終わらない初恋
「終わらない初恋」
わたしはあの人のことが忘れられない。誰にも言えない。この恋心は本来あってはならないものだから。
わたしは資産家の家庭に生まれ何不自由なく暮らしてきた。
許嫁がいたり、マナーに厳しかったりと多少窮屈な所はあるがそれは当たり前のように思えていたし、許嫁も決して嫌な人ではない。
そして、わたしには兄がいる、とても優秀な兄。この家の跡を継ぐのは兄で、わたしはいずれ家のため嫁がされる。その負い目もあるだろうがそれでもよかった。わたしはとても愛されて甘やかされて育てられているのだから。
いつもなら送迎がつく帰り道だが今日に限っては徒歩で帰路についていた。理由は単純だ、ただそういう気分だったから、それだけで許されるほどわたしの家庭はわたしに甘い。
この、甘さが後に悲劇を招くとは誰も予想していなかったのだろう。わたしでさえも。
気がついた時わたしはとても狭い恐らくアパート?の一室にいた。最後の記憶は学校からの帰り道を歩いていた、それしか覚えていない。なぜわたしはこんなところにいるのだろうか。
拘束されているわけではないのでさっさと帰ろうと立ち上がろうとしたその時、部屋のドアが開き男性が現れた。それなりに容姿は整っている、少なくともわたしの許嫁よりは美形と呼ばれる顔かもしれないそんな男性だった。
「貴方は誰?ここはどこかしら?」
自分のおかれた状況にまだ気がついていないわたしは単純に思ったことを口にした。
「俺はそうだな、お前からすると誘拐犯だ。ここがどこかは言えない」
誘拐犯?一瞬理解ができなかった。確かに見知らぬ場所ではあるが拘束もされていないし、特にどこかが痛むわけでもないそれに目の前の男性がそれ程悪い人にも見えない。現実味がないが、確かにわたしは資産家の娘。誘拐される理由はある。そして少し体に感じる気だるさ恐らく何かの薬品でも使われたのだろうか。
未だに現実味には欠けるが状況が誘拐されたということを顕著に表していた。暫く何も考えられずにいたが徐々に状況を理解し始めると恐怖が生まれてきた。誘拐犯の目的はなんなのだろう。やはりお金だろうか?恐怖に苛まれながらもわたしはゆっくりと震える唇を開いた。
「も、目的はお金?それならパパはすぐ支払ってくれると思うわ。」
わたしは両親に愛されている自信がある。わたしの許嫁はかなりの権力をもった家庭の長男であるからだ。たとえ打算でもそれが両親の愛だとわたしは思っている。余程の額じゃない限り直ぐに支払いをしてくれるだろう。わたしのことを第一に考えてくれるだろうし、警察には恐らく通報していない。何よりも金持ちというものは揉め事を嫌うものだ。
「そんな単純なものじゃない。俺が望んでいるのはお前の家の破滅。いや、正確にはお前の兄の破滅。」
誘拐犯の要求は予想外のものだった。兄の破滅?何故?わたしの頭は混乱に陥る。そしてわたしの頭に少しだけよぎる不安。兄とわたしを天秤にかけた時両親はわたしを選んではくれるだろうか。愛されてはいた。でも跡取りの兄より愛されている自信はない。助けてくれると信じたい。だが、今まで考えないようにしていた両親がわたしを愛してくれていた理由、いや愛してくれていたと思い込んでいただけではないのか、そんな考えが頭をいっぱいにする。
「お前に罪はないが、少しだけ我慢してくれ。」
不安に苛まれているわたしに投げかけられた誘拐犯の言葉は思っていたよりも優しい声色で紡がれた。やはり悪い人には見えない。誘拐という手段をとらなければいけない何かをわたしの家が兄が冒したのだろうか。
いや、騙されてはいけない。この優しくみえる男性は誘拐犯決して油断はしてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
「な、なぜわたしの兄を恨んでいるの?」
「知らない方が幸せだと思うが。」
知らない方が幸せ?それはわたしのためを思っての言葉?誘拐犯の魂胆がわからない。拘束もされていないし、恐らく誘拐された時に使われた薬品もそう酷いものではなさそう。本当にわたしを傷付けるつもりはないのだろうか。
「暫くお前には不自由な生活をしてもらうことになるだろう。出来るだけのことはしてやる。なにか要望があればいつでも言え。逃がしてほしいというのはさすがに聞けないがな。」
やはりこの誘拐犯がわたしを傷付けるつもりはなさそうだ。
世間知らずなわたしの甘い考えなのかもしれないが事実、今わたしは誘拐されたこと以外なにも不自由はしていない。ただ一つだけあるとするならば…。
「お前はやめてほしいわ。わたしにも名前はあるもの。優里亜。そう呼んでちょうだい。あなたの名前は教えてくれないだろうから誘拐犯さんと呼ばせてもらうわ」
わたしの唯一の要求に誘拐犯さんは少しだけ驚いたような表情を浮かべる。何故だろう。もうとっくに恐怖心などなかった。これが女の勘というものなのだろうか、目の前の誘拐犯さんはわたしに何もしないと何故か確信めいたものを感じていた。
「わかった。優里亜、そう、呼ぼう。俺のことは好きに呼べばいい。他になにかあるか?」
「もうわたしの両親へは連絡はしたの?一体誘拐犯さんの要求はなに?」
「連絡はとっくに済んでいる。思っていたよりも優里亜が目を覚ますのが遅かったからその間にさせてもらった。要求は優里亜の兄の過去の罪を告白してもらいたい。もしくは優里亜の兄に死んでもらいたい。」
兄の罪?わたしはなにも知らない普段の兄はとてもいい兄だ。わたしにも優しくしてくれている。そんな、兄が一体なにを?だが目の前の誘拐犯さんが嘘をついているようにも思えない。何かの誤解だろうか?
