序
読んでいただきありがとうございます。
「ん……、うぅ……」
水っぽい何かが頬を撫でる感触で目が覚める。
それと同時に、体の近くで何かが動いたのも感じる。しかし、思ったように体が動かないことに加え、周囲の暗闇によって視界はゼロに近かった。
体が鉛のように重く、少し動かすだけでも全身に鈍痛が走る。
そして何よりも、体の芯から冷え込んでしまっているようで、体の震えが止まらない。
「と、灯せ、光源」
周囲の明度を上げることに加え、光の放つ熱により、僅かながら体に熱が取り戻されていく。それでも底冷えするような寒さは大して変わらないが。
動き回れるだけの体力はなかったものの、魔力に関しては問題無さそうだ。
生み出した光源に暖を取るために両手をかざしていると、暗闇に紛れるような黒い体毛の動物が近寄ってきた。
尖った鼻先に、丸く小さな二つの耳。
胴長なフォルムはしなやかに見え、豊かに蓄えられた毛先の束が尻尾を織り成している。
小さなつぶらな瞳がこちらを見上げ首を傾げている。
「きゅぅん?」
一瞬魔物か、とも思ったが、コイツ以外に他の反応が無いの見ると、どうやら先程動いたものの正体はコイツのようだ。
後ろ足で立ち上がり、前足で差し出すように持っているのは木の葉に掬われた雫だった。
「お前が、助けてくれたのか?」
指の腹で頭を撫でると、「きゅ〜」と鳴いて、手に持った雫を差し出してくる。
僕がどのくらいここで倒れていたのか知らないが、その間コイツが面倒を見てくれたのだろうか。
ありがとう、と伝わるか分からない感謝を告げて、木の葉から口元に流し込む。
ほんの一滴程度ながら、粘り気のある液体が喉を伝う。
「ん、甘い……?」
僕が飲んだのを確認すると、黒い動物は喜びを表現するように鳴きながらその場でクルクルと回り出し、そのまま僕の足に擦り寄ってくる。
光で照らしてみると、黒く見えた体毛は土埃などでくすんでいるようだった。
「おいで」
手のひらを差し出してやると、すんすんと匂いを嗅いでから器用に肩まで登ってきた。
「きゅっ」
首元まで辿り着くと、まるでマフラーのように巻き付いて落ち着いた。
ちょっぴり獣臭がするものの、ずっと暖かい。
僕はお礼とばかりに、光源の数を三つに増やして暖を取る。
光源は赤の魔法なのでこうして熱を放つが、白の魔法では白光を放つため、熱は生まれない。
白の魔法が不得手な点がこんな所で役に立つとは。……いや、そのために学んだ赤の魔法が役に立っているんだ。それとこれとは話が違うだろう。
……どうしてこんな事は覚えているのに、自分の事となると思い出せないのだろうか。
右を見ても左を見ても暗闇が続くだけ。
下は冷たい地面に、上は天井知らずの呑み込まれそうな暗闇。
ここは一体何処なんだろうか。
かろうじて思い出せるのは、知識として身に付いている魔法や、ほんの少しの自分だけ。
暖を取りつつ、思い出せる範囲を整理しておこう。
僕の名前は、クロハ。クロハ・ヴォルドゥーク。
白の王国の男爵家出身。
厳しくも温かみのある父様と、優しく支えてくれる母様に育てられてきた。
……後は、確か……、兄妹がいた気がするのだけれど、顔も名前も出てこない。
記憶の整合性も曖昧で、証明するための物も何も無い。しかし、何も持たずにこんな所まで来る訳がないんだ。
荷物も、外套も、武器も何も見つからない。
ただただ心細さが募るのみ。
……この記憶は、本当に僕のモノなのだろうか。
途方もない暗闇に押しつぶされそうになり、僕は自分自身の事さえ疑い始めてしまう。
「きゅ?」
思わず泣き叫びそうになった所で、首元がくすぐったくなると、黒い動物が心配そうに顔を覗き込んでいた。
……しっかりしろ、自分を疑う前に、やるべき事があるだろう。
こんな所で諦めたくなんてない。
目が覚めたのも奇跡に近いはずだ。それも、今首元で丸くなって眠るこの子のお陰。
恩人ならぬ、恩獣と言ったところだろうか。
とにかく、今は少しでも体力を回復させて移動したい。ここより左手、恐らく奥から感じられる何かに対して、危機感が警鐘をかき鳴らしている。
それに、いつまでもこの場所が安全とは限らない。
と言っても、ここを抜けた先が安全とも限らないのだけれど……。
少しでも情報を手に入れられるような場所へ向かいたい。
――僕がどうしてここに居るのか。
残る記憶は、魔法に関しての知識。
そして、家族のことだけ。
ひとまずの目標としては、家族の元に帰ることを目指そう。記憶の跡を追うのはその後でいい。
心配をかけてないだろうか。
特に、母様は心配性で、父様もそれに煽られていなければ良いのだが。
――あぁ……、家族に、会いたいなぁ……。