一重だった君へ
青春時代、私は君の瞳に魅せられて文字通り人生のターニングポイントを迎えた。人生において、正しいだとか間違っているだとかいう言葉は意味をなさないが、少なくともここまでの人生で数えきれないほどに後悔し、やり直したいと切望した一幕の、その主役が紛れもなく君だ。しかしながら、黒歴史のように扱ってしまいがちな出来事であっても、その最中においては人生は絶頂に思えたはずだ。
拝啓 一重だった君
君と別れてから五度目の雪解けが始まりました。大雪に覆われたアスファルトが黒く滲んで、表面にできた幾つもの割れ目に数枚の落葉が重なり、春に芽吹く強かな花のために栄養を落としています。
君は今、大阪で多くのことを学んでいるでしょう。
大阪の生活には慣れましたか?
人を愛する君のことだから、たくさんの友人に恵まれ、素敵な人に出会い、溢れるほどの愛情を受け取り、華やかな生活を送っていることと思います。
俺は今年二十歳になります。君の愛情に触れ、小さな子どものように君を求めた俺もついに大人の仲間入りです。大人というと、歯が浮くような心地になりますね。いくつ歳を重ねても、歳をとることに実感が湧かないから驚きます。過去を振り返らなければ、歳をとることを知らずに生きていけそうなくらいです。
俺は今でもたまに君のことを夢に見ます。熱にうなされる俺の心を慰めるように、君は夢に現れます。あの日、君は一重の大きな目でじっとりと俺を見上げて、特別な言葉をくれましたね。今では忘れてしまった言葉。その言葉は俺の身に余る激情を与えてくれました。当時の俺には抑えきれないほどです。言葉を忘れても、俺はずっとその意味を探し続けていたような気がします。
君は答え合わせをしてくれるかな?
きっと、君は曖昧に答えを濁して微笑むでしょう。俺はその微笑欲しさにここまで答えを探してきたのかもしれません。くだらないけど、そのくだらなさが俺を生かしています。
外を小鳥が鳴いています。西の空では真っ暗な雲が浮かび、俺の上では青天が大地を照らしています。長い時間をかけて、空は空気を温めます。雨が降るまで、少しの間昔話をさせてください。
君が俺の彼女になったあの日、俺はちゃんと話せていただろうか?
交わした言葉の一つも、今では覚えていません。とにかく俺は君から香る柔軟剤が何なのか、それだけが気になって仕方がなかった。どうして君は部活の後でもあんなに俺の心を焦らす匂いがするんだろう?
家の遠い君は、自転車に乗って、後ろで結った髪をなびかせて、その横で俺は火照る体を慰めるように風の音に耳を澄ましていました。焦るように、その時に向けて走っていました。
なぜだか、俺は急がなければならないと思っていた。多くの日々を無為にしてきたのに、その日だけは無駄にできないような気がしたんだ。今日を逃しても明日が来るだけなのに、明日じゃだめだったんだ。
夏の暮れで日が短くなっていたためかもしれません。
真っ赤だった夕焼けが、その頃には暗がりに浮かぶようになって、青黒い空が急かす季節の特性のためだったのかもしれません。うだるような日照りに流した汗が風に乾いて、さらさらと体を撫で、そんな夕焼けを見上げると、しょっぱい汗が永遠ではないような気がしたんだ。
大きなショッピングセンターの横を颯爽と過ぎ去って、長い坂を登ると君の住む住宅街が現れます。俺らはその坂のふもとで自転車から降り、自転車に挟まれるように並んで歩いたね。
通り過ぎる車の排気音、坂から見下ろす俺らの街、回る自転車のペダル、君の柔軟剤、沈んだ太陽、触れるハンドル、オリオン座の真ん中にある3つの星、太ももを伝う汗、住宅街に植えられた街路樹、教科書の入った重いリュック。
言葉にしてしまえば、過ぎ去ってしまうような些細な日常。
でもそんな日常に俺は今でも胸を焦がします。
強気な君が見せた柔らかな笑顔は、俺の心臓を強く掴みました。比喩ではなく、心臓が潰れるような痛みが走ったのです。痛くて苦しいはずなのに、俺はそれを待っていたような気がしました。
あの日からも、もう六年になるんだね。
俺が生きるのをやめようとした日、君は泣きながら俺の家に来たと聞きました。俺は病院にいたから君の泣き顔は見れずじまいだけど、涙を見せるほどに俺に気を許してくれたのが、本当に嬉しかった。
優しさで繋ぎ止める日常は、柔らかく心を包んでくれますが、喜怒哀楽の痛みはそれ以上に幸多いものです。
君の胸を刺した痛みを考えると、俺はなんだか嬉しくなってしまいます。だって、君の日々にそれほどの痛みを与えるくらい、俺の存在が大きかったということだから。
この手紙を書き終えるまで、俺は幾度と書き直し、その度に空を見上げ、気がつけば夜になりました。
西の雲は確かに近づいてきているけれど、雨なんて降りそうにない清々しい空です。
いろんなことを思い出し、君の存在が今も大きく胸に居座ることを確認し、君の笑顔が俺の感情を激しく揺らします。君の存在が今でも俺の彩りです。重いよね。
この重い愛情が、鮮やかな彩りをもち、光となって君の照らすことを夢見た数年が、俺を生かしました。暗くて小さな俺が、君に出会い、君の愛情が俺の明日を照らしました。これだけは事実です。俺の明日がどうであろうと、君がいたから、俺はそこに進めた。君の目がどんなに大きくなっても、変わることのない幸福です。
ところで、愛情の正体を君は知っていますか?
卑屈な俺だから分かったことですが、俺は、嫉妬や憎悪こそ愛情の全てだと思っています。だって、これほどまでに明日を切望させる感情は他にないから。暗いけど、暗がりの中で見つけた唯一の光です。嫉妬があるから、憎悪が俺の心臓を急かすから、光に触れられる。愛情がなんであれ、これだけは真実です。
きっと、この手紙が君に届くことはないね。
君に会うことももう、ないね。
俺の明日はどんな世界だろう?
そんな空想も、これが最後です。
長くなってしまいました。
最後に、これだけは言わせてください。
俺は君を愛しています。どんなに素晴らしい人が現れようと、俺は君のことが一等大好きです。
君の明日が素晴らしい愛情に照らされることを祈ります。
さようなら。どうかお元気で。
君との別れ、再開、そのいずれも私の心に深い傷をつけた。その最中においてもきりきりと傷つくばかりだった。それでも、いやそうであるからこそ、君は私を語るうえで最重要人物であり、今後も忘却することが出来ない存在、あるいは現在の私の内部の一部分であるのだ。