「兄に罪なんてないはずよ。何かの誤解じゃなくて?とても優しい兄なのに。」
「優里亜には隠しているだけだろう。お前の兄は俺の姉と父を殺した」
ころした?意味がわからない。そんなのニュースにもなっていなければわたしは全く知らない話だ。今、兄は父の会社に就職しとても綺麗で優秀な女性と結婚し順風満帆な人生を過ごしている。そろそろ子供も産まれる予定だ。決して犯罪者などではない。もし本当に殺したのだとしたらそんな生活は送っていないはずだ。
「兄がそんなことしているわけがない。第一警察にも捕まっていないし、もしそんなことをしていたら普通に暮らしてなんかいないはずよ!何かの誤解よ!一体兄がいつどうやって殺したって言うの!?[#「!?」は縦中横]」
わたしの言葉を聞いた誘拐犯さんは少しだけ唇を歪める、それは哀れみの笑みにも見えれば何かを悔やんでいるような表情にも見えた。
「知らない方が幸せだと思うがそれでも知りたいか?」
わたしは言葉には出さず静かに頷く。きっと何かの誤解だ。話を聞けば兄に罪がないことがわかるだろう。そうしたらわたしは解放されるはず。今ならまだ間に合う。わたしも誘拐犯さんも。
「これはお前の兄が中学三年生の時の話だ。その時俺の姉は中学一年生だった。家は幼い時に母が亡くなった父子家庭で家族は父と姉と俺だけだった。父は仕事で殆ど家にはいなく家の事は幼い時から姉がやっていた。俺はそんな姉を尊敬していたし、母親のようにも思っていた」
誘拐犯さんは悲しげなどこか昔を懐かしむようなそんな顔をしながらぽつぽつと話し出した。
「ある雨の日のことだった。学校から帰宅した姉は何故か制服が乱れ泥にまみれていた。理由を聞くと『転んじゃった』と無理矢理作ったような笑みを浮かべながら答え、汚れを落とすためだろう浴室へと消えていった。今ならその時にすぐ、なにがあったかわかっただろう。だがその時の俺は小学四年生。そのまま姉の言葉を鵜呑みにしてしまった。」
話の流れから嫌な予感がしてきた。わたしだって馬鹿ではない乱れた制服、泥まみれの格好、すぐに浴室へと向かう女性にら何があったかはさすがに想像ができる。
「何があったかは優里亜にも理解は出来ただろう。思っている通りだ。姉はお前の兄に強姦された。」
はっきりと突きつけられた言葉、わたしはショックを隠せない。あの兄が?未だに何かの間違いじゃないかと祈っている。
「それでも姉はそれ以降決して悲しむ姿を見せることはなくいつも通りに過ごしているように見えた。だがあの事件から数ヶ月後。俺が家に帰るとそこには…」
誘拐犯さんが泣きそうな表情で言葉を詰まらせる。嫌だ、聞きたくない。でも誤解があるとしたらちゃんと聞かないと、もう何となく誘拐犯さんの言っていることが真実だろうと悟りながらもわたしはまだ兄を家族を信じていたかった。
「そこにはっ、首を吊った姉の姿があった。その時の絶望がわかるか?母親のようにも見えた姉の無残な姿。首吊りの遺体なんて決して綺麗なものでは無い。俺はその場で嘔吐し涙が止まらなかった。しばらくなにもできず呆然としていると父が帰宅した。父も俺と同じようにショックは受けていた。でも早く姉を解放してあげたかったのだろう。父は姉をロープから下ろすと無駄だと分かっていながらも救急車を呼んだ。だがとっくに姉の命はついえていた。そしてその時に判明した、姉は妊娠をしていた。」
涙ながらに語る誘拐犯さんの話は信じたくない信じられないものだった。同じ女として誘拐犯さんのお姉さんの苦しみは充分にわかる。自然と私も泣いていた。
「遺書はなかったが、事件性が薄いために自殺と判断された。気付いたら姉の葬儀が行われ姉のいない日々が始まっていた。俺はこのあたりの記憶は殆どない、聞いた話によるとショックのあまり引きこもっていたらしい。父もショックだっただろうに、俺を養うために必死に働き今まで姉が行っていた家事などもやってくれていた。またそれが悲劇をうんだんだ。父は過労のあまり倒れ亡くなってしまった。それが俺が小学校を卒業しようとしている年のことだった。俺は全てを失った。」
