わたしは猫である
彼女は街の一角に流れる小川の畔に座って覗き込み、そこに映った自分の姿をずっと見つめていた。
もう小半時ほどそうしているが、自意識過剰な行為を見咎める者は誰もいない。
そこにたまたまやって来た男達が、彼女を全く気にする事も無く立ち話を始めた。
「女王陛下は背が高くて、腰が細いのは良いけどよ」
聞こえてきた二人の声に、ディアナは立ち上がって自分の身体も小川に映してみる。
――――今は胸と胴が同じくらいの太さね。腕も棒みたい。背が低いのは、まあしょうがない。
「まだ二十二歳だっていうのに、化粧が厚くて」
――――こんなにたっぷりの毛が顔にあるんだから、化粧はもういらないわ。
「そのくせ、白い服ばっかり着て清純ぶっておいて、四六時中手袋をして、旦那にさえ指一本触らせなかったらしいぜ!」
――――今は全部、黒よ。夫に⋯⋯うんぬんは合っているけれど。
男達の話に、彼女は逐一言い返していたのだが、誰一人として理解する者はいない。ただ、彼らが話を止めたのに気づいて顔をあげると、見慣れた嫌悪の眼差しが落ちていた。
「なんか⋯⋯この猫の毛と目の色、ディアナ陛下とそっくりだな」
「しっしっ。あっちに行けよ!」
男達に足蹴にされそうになり慌てて彼らから離れて川べりを歩き出したが、三角形の尖った耳は抜群で、『自分の噂話』が聞こえた。
「でも、危篤だと言うじゃないか⋯⋯もう、さっさと死んでくれないかな。ルベウス様がいるんだから、良いじゃないか」
――――同感よ。でも、心配しないで。さっき死んだから。
そして、私は《猫》になったのだ。
ディアナは足を止めて再び川に映った自分の小さな姿を見つめ、「にゃあ」と一声鳴いた。元々人間であった為か、人々の言葉こそ理解はできるが、自ら言葉を話そうとしても全てが猫の鳴き声になる。
膝まであった身体に絡みつくような長い黒髪は、今は長毛に変わっていた。
細目で吊り上がっていた目も、瞳の色こそそのままだったが、猫特有の大きな丸いものになっていた。細すぎて棒のようだと陰で言われていた身体は女らしいくびれもなく、ずんぐりむっくりしている。
他人と交流する言葉を失い、長く伸ばしていた髪も無く、鋭い眼光で周囲を怯ませていた目も無い。
王宮を歩いていたら不吉な色の猫だと嫌がられて追い出されたばかりだから、帰る家も無い。
かつて圧倒的な権力を振るっていた女王は全てを失い、今やどこにでもいる野良猫だった。
どこで寝ていようが、歩いていようが、誰も気にするものはいない。極端な事を言えば、もう一度死んだとしても、その辺の道端で転がって朽ち果てるだけである。
だが、川べりを歩くディアナの足取りは軽い。長いふさふさの尻尾を振って上機嫌に歩いていたが、突如聞こえてきた喧騒に足を止めた。
昼過ぎの街中であり市場が立っているとあって人々が大勢行き交っていたが、「退いてくれ!」と兵士達の怒鳴り声が響き、慌てて左右に割れて道を作る。そこを凄まじい勢いで駆け抜けていくのは、近衛兵団の軍旗を掲げた騎馬隊だった。
都の中央に位置する王宮へと向かう大通りの道幅は広く、人々が退いていたので、彼らは速度を落とす事無く馬を駆けさせる。
人々は何事かと目を見張り、そして騎馬隊に四方を守られるようにしながらも、自身も馬を駆けさせていた男の姿を見て納得した。
彼の名は、ルベウス。
一カ月ほど前に女王ディアナと結婚し、彼女の夫となった王配である。
新妻が危篤と訊いて、急いで帰ってきたのだろう。
あっという間に騎馬隊は過ぎ去っていってしまったため、人々に彼の表情を読み解くことは出来なかったが、ディアナの目はしっかりと夫を捉えていた。
騎馬隊がまき上げた砂塵を見つめ、昨日まで己の家であった絢爛豪華な王宮を遠くに望み、ディアナは一声鳴いた。
『⋯⋯あなた。私⋯⋯猫になったわ⋯⋯』
じっと見つめる黒猫は、何だか哀愁が漂っているように見えた。彼女が呟いたその言葉も、周囲の人々にはただの鳴き声にしか聞こえない。
だから、彼らは続けられた言葉も分からなかった。
『じゃあね!』
ディアナは心底嬉しそうに、結婚したばかりの夫に別れを告げた。