木洩れ日
五月の窓辺の日差しは妙に優しく、季節の変わり目特有の涼しい風が部屋の中に差し込んでいる。
俺はジッと君の横顔を眺めたまま、少し深く息をつく。
ため息とは違う、ほんの少しだけ深い呼吸の一つ。
文庫本に視線を落としていた彼女は俺の視線に気がついたのかゆっくりとこちらを向いた。
「どうかした?」
俺は首を小さく横に振って「なんでもない」と言った。
なんでもない、平凡な日常を、小さな部屋の中で過ごす。
手もとにあったノートを広げ、見開きいっぱいに空いた白に、文章をつらつらと書いていく。
想像力という海から、小さくその水を手ですくい上げ、それを頭からゆっくりと被る。
まるで波が寄せて返すように、白いカーテンが揺れた。
いくつか詩や小説のあらすじを書いて、筆がまた動かなくなって、短く息を吐いてノートから顔を上げる。
すると、今度はこちらを見ている彼女と目があった。
「進んでる?」
おもむろにそんなことを聞かれて、なにが、どこまで進んでいるのかということに頭を巡らせる。
おそらくは俺が今手に持っている文字たちのことだろう。
「まだ積み上げの段階だから進んでいるかと言われるとそうとも言えないかもしれない」
かなり曖昧な返しをする俺に、困ったような顔をして小さく笑う。
「今日こそは骨組みくらいは書かないとって君が言ってたじゃない。大丈夫?」
痛いところをついてくるなと、呑気なことを思いながら誤魔化すように伸びをして窓辺の椅子から立ち上がる。
「煮詰まってきたから、外にでもいこうかな」
俺はそう言ってハンガーラックにかかっていた薄い上着を羽織る。
こういうときは気分転換が必要だ。
今日は少し肌寒いが、幸い天気がとてもいい。
雲もぽつぽつ見える程度で空の大半は淡い青に染まっていた。
「じゃあ私も行く。帰ってこないと大変でしょ?」
「逃げたりしないよ、失礼だな…」
いたずらっぽい笑顔と声音で俺のあとに続くように立ち上がり、上着を取った。
部屋を出て、マンションの外へ行くと、遠くから聞こえるスズメの声が響き、窓際とはまた違った心地よさが全身を包む。
彼女の伸びてきた左手を捕まえて、何もいわぬまま歩きだす。
家から少し離れた比較的大きい公園。ここに越してきてから変わらぬ散歩ルートだった。
視線の先に、木の下にあるベンチを見つけて、俺たちは腰を掛ける。
木々の隙間から見える景色を、ただ眺めている。
風が吹いている。
「今日は本当にいい天気ね」
彼女が言った。俺は力なく「あぁ」とだけ返して肯定をする。
「なにか食べ物でも持ってくればよかったかな。サンドイッチとか、お茶とか」
「別にピクニックをしに来たわけじゃ」
「いいじゃない。お散歩がピクニックになっても」
少し強い、季節の変わり目の風が吹く。
窓辺とは少し違い、全身をその温度が包む。
それは気のせいかと思ってしまうくらい少量の、夏を帯びていた。
「これ、桜ね」
そう言われて光ではなく葉の方にピントを合わせると、確かに桜の葉だった。
もう随分前に散って、足元の花びらすら、今やどこかに行ってしまった。
「今年、桜見たっけ」
「どうだったかな。わざわざ見ようとはしてなかったかも」
日々過ぎる時間の背景の中にきっと写っていたのだろうが、俺たちはそれに気づかないでいたのかもしれない。
先ほど、彼女に言われてやっとピントを葉に合わせたのと同じだ。
「次、桜が咲いたら、ここにお花見をしにこようか」
「また遠い話だな。つい最近春が終わったばかりじゃないか」
「だからよ。今のうちにちゃんと決めとかないと」
そんなことしなくたって、君が行きたいといえば俺はいつでも…
そう言おうと思って、俺の口はなぜか動かず、喉に突っかかるように声が止まった。
「そうだな」
その一言を変わりに絞り出して、視界はまたゆっくりと広くなって、木洩れ日全体を写した。
風により葉が擦れる音、遠くに聞こえる人と鳥の声。
時間の流れの音が頭の中で響いている。
それが、確かに感じているはずなのに、どこか遠くに感じている。
二人の間にしばらく会話はなくて、それでも別段気まずいなどと思うこともなく、俺は手から伝わる体温と感触を確かめながら、ジッと上ばかりを見ていた。
