして膨大な書類に目を通していたのだろう。彼女に代わって政務をこなすようになって、日々その重責を感じてもいた。


 猫になって身体の大きさも違うのだから、見るのも大変だろう。臣下達は『ディアナ様は仕事中毒だったから、責任を感じて戻りたくなるはずだ』と言ったが、ルベウスは乗り気にはなれずにいた。


 むしろ、こんな過酷な日々に嫌気がさしていたのではないだろうか。


 そんな事を思いながらも、周囲の促しとディアナの咎める目を受けて、ルベウスは彼女の前にそっと差し出した。


「見るか⋯⋯?」


 ディアナの返答は、明確だった。


『⋯⋯あのね、猫にみせないでちょうだい』


 思いっきりルベウスを睨みつけてやったが、彼はさもあらんとばかりに頷く。当たり前だ、と思うディアナだが、癪に障ったのは周りの者達も何かを期待するような目だ。


 ディアナはぴんと来た。


 この連中は、ふざけているに違いない。口うるさい自分がいなくなって、開放感もあるのだろうが、これはよろしくない。


『待って⋯⋯分かったわ。貴方たち、見ていなさいよ!』


 ディアナはすくっと立ち上がると、近くにあったインクの瓶に前脚を突っ込み、容赦なく書類に手を押しつけてやった。


 ――――秘技・猫足ぺったん、と言うのはどうだろう。そのまますぎるかしら⋯⋯。


 文書が別に汚しても大丈夫な物だと見た上での暴挙だが、これだってディアナには勇気がいることである。


『ざ、ざまあみなさい! 悪女と名高い私をなめないで!』


 書類を汚されて、仕事が増えたはずだ。これに懲りたら、いつまでも遊んでいないで、真面目に仕事をしろと思ったディアナだが。


 ほぼ全員が、肩を震わせて口を押え悶えている。


『この連中、大丈夫かしら⋯⋯。私から解放されて嬉しいんでしょうけど⋯⋯ちょっとたるんでるわよ!』


 呆れ顔になったディアナだが、一方のルベウスは書類を手に取って、肉球の形がくっきりと残っているのを見て、真顔で頷いた。


「国璽にするか」

『貴方ねぇ⋯⋯!』


 ルベウスにハンカチで前脚を拭かれながら、ディアナはもっと呆れた。

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