6話
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「……ん」
顔に当たるくすぐったさに目が覚める。
軽い気だるさを覚えつつも、寝返りを打ち枕元に目をやるとニーアが丸まって尻尾をゆったりと揺らしながら眠っていた。
時折、揺れる尻尾の毛先が僕の鼻先を撫でるため、目覚ましの正体が判明した。
――意識を失う前、最後に見えたニーアの姿は限界が見せた幻覚に違いないだろう。
何度思い出しても、スヤスヤと眠るニーアと最後に見た幻覚では重なる部分が無さすぎる。やはりあれは夢だったろう、と意味の無い思考を頭を振って放り捨てる。
ニーアを起こさないよう、極めて慎重にベッドから降りる。
気だるさはありつつも、体の調子はすこぶる良好であったため、むしろ少しでも体を動かしたい、とうずうずしているくらいだった。
「……どこに、行くのですか」
ゆっくりと体を解していると、薄らと開いた扉からリューネが顔を出して消え入りそうな、力の無い声で口を開いた。
「体を動かしたくて仕方がないんだ。さっきの感覚から何か、何か思い出せそうで」
「駄目です、きっとまだ疲れているんだと思います、だから……」
「いや、でもほら、元気だし――」
心配してくれるのはありがたいが、自分を自分たらしめる記憶が思い出せそうなんだ。
僕はこの時、リューネよりも自分を優先しそうになり、様子のおかしい彼女の状態を認識していなかった。
お互いに引かない状況ながら、体を解し終えた僕は扉に手をかけようとしたその時、「駄目ッ!!」と悲鳴のように泣き叫ぶリューネが扉を開け放ち飛び込んできた。
外には出さない、とばかりに立ち尽くすリューネの顔は俯きがちでしっかりと確認することは出来ない。
キュッ、と両手で握られた手首に彼女の体の震えが伝わってくる。
「ダメです。今日は、まだ、休んでいなくちゃ、ダメなんです。休んでいて、ください……。お願い、します……」
その声はまるで何かに怯えているかのようにか細く、握られた手からは血の気が引いたように冷たく力が込められていなかった。
今までとは様子の違うリューネを慮り、僕は腰をかがめてリューネより低い目線で彼女と目を合わせた瞬間、僕はこの子を放っておく事なんて出来なかった。
記憶よりも先に、彼女の心の方が大切だから。
覗き込んだ彼女の瞳は黒く、澱んでいるかのように濁っており、まるで絶望の縁に立たされているかのように虚ろだった。
溜まった涙は落ちることなく留まっていたが、僕が安心させるように彼女の手に重ねると、堰を切ったかのように溢れ出し、ぽたりぽたりと床を濡らしていく。
リューネの呼吸は荒く、切羽詰まった様子の彼女を促し、ベッドの縁に並んで座らせた。
「きゅぅ……?」
いつの間にか目が覚めたニーアが、首を傾げながら膝に登って再び丸くなる。
リューネは声を押し殺すように泣くのを我慢しているようだったが、一度緩んだ涙腺は締まることなく、しばらくの間リューネは嗚咽を噛み殺そうと静かに泣き続けた。
その間、僕は何か声をかけようかと逡巡するも、「大丈夫、大丈夫だよ」なんて薄っぺらな言葉しかかけられず、自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。
「ぐすっ、ごめんなさい……。もう、落ち着きましたから……」
どれくらい泣き続けたのか、しばらくして嗚咽が止み、顔を上げたリューネは、腫れぼったい目元を隠しつつ、眉尻を下げながら何度も何度も謝罪をしていた。
それは今しがた目の前で泣いてしまったことに対するものか、はたまた別の事に対してなのか、僕には分からなかった。
リューネはそのまま、繰り返し謝り続け逃げるように部屋を後にしてしまった。
僕は結局、何も出来ずに横にいただけになっていた。こんな時、どうすれば彼女に寄り添えたのだろうか。もし記憶が残っていれば、なんと声をかけてあげられたのだろうか。
リューネが後にした部屋に一人残された僕は、在りし日に思いを馳せるかのように、あったかどうかも不確かな記憶に縋る。そんな自分を情けなく思いながらも、自分が縋れるのは記憶しかないのだと苦悩を繰り返す。
いつの間にか、僕を突き動かしていた衝動は消えており、体を動かそうなんて思いもしなくなっていた。
「記憶、か……」
ガロンの剣を前にした時に感じたあの衝撃は、間違いなく僕の無くした記憶と関係あるはずだ。