「最近ね」
彼女が突然口を開いた。
「最近、同じ夢を何度も見るの。寒い冬、雪の中で横たわったまま、じっとあなたを待つ夢」
キュッと、手を握る力が強くなる。
「視界はモノクロで、寒くて、心細くて、しかたないの」
俺のあまの中には灰色に染まる世界で雪の降る町の中で静かに横たわる彼女の姿が浮かぶ。
その雪が、白だけじゃないことも、ちゃんと見えている。
「でもね、頭の箱の中から少しずつ漏れ出るように、昔あなたが書いた小説や詩の一節一節が私の中を泳ぐの。暖かな光と生きたいと思える熱を帯びたまま」
そんな夢。と彼女は話を区切った。
なんてことない、小さな悪夢。
だが、その一言で終わらせられないほどの、胸から湧き上がる虫。
俺は話を聞くために向けていた視線を下へ落とした。
「まるで、私が海の一部になったような、そんな感じがして…」
そこから先の言葉は、俺は知らない。
言わなかったのか、聞こえなかったのか、それとも覚えていないだけか。結果的に俺はこの先を知らない。
気がつけば彼女は目を瞑ったまま空を仰いでいる。
風に煽られて長く細い髪が揺れて、俺はそれを見ていた。
日光を反射してキラキラと光るそれに、手を伸ばそうかと魔が差して、それを止める。
触れてしまえば、溶けてなくなってしまうような気がした。
「ねぇ」
目を閉じたまま、彼女は俺を呼ぶ。
「どうした」
「なにか、書きたいものは浮かんだ?」
そこで少しハッとする。そういえばそのために家を出てきたのだった。
俺が本来の目的を忘れていたのを雰囲気で察したのか、彼女はくすくすと笑う。
「忘れていたの?」
「…少しだけ」
「珍しい。食事の時でさえ作品のことを考えているあなたが」
からかうように言う姿。俺は恥ずかしくなって、彼女が向けた目線から逃げるように顔をそらす。
「何か他に、大切なものがあったの?」
彼女の言葉に、俺は考える。
俺は、創作以外に一体何を大切にして生きていたのだろうか。
何を指針に、支えに、生きて来たのだろう。
花一つ残さず消えた桜の枝は静かに揺れるばかりだ。
もし、たった一つを残して俺から全て奪われるのだとしたら、何を残すのだろう。
そこの手元に残したいと思ったものが、きっと大切なもののような気がした。
「俺は、何かを書き続けることが俺の人生のすべてだと思っていた」
「うん」
「でもさ、それだけじゃ駄目だって気づいたんだよ。作品は俺の人生そのものだからさ。俺の人生が薄っぺらいと、きっと作品も薄くなる」
じゃあ、俺の作品を豊かにしていたものは、俺の人生を満たしてくれていたのがなにか」
「君だったんだよ。全部」
喧騒が響くカフェテリアの中で、俺を見つけてくれたその日から、俺の人生は、作品は、すべて君になったんだ。
「この時間が、君と過ごす何気ない日常こそが大事だって気がついたんだ」
彼女は少し間を空けて、「なにそれ」と静かに笑った。
「私達が恋人になったときより、熱いセリフね」
「そうだっけ?」
「そうよ。だってあなた『多分好きだと思う』、『作品を一番に読んでもらうためにも恋人になってくれ』なんて、めちゃくちゃなこといったんだもの」
思い出して、それがおかしかったのか、彼女の笑顔はよりはっきりしたものになった。
またも俺はバツが悪くて、思わず口ごもった。
見に覚えがあったからだ。
「でも、私はそんなあなたが好きだった。あなたの書く作品も、そこに映る人生観も、言葉も、世界も、全部好きだった。だから私は、あなたの横にいることを選んだんだよ」
手を強く握って、彼女はそうはっきり言った。
「もう、一人にしないでね」
頭の中に、その言葉が反響している。
きっと俺は、気づくのが遅すぎたんだと思う。
だからこんなふうに、足を止めた先で、言うしかなかったのだ。
「もう、間違えないから、大丈夫」
俺は手を強く握り返した。
「もう少ししたら戻ろうか」
彼女は小さく頷いて、目を瞑った。
視界があの木洩れ日のようにチカチカと揺れている。
俺は、これが夢だと知っている。
それでも幸せだったと、そう想っている。
ポケットに入っている手帳は、今も色褪せないまま、君のことを書き続けている。