女王と侍女
ディアナ付きの侍女リーリアは、王宮で変わり者だといわれていた。悪女と名高い女王の傍にいて、彼女の身の回りの事の大半はリーリアだけで行っていた。
ディアナの不興を買いたくない侍女たちは、リーリアがやってくれるからと半ば押し付けていたようなものだが、それでも多少の罪悪感が湧く時もあり、リーリアに『貴女も大変ねぇ』と声をかけた事もあった。
リーリアは何も言わなかった。どんな様子か尋ねられても、曖昧に笑うだけだ。
もともと口数の多い娘ではなく、ディアナに仕え始めてからというもの、更にぐっと口数は減った。
よほど女王にいびられているのだろうと周囲は勝手に思い、ディアナを謗った。
そんな者達を、リーリアは心の底から軽蔑したものだ。
――――ディアナ様の事を、ぺらぺらと話す訳ないじゃないの。馬鹿だわ⋯⋯。
女王の言動や体調を知りえる立場であるからこそ、リーリアは細心の注意を払わなければならなかった。王宮とはいえ、諸外国と通じている者がいないとも限らない。
リーリアが心から笑顔を向けられたのは、ディアナだけだ。
リーリアは、貧しい下級貴族の妾の子として産まれた。母はディアナと同じく早世し、リーリアは正妻の目を気にしながら、息を殺すように生きてきた。十八歳になって王宮の侍女として働きだした時、リーリアは一人の若い貴族にしつこく言い寄られた時があった。
彼はリーリアの実家よりも格上の貴族の家柄で、第二子という身分ながらも正妻の子であり、すでに爵位ももっていた。まだ王宮に入りたての貧乏貴族の小娘は、遊び相手に最適だと思われたのだろう。
庭の掃除を一人でしていた時、その男が突然やってきて、リーリアを茂みに連れ込んで乱暴を働こうとした。リーリアは悲鳴を上げ、必死で逃れようと暴れたせいで、その男の顔を思いっきり引っかき、傷つけてしまった。
そこにたまたま通りがかったディアナが、やって来てくれたのだ。警護の兵に命じて、男を引き離させ、ディアナは自らの手でリーリアを立たせてくれた。
怯えて、泣きじゃくるしかなかったリーリアをディアナが宥めていると、男が蒼白になりながら、女王に訴えた。
『渡り廊下を歩いていたら、庭にいたその娘が私を誘ってきたのです、陛下! これは私の名を貶めようとする罠です!』
リーリアは愕然とした。
だが、男の舌はよく動く。頬についた引っかき傷も、突然暴れ出して偶然ついたものだという。自分を陥れるための罠だ、と言った理由も分かった。彼はディアナの夫候補の一人として名が挙がっていたからだ。
もしも自分の将来を絶つような真似をしたら――――。
脅すような一瞥を男に向けられて、リーリアは怯えながらも、必死で訴えた。
『違います! その方がしつこく言い寄って⋯⋯っ』
『陛下、耳を貸してはなりません! 私を信じてください!』
男はリーリアのか細い声を平然と遮る。ディアナは男を見据え、笑みを浮かべて頷いた。
『――――そうね。貴方は品行方正な素晴らしい若者と、卿から聞いているわ。私もちゃんと調べたのよ。大丈夫、分かっているわよ⋯⋯?』
『さすがは陛下!』
頭上で交わされる会話の一言一言が、リーリアの胸を抉る。貴族社会において、身分の差はあまりに大きい。話はここで握りつぶされる。もしくは、王宮を騒がせた罰として、実家に帰されるのではないか――――。
絶望が胸に広がる中、ディアナはリーリアに視線を向けた。
「貴女の言い分も聞いておくわ」
その言葉からして到底信じて貰えないだろうと思いながらも、リーリアは必死で経緯を話した。殺気立っていた男の目は、自分の優位を感じているのか、嘲笑うものに変わっていたことが惨めだった。
それでも泣くまいと思った時、一人の兵士が青褪めている侍女の一人を連れてきた。リーリアの上役で、新入りを虐めるのが趣味と豪語する女だ。
ディアナは彼女を冷然と見据えた。
『先ほど、廊下を歩いていたら、貴女がリーリアもいい気味だ、と他の侍女に言って笑っていたのが聞こえたわ』
『ひ⋯⋯っ』
『リーリアはここで掃除をしていたら、突然この男がやって来たと言ったわ。でも、彼は渡り廊下を歩いていたら、彼女に誘われたと言うのよ。二人の言い分は、矛盾しているわよね?』
真っ青になっている侍女に、ディアナは淡々と続けた。
『見ての通り、ここは少し奥まっていて渡り廊下からは気づきにくいの。よく目を凝らせば気づけない事はないから、そのせいだと言われれば終わりだけれど⋯⋯リーリアは一人で、掃除をしていたのよ。塵取りに落ち葉も入っているから、屈んだりもしていたでしょう。地味な色のお仕着せを着ているし、周りに溶け込んでいたはずだわ。彼はよく気づけたわよね。不思議に思わない?』
