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みんな猫好きなのね

 朝、寝室の扉をノックする音にディアナは目を覚まし、悲鳴を上げそうになったのを堪えた。


 真っ先に視界に飛び込んできたのが大きな寝台で、またしてもここで寝入ってしまったと気づいたからだ。慌てて起き上がり、四本足でしっかりと立った感覚に、やはり猫の身体だと理解する。目を落とせば、毛むくじゃらの手も見えた。


 人間ならば顔面蒼白ものだが、幸いにして猫の顔色は分からない。


 ――良いこともある⋯⋯そんな事を言っている場合じゃないわ!


「⋯⋯なんだ⋯⋯」


 寝起きらしき低いルベウスの声が背後から聞こえて、ディアナはますます気まずくなった。

 自分が一度部屋を出て、戻って来た時には、寝台で休んでいた彼の恋人らしき女性の姿はなかった。さりとて、たとえ猫であっても前妻が一緒に寝ていたとなれば、女性も気分の良いものでは無いだろう。ルベウスも不本意なはずだ。


 猫になった件は誰にも知られてはいけない、と誓いながらも、普通はそんなことは考えないだろうと、思い直す。ただ、ルベウスに、『サファイアを売れ』と詰め寄った点だけは、現実であってほしかった。


 ――あぁ⋯⋯商機を逃すわ⋯⋯でも、そんな都合の良い事は無理よね⋯⋯。


 項垂れつつ、彼の返事を受けてか扉が開いたのを見て、ディアナは一目散に駆けた。


「おい⋯⋯っ待ってくれ!」


 焦るルベウスの声が聞こえたが、ディアナはそんな事など構っていられない。彼の声に驚いて、扉を開けようとしたジェミナイは途中で手を止めたが、猫の身体だから狭い隙間さえあれば十分だ。


 するりと扉を通り抜け、隣室へと出ると、今度は一目散に廊下へと続く扉に向かう。だが、今度は「いでっ!?」などという奇妙なジェミナイの声が聞こえた。


 我慢できずに振り返ってみると、扉が開け放たれて、ルベウスが真っ青になって立っていた。寝乱れた格好のまま、裸足で、息も乱れている。彼の腹心はといえば、主君が勢いよく開いた扉にしたたか顔を打ち、呻いていた。


 ルベウスは「すまん」と謝ったが、視線は目を真ん丸にしている猫に釘付けである。


「どこに行く気だ」


 ディアナ、と呼びかけようとしたが、気を取り直したらしき猫がすぐに、また逃げようとしたので、焦る。


「⋯⋯っ待て! 撫でてやるぞ⁉」


 このまま王宮から出て行こうと思っていたディアナだが、この発言は心外である。


 ――待って。それでは、まるで私が貴方に撫でられて喜んでいるみたいじゃない! 心地よいと思って

しまったのは、確かだけれど⋯⋯それは、猫だからだ⋯⋯たぶん。私は触られるのが嫌いなのよ!


 睨みつけ、フーッと牙を剥いて威嚇するように鳴き、毛を逆立てて抗議したが、ルベウスは彼女がまた足を止めてくれただけでも良しとしているから、一切動じない。


「頭の後ろも掻いてやる。喉がいいか?」


 ――出たわね、猫好き男! 詳しい⋯⋯侮れないわね。でも、我慢できる⋯⋯。


「もう朝だ。また腹も減っているんじゃないか? お前の好きなミルクを温めてやるぞ。生魚も嫌だろう?」


 ルベウスは、人間であった頃のディアナの生活や嗜好をほとんど知らずにいた。宰相や侍女たちから聞かされて、自分の思い違いに恥ずかしさばかりが募ってもいた。


 だが、猫になった彼女の好みは、些少ではあるが分かっている。それが何故か嬉しくて、ディアナが怯んだように威嚇をしなくなったので、ルベウスは笑みが止まらなくなってきた。


 ――む⋯⋯っ。


「ここなら黙っていても、美味い飯と温かい寝床にありつける」


 ――ず⋯⋯ずるいわ!