かと言って、記憶のために戦う事も何だかなぁ、と唸る事しか出来ない。
――出来ることならあるはずだ。
あの時気を失ったのは、間違いなく肉体が動きについていけていけず、突然課された負荷によって肺が潰れそうになったからだ。
あの時の弾けるような衝動と、蘇るような感覚。それともう一度出会うためには、まず肉体を戻す事が必要不可欠だろう。
そして、失った記憶を取り戻して、リューネの力になりたい。
あんなにも苦しそうに泣く子だなんて、思いもしなかった。もっとずっと、強い子だと勘違いしていた。しかし、少女である事は間違いない。誰かが、支えてあげないと彼女は折れてしまう。
その支える役はこの村の誰かでもいいし、僕でもいいはずだ。
それに、彼女は黙って泣いていた。何があったのかも言わず、堪えていたのが遂に耐えきれず、荒ぶる感情となって現れたに過ぎない。あんなになるなんて、既にリューネは限界なはずなんだ。
その原因について、リューネに聞くことも、聞かされる事も無かった。
分かっている。僕は部外者で、関係ない立場なんだって分かってる。相談もされなかった、なんてのはただの自惚れに過ぎないんだから。
「……はぁ。何だか疲れた、もう一眠りしよう」
有り余っていたはずの体力が抜け落ちたかのように気力が湧かない。
かと言って、すぐに眠れる程疲れきっている訳でもなく。
「……クソっ」
恩に報いる事すら出来ない無力さが後を引くように、口からついて出た。
翌日、扉をノックする音で目が覚めた。
昨日はあのまま落ちていたようだ。
「おや、起きていましたかクロハ殿」
「おはようミドウ。ちょうど良かった」
リューネは毎朝必ずどこかに出かけていて家には居ない。今日も同じなのか姿が見えない。ニーアは、ベッドの横のテーブルに置かれたご飯に頭を突っ込んでいた。
扉から顔を出したミドウを呼び寄せ、昨日あったことを話した。
「――ってことがあって」
「……ふむ、リューネの様子が、ですか」
「何か知っている事があれば、教えて欲しい。力になりたいんだ」
リューネはもちろん、ミドウにも沢山世話になっている。この恩はいつか必ず返したいと思っている。
しかし、意気込む僕とは反対に、ミドウは静かに声色を変えて答えた。
「知って、どうするのですか?リューネを救えるとお思いですか?自らの記憶すら曖昧なお方が、リューネを、ひいては黒の一族を救えるとでも?」
ミドウはそう言って、あからさまに線引きをして見せた。言外に、これ以上黒の一族の領域を荒らすな、と言っているのだろう。
だけれども、僕は命を救ってもらった恩を返すことなく立ち去ることなんて出来やしない。それは記憶があろうと無かろうと関係ない。
これは、僕の矜恃が許さないのだ。
「そんな大それた事をするつもりはない。出来ることは限られているし、力もない。でも、そんな僕でも、話を聞いてあげるくらいのことは出来るようになりたいんだ。だから、ミドウ。僕に力を貸してほしい」
僕はただひたすらに、リューネの力になりたいが為に、ミドウに頭を下げる。
関係のない第三者だろうと、白の民や黒の一族だろうと関係ない。
記憶が無くても、僕は、今ここに存在する僕は、リューネの力になりたいと思ったんだ。その為に出来ることをすべきなんだ。
「きゅっ!」
下げた頭の上にニーアが飛び乗ってくるのが分かった。それでも、僕はミドウの答えを待つしかない。
一分か、二分かそれ以上か。
静寂が部屋を満たしたその時、ミドウが口を開いた。
いや、それは開いたと言うより、漏らしたと言うべきだろうか。
「ぷっ、く、はははは!クロハ殿、さぁ、顔を上げてくださいな」
頭に乗るニーアの重さがフッと消え顔を上げると、ニーアを抱えて大笑いするミドウの姿があった。
「これは、これは。いやはや、クロハ殿は変わっていますね。貴方の心には白の民も、黒の一族も何も非ず。それは記憶が無いが故なのか……。いえ、今日まで見てきたから分かります。クロハ殿だから、ですね」
ミドウの語る内容がまるで分からず、僕は首を傾げる。これは事情について語ってくれるのだろうか?
笑っているという事は、どういう事なんだろうか。
抱えていたニーアを僕の膝に戻すように置くと、ミドウは膝を叩きながらニヤリと口角を上げた。
「クロハ殿になら教えましょう。リューネの異変は、我々黒の一族の存続に関わる悪しき風習を」
そうして、ミドウは黒の真実を語り始めたのだった。