侍女の顔は、男と一緒で顔面蒼白である。だが、ディアナは容赦がない。
『今、正直に言っておいた方が、身の為よ』
静かな声である。恫喝しているわけではないというのに、底知れぬ覇気が侍女を容易く陥落させた。男に頼まれて、リーリアに庭先で一人掃除をさせたと白状したのだ。第三者の証言と矛盾は、男をも黙らせた。
『後で処分を言い渡すわ』
ディアナは兵に命じて二人を連れて行くよう命じ、彼らの姿が見えなくなると、立ち尽くしているリーリアに優しく微笑みかけた。
『貴女は勇気があるわね。あの男の化けの皮も剥いでやれたわ』
『⋯⋯調べたとおっしゃっていましたね?』
『えぇ。あまりに美辞麗句を並べられるものだから、怪しいと思って。先ほど報告を聞いて、案の定だったから候補から外すつもりでいたのよ。もっと早く気づくべきだったわ⋯⋯怖い思いをさせて、ごめんなさい』
リーリアは驚いた。彼女は王である。取るに足らない侍女の心など気にする必要はないというのに、ディアナの顔は心から悔やんでいた。
リーリアは、もうディアナが正義の騎士としか思えなくなった。男よりも余程格好良い。でも、彼女は女性だから、さながら女神様だろうか。
その日から、リーリアはディアナの虜になった。
必死で仕事を覚え、ディアナ付きの侍女として召し上げられてからは、ますます忠勤に励んだ。自分の事は最低限しかせず、職務を最優先にした。あまりに熱心過ぎてディアナが心配するほどだったが、リーリアは止められなかった。
ディアナの身体が日々痩せ衰えていくのを、目の当たりにしていたからだ。
そして、とうとうディアナが力尽きる日が来てしまった――――。
ルベウスとジェミナイを半ば追い払うように見送ると、リーリアは猫を抱き上げて、自室へと戻った。ディアナの私室の隣にある、控えの部屋だ。
狭い室内には簡易的な調度品のほか、小さなベッドが置かれている。リーリアは床にそっと猫を降ろすと、その前に屈んでじっと見つめ、みるみる内に顔を歪めた。
「ディアナさま、そっくりだわ⋯⋯」
リーリアの目からはぼろぼろと大粒の涙が落ち、猫の――――ディアナの足元に落ちた。
――――あらあらあら⋯⋯。相変わらずの泣き虫ね。
いつものように拭ってやりたいが、いかんせん猫の手だ。
―――――肉球つきでよければ、貸してあげるわよ?
そっと持ち上げそうになった手は、不穏なリーリアの言葉に止まる。
「ディアナさま⋯⋯お傍にいける日はいつかしら⋯⋯」
――――いやいやいや。言ったでしょう? 貴女は生きなさいって。
リーリアは苦労人だった。実家に居場所はなく、愛された経験が薄いせいか、感情の出し方が下手糞だった。人付き合いも苦手な方らしく、新入りの時にはよく虐められたようだ。
そんな弱い立場に付け込んで、男に襲われた事もある。ディアナは父親の卿も呼び出し、厳重に注意した上、男の王宮への出入りを禁じた。貴族としての生命を絶たれたも同然の男は、あろうことか腹いせに、リーリアに関する悪評を流して、名を貶めた。
心無い言葉にリーリアが傷つき、『いっそ消えてしまいたい』と泣いた日を、ディアナは忘れていない。今度は許さなかった。男の爵位をはく奪し、平民に落とした。男や彼の実家の恨みの声は自分に向かったが、かまうものかと思った。二度も同じ過ちを繰り返すような者など、不要である。
その上で、リーリアを自分付きの侍女として召し上げ、目を光らせた。心優しい可愛い侍女には、幸せに生きて欲しいと心から願ったものだ。
「貴女のご飯を、調理場からもらってきてあげるわ。ここにいてね」
ぐすっと鼻をすすりながら立ち上がり、部屋を出て行ったリーリアを見つめ、ディアナはしばし悩んだ。
やっぱり心配だ。
彼女にだけは、自分が猫になった事を何とか伝えた方がいいだろうかと、思ったが。
ふと室内を見回し、窓際の机を見た瞬間、呻いた。
ディアナは生前、近しい者達に形見分けのつもりで、私物を譲っていた。リーリアには実用的に使えるものがいいだろうと思って文具や本などを贈り、喜んでもらったはずだったが⋯⋯。
それら全てが、机の上に飾られていた。しかも何故か厚いクッションの上に載せられて、まるで崇拝するかのようだ。雑然とした狭い室内なのに、机周りだけ異様に綺麗である。
その前の壁には指一本たりとも触れるなと、張り紙までしてあった。もはや執念すら感じる。
――――駄目だわ。この子は、私の事なんて一刻も早く忘れた方がいい⋯⋯!




