猫の怒り
深夜になって、ディアナは目を覚ました。慌てて頭を上げて寝台の方を見てみれば、寝台の上で横たわっているルベウスの広い背中が見える。
女性の方は彼の陰になって見えないが、どうやら二人とも寝入っているらしかった。
――――あ、危ない所だったわ⋯⋯。
ディアナはそっと椅子の上から飛び降りると、扉へと急いだが、案の定閉まっていた上に、鍵までかかっていた。だが、ディアナはこの王宮で生まれ育った女である。
ならばと、部屋の一角に飾られていた大きな絵の前に向かった。壁と絵の僅かな隙間に体を滑り込ませて、そのまま地を蹴り、絵の裏にある隠し通路へと入る。
主要な部屋が繋がっており、いざという時に王族が逃げ出せるようになっているものだ。存在を知っている者は僅かであり、当然ながら人気はない。真っ暗な闇の中だったが、ディアナは迷わず進んだ。急時ともなれば灯かりを点している余裕などない可能性もあり、灯り無しでも進めるように頭に叩き込んでいたからだ。
そのまま王宮の外に出ようと思ったが、途中で足が止まった。
――――気にしちゃダメよ。もう関係ないんだから。
そう思ったが、散々迷った末、ディアナは踵を返し――――見てはいけないものを見てしまった。
ルベウスは、ディアナが危篤状態に陥ったと知らされてからずっと、眠りが浅くなっていた。そのせいか、よく夢を見た。彼女の本質を知ろうとしなかった後悔が募っているせいか、ディアナが元気だった頃の事ばかりだ。
昨日は、旅立つ際に珍しくディアナが見送りに出てくれた時の夢だった。行ってくると告げた自分に、彼女は何か言いかけたが、その言葉を待たずに自分は騎乗してしまった。
あの時、ディアナは何が言いたかったのだろう。
動かぬ唇を見つめ、ルベウスは何度そう思ったか分からなかった。
だから。
「貴方、ひどいわ⋯⋯! あんまりよ!」
二度と開かないのではないかと恐れた瞳が、まっすぐに自分を見返していた。
殆ど表情を変えてくれなかった顔が、今にも泣きだしそうなほどに歪んでいた。
僅かな呼吸をするだけだった唇が、動いていた。
全身で怒りを露わにして、何故か自分の上に跨っている。その上、呆然としているのを詰るように、一度腹の上で跳ねたものだから、腹の痛みでルベウスは一気に目が覚めた。
ディアナは無我夢中で隠し通路から飛び出して、殺気だった目で寝台を睨みつけ、駆け寄った。そのまま寝台に飛び乗ったが、頭がぐらりと揺れた。意識までも朦朧として、必死で頭を振る。
相当、頭に血が上っているのだ――――と思った。
だが、これは看過できる事ではない。
呑気に寝ているルベウスを睨みつけ、猫の体なら良いだろうと、飛び乗った。
「ぐ⋯⋯⁉」
ルベウスが短い悲鳴を上げたが、ディアナはもうそんなことは構っていられない。彼の隣で寝ていた女はいなくなっていた。どうやら自分が去った後、部屋を後にしたようだ。それは何とか冷静に確認できたが、ルベウスと二人きりになった事で、よりいっそうカッなる。
「本当に⋯⋯何しているの⁉」
「⋯⋯ディアナ⋯⋯?」
思わず隣へ視線を向けかけたが、彼女はそれすらも許さないというように、更に畳みかけた。
「呑気に寝ていないで、起きなさい! 機を逃すわ! 今すぐ宝物庫のサファイアを全て売るのよ!」
「⋯⋯サファイア⋯⋯?」
ルベウスは戸惑った。彼女から受け取った書簡には、機を見て売れと確かに書いてあった。宝物庫には夥しい数のサファイアが溜め込まれてもいた。強欲とまで言われる程、以前からディアナは一部の宝石や原石に固執して、かき集めていたせいだろう。
彼女が一度も指を通すことのなかった結婚指輪の石も、サファイアを指定していた。宝物庫の中に保管されていたその指輪は、傷一つない綺麗な状態のまま置かれていた。
ディアナは余程、サファイアが好きだったのだろう――――売れるはずがない。
と、思ったのだが、ディアナは本気で怒り狂っていた。
「そうよ。今、市場で高騰しているはずよ。貴方、大儲けよ! これで国庫が潤うわ! 早く、早くして!」
襟首を掴んで、がくがくと前後に揺すってきたディアナに、ルベウスは目を見開き硬直したまま動けないでいる。絶句している男を見て、鼻息荒く迫っていたディアナはようやく我に返り、自分の姿に目を落とした。
「あら⋯⋯人の身体だわ⋯⋯?」
「なに?」
ようやくルベウスが言葉を発したが、ディアナも困ってしまった。
人間だった頃の体は死んで、とうに腐っているはずだ。今は猫の身体しかない。
だから、きっとこれは夢だろう。
「あー⋯⋯ええと、貴方があまりにやる事が遅いから、化けて出てあげたのよ? 良かったわね? いえ⋯⋯良くないわよね」
――――久々に人を罵るから、やり方を忘れたわ⋯⋯。
ディアナは目を泳がせた。茫然としていたはずのルベウスの目が、急に鋭くなったからだ。
「そうやって⋯⋯猫を被っていた訳か」
「いいえ?」
猫を被ったのではなく猫になったのだ、と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。そして、今更ながらに彼に跨っているなどというはしたない真似をしている事に気づき、慌てて横へと降りる。
また目の前がぐにゃりと歪む。
――――ほら、夢じゃない。
「私の事はどうでもいいから⋯⋯、売るのよ!」
朦朧とする中、ディアナは最後までそう訴えて、意識を失った。
「ディアナ!」
ルベウスは飛び起きて、一気に力を失って倒れこんだ彼女の体を抱きとめたが、胸から小さな光の玉が飛び出した。それは見る見るうちに姿を変えて、一匹の黒猫になった。
彼女の体を横たえて、ルベウスは黒猫にも触れた。
どちらの身体にも温もりがあった。ただ、猫の身体の方がずっと暖かい。ルベウスに触れられて、心地が良さそうに喉を鳴らし、寝台の上に丸くなって、すうすうと寝息を立て始めた。
一方、人間の体の方はどんどん冷えて、浅い呼吸を繰り返すだけで――――今までの姿となんら変わらない。
ルベウスは泣き笑いの顔を浮かべ、小さな猫になった妻を見つめた。
「⋯⋯そこにいたんだな、ディアナ」