 ディアナが躊躇している間に、ルベウスはその隙をついて距離を詰め、軽々と猫の身体を抱き上げる。そして細い小さな体を壊さぬよう、優しく抱きしめた。


「だから⋯⋯ここにいろ。もう、どこにも行かないでくれ。な?」


 お断りだ、とディアナは懸命に抗おうとしたが、ルベウスの大きな手が猫の弱点を――首の後ろを掻いてくる。


 しかも、相変わらず腕の中は居心地がいい。


 ここでミルクと焼き魚を出されたら、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまいそうである。

 ――あぁ⋯⋯まずい。これは、いけない⋯⋯わ!


 崩壊しかかった理性は、意外な声で保たれた。


「おはようございます」


 廊下に面した扉の方から聞こえた冷淡な声に、ディアナは目を見張った。毛皮を着ていなかったら身震いしてしまいそうな、冷気が漂ってくる。挨拶こそしているが、その言葉には棘がある。さっさと出て行けと続いた気がしたのは空耳だろうが、そう思いたくなるほどだった。


 恐る恐る声の主を確かめて、ディアナは心底驚いた。


 長年、ディアナに仕えていた侍女のリーリアだったからだ。


 ――――あなた、どうしたのよ。


 いつも柔らかな笑顔を浮かべていた顔からは、感情がごっそりと抜け落ちていた。キラキラと輝くような瞳で見返してくれたのに、今、彼女の目は死んでいる。本当に、生気すら感じないほどだ。


 おかしいと、ディアナは戸惑った。


 床に伏せる事が増えた自分を、彼女は甲斐甲斐しく世話してくれた。死期が日に日にせまる自分に涙ぐみながらも、献身的に仕えてくれたものだ。そんな心優しい侍女が、いざ自分が死んだ時にできるだけ悲しまないように、死は怖くないと言い続けた。

 そのかいあってか、リーリアも最期まで傍にいると言ってくれたものだ。一時的に自分の死を悲しんでも、前向きに生きていってくれるはずだと思っていた。しかし、今のリーリアはまるで別人である。


 ルベウスといい、侍女といい、どうも様子がおかしい。


 ただ、両者を天秤にかけた時、自分が死んで清々しているはずの夫と、健気で可愛い侍女となれば、ディアナの関心はどうしても彼女に向く。


 ディアナはルベウスの腕の中から抜け出して、リーリアのもとへと歩み寄った。彼女は怪訝そうな顔をしてディアナを見下ろしたが、ルベウスが焦った顔をしたのを見逃さない。すぐに嫌がらせに走った。


「いらっしゃい」


 ふふふと、底意地悪い笑みを浮かべて猫を抱き上げれば、案の定、ルベウスが口惜しそうに呟いた。


「私よりも⋯⋯そっちがいいのか」


 ――なによ。あなた、猫好きにも程があるわ。いい加減にしてちょうだい。


「ルベウス様の硬い腕では、誰でも嫌だと思いますわ!」


 ――リーリア。あなた、男の腕ってだいたい硬いものよ?


 それなのに、まるで人間を始めとした、全生物が彼を嫌っていると言わんばかりである。全てに愛される者などいないとディアナは理解しているが、誰でも嫌というのは賛同しかねた。


 ルベウスは国王に相応しいだけの才覚を持つ男だと、断言できるからだ。


 つい呆れたが、何故か侍女は勝ち誇ったような顔をしていた。少しばかり活気が戻ってきたようで何よりだ。

 そんな事を考えている間にも、頭上で二人の言い合いが止まらない。したたかぶつけた鼻を擦りながら傍にやって来たジェミナイも閉口気味だ。


「⋯⋯また始まった。今度の喧嘩理由はこれですか」

 と、二人に聞こえないようにぼそりと呟きぼやいたが、猫の耳にはしっかりと届いた。


 言い合う二人を見上げてみれば、憔悴していた様子だったルベウスが、必死で言い返している。リーリアと話している内に、彼も元気を取り戻したようだ。

 ディアナは合点がいった。


 ――――あぁ。これはもしかして、じゃれているのかしら。喧嘩するほど、仲が良いというものね!


 猫になった悪女は、盛大に勘違いした。

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