部屋に迷い入った小さな虫へ
訪れたあなた固有の光、あるいは個性、才能。それが多くのものに認められ絶対的な地位を得ることをあなたは空想します。
暗がりの中にスマートフォンの液晶がわずかな光を漏れ出しております。窓の外には電灯がまばらに立ち無機質な光を時折点滅させながら依然と発色し、その周りに多くの蛾が鱗粉と埃塗れの羽をはためかせており、その羽音は今にも聞こえそうなほどです。
さて、あなたはそんな数多の羽虫の隆盛から逃げ、脂に埋もれそうな、この小さなワンルームに入り込んできました。結果得られた僅かな光はあなた固有のものになり、終に思惑を叶えたわけですが、眺望は期待通りでしたか?
この部屋には物が散乱し、あなたと同じく呼吸を生き甲斐にする生物が今もひたひたと寝息を立てております。時折それは体を揺れ動かし、その度に光の周りの地面も振動するので、休むこともままならないでしょう。唯一縋ることのできる光も煌々とした星や点滅混じりの街灯と比較してあまりに小さく、空気こそ充満しているものの捕食できる生物の類はどこにもおりません。些細な光もまた温もりに欠け、独自の道に進んだあなたの顛末は決して幸多きものでは無いようにお見受けします。さらに悪いことに、揺ら揺らと息を吐いては吸って、苦しそうに呻きを漏らす生物はあなたを悪として捉え、夢見から醒めるや否や、あなたを一息に殺してしまうでしょう。
私は、そんなあなたを心の奥底から尊敬しております。
独自の道に進み、競争者が居ない中で唯我独尊めいた微笑の奥底に巨大な羞恥心を抑え込みながら、それでもと笑みを口角に残し、思考を辞め、ただ消え入りそうな小さな光に体を寄せるその臆病さが愛おしくて堪らないのです。いいえ、私はあなたを馬鹿にしてなどおりません。あなたは真に孤独を選び、その果てに頂点を得ているのです。頂点に立つことは決して容易なことでは御座いません。どんな道においても、それは素晴らしいことであります。
烏合の衆を圧巻している流行物ではなく、密やかに放たれ続ける猥雑な一部に心を寄せられるあなたの視野の広さたるや、本当に非凡なものであります。他の者から逃れることは、小さな心臓の私には容易にできることでは御座いません。並の者であれば周囲に倣って電灯や月や何かの肥大な光の集合に集り、その結果平均的なしかし大きな幸福を得て、その中で出会いと別れ、愛や友の類に恵まれ、それが平凡であることを自覚することもなく朽ちていくことでしょう。しかしあなたは違います。あなたはその平凡さを恥じ、自ら幸福の路を退いて、珠ならざる己が道を開拓したのであります。それ自体特別なことでなくとも、それが出来る者は限られております。少なくとも凡なる共存意識があれば出来ることでは御座いません。
果てにあなたが手に入れた独自の光は、確かに競争者が居りません。独占可能な光です。どうして恥じることがありましょう?どうして我田引水することがありましょうか?
窓際ではためいて他者の興味を惹く必要など御座いません。あなたはただそこで瑣末な光を壟断していれば良いのです。
もうどれほどの時間、窓から漏れ入る残光に夢を見たことでしょう。寝息を立てていた巨大な生物がむくと起きて寝起き眼にあなたの姿を捉えます。あなたの小さな羽は絶え間ない運動に疲れの色を浮かべております。巨大生物が二本の腕を高く上げます。その姿の大きいこと、あなたは終に飛ぶのを辞め、窓外の羽虫の大群に羨望の眼差しを送ります。
これで最期だとあなたは自らを見限り、巨大生物の思いのままになることを決意します。これで最期です。短な命、あなたは占有の光に熱情を焦がし、嫉妬すべき者も居ない中、ただ茫漠と街灯に集る羽虫たちに引け目を感じておりました。それでも自分より優れる者を見つけることは出来ず、あなたは死にゆきます。あなたは孤独に生きたのです。あるいは、そういう星に産まれたのかもしれません。孤独の中では比較することすら叶いません。あなたを支配する劣等感は意味を成さない感覚です。この瑣末な光に、あの羽虫たちのような取り巻きが存在してさえいれば。あなたは目前に在る光源の脆弱さを恨みます。この光さえもっと強ければ、あなたは新たな道を切り拓いた先駆者として畏敬の念を抱かれたことでしょう。あなたに倣って多くの者たちがあなたの光に集り、あなたの魂は永遠に語られるのです。
しかし、巨大生物は慈悲の心から窓を開け放ち、やにわにあなたの体を掴むと外に投げ出したのです。
あなたは他の大勢のもとへと駆け行きます。疲れから彼らのように忙しなく飛び続けることが出来なくとも、あなたに降り注ぐ光の大きなこと。燦々たる光は次第に活力を与えます。久方ぶりの光に感涙していると、体は熱を帯びて、羽虫は散り散りに去って行きます。日が昇ったのです。あなたは僅かに出遅れて日常へと戻ります。斜めなる生活が再び始まるのです。
再び日がビル群の影に隠れ、あなたは街灯に集ります。他の者たちとともに電球色の温もりに身を寄せ合い、出会いと別れを重ね、幸福の端緒を開きます。
ふと視線をずらせば昨晩の部屋が煌々と光を放ち、さらにずらせば愛する者が一心不乱に街灯へ街灯へと羽ばたいております。あの部屋の窓は閉め切られていますが、その光の強いために窓際で多くの羽虫たちが身をガラスへとぶつけております。あなたが昨日空想したあなたの後継者たちです。しかし彼らはあなたを知ることはないでしょう。あなたはもう、他の羽虫同然、点滅する無機物の光に集る直なる群集の一派なのですから。
あなたはその光に心の色を奪われ、胸中で悔恨の念が暴れ動きます。昨日のように、あなたは遠くの光に集る羽虫に羨望を抱いているのです。出遅れて手にした平々凡々な幸せは、もうしばし耐え忍べば得られたはずの唯一にして絶頂、珠ならざる幸福にして羨まれる明晰な立ち位置を喪失させたのです。
あなたは再び涙を流します。感動のためではありません。後悔のためです。隣にいる愛する者への注意は後悔に押しやられ、心の奥底で居た堪れなさそうに同調します。
そんなあなたの幼さが私には愛おしくてたまりません。それでも神に与えられた役割を熟すあなたが立派で、私はあなたを尊敬しております。今後ともあなたがそのままで在ることを祈っております。
己の才能の平凡さに絶望し、諦めてしまう。才能を磨くことに躍起になっていたせいで日常に大きな遅れを取ったあなたはそれを取り戻そうと動き出す。しばらくが経って正常なペースを取り戻したあなたは、見限った才能の有望さに気付き、しかし戻ることができない。それでも生きられるあなたの厚顔無恥さに尊敬を抱いて。