「もう、やめてっ…。わかった、わかったから…。これ以上はわたしも誘拐犯さんもつらいだけよ!」
わたしはこれ以上聞いていたくなくて誘拐犯さんの言葉を止めようとした。だが、誘拐犯さんはまだやめない。涙を流しながら今までのことを話していく。
「俺は他に身内もいなかったため、施設に預けられることになった。引越しをするということで必要なものを纏めたり遺品整理をしている時に姉の部屋で日記を見つけてしまった。そこなら書かれていた内容は…」
『○月○日
許せない。悔しい。なんで私がこんな目に。あの男が憎い。お金持ちだからって、いい気になって、わたしをめちゃくちゃにした。死んでしまいたい。なんでわたしなの?でもわたしがいないと家が困る。乱暴されたなんて父には言えない。耐えなきゃ、耐えなきゃ。』
『○月○日
あの男に会うのが怖い。学校に行きたくない。でも家族に心配はかけられない。我慢しなきゃ、犬に噛まれたようなものよ。あの男を人間だと思わなければいい。わたしは汚れてなんかいない!』
「こんな内容の日記が何日間も続いていた。とっくに姉の精神状態は限界だったのに、幼い俺は気づけなかった。徐々に感情のままに汚くなっていく字。涙ながらに書いたのだろうところどころのインクは滲んでいた。そして姉が自ら命をたつ前日の日記がこれだ」
『○月○日
わたしはあの男の赤ちゃんを孕んでしまったようだ。あの悪魔のような男の。父には言えない。子供には罪はないがあの男の子供なんて産みたくもない。中絶費用なんてない。あの男に話せば出すかもしれないが中絶には相手の名前がいる。あの男は書類にはサインしないだろう。どうしようもない。もうわたしは…』
「とっくに壊れてしまっていた姉がいきついた考えが自ら命をたつことだった。そしてそのショックや忙しさもあり数年後には父が過労死、全てこの日記の男が悪いと俺は悟った。だが日記に男の名前は記されていない。俺は何年もかけて真相をはぐりついに突き止めた。犯人はお前の兄だということを。」
誘拐犯さんのお姉さんの日記の内容は聞くに耐えないものだった。同じ立場だとして恐らく薬品でもわたしも父には打ち明けられないし、お姉さんが追い詰められていく気持ちが同じ女として理解できた。涙がとまらない。でもまだ兄だという確信はないのでは?その少ない可能性をまだ信じたい自分がいる。
そして泣きながら語る誘拐犯さんをわたしは恨めない。むしろそんなに苦しんでいるのにわたしには酷い対応をしなかったり、内容を聞けばわたしに話したくなかったのは優しさだというのもわかってしまった。もしこれが本当に兄のおこしたことなのだったらどうやって償っていけばいいの?
「俺は施設にいれられていたため、暫く犯人探しができなかった。日記を警察に見せたところでとっくに自殺で処理されてしまっているし、未成年の犯行。今さら調べてはくれないだろうし、こんな日記を人の目に晒したくもなかった。そこの施設では高校を卒業するまで俺の面倒を見てくれていた。何をしていても俺の中にある怒りが消えることはない、就職し施設を出たあと俺は姉の学校にいた富裕層の男達について調査を始めた。仕事に時間がとられるためたまには探偵を使ったり金は惜しまなかった。俺は最低限の生活ができればいい。どうせ復讐を果たしたら犯罪者となってしまうのだから。そしてある日ついに俺は犯人を突き止めた。お前の兄が昔の悪友と会い酔っている時にそばで聞き耳をたてていたら決定的な言葉が聞こえたんだ」
「そういえばお前昔一度受験のストレスで女に乱暴したことあっただろ?その女が自殺してたって知ってたか?」
「耳には入っていたよ。内申のために家の親も色々と画策したみたいでおかげでいまだに俺のことは表沙汰にならなかったしな。あの女が変な遺書を遺してなかったのが幸いだ。まぁ、父子家庭だし、家の為なら自分を犠牲にするタイプに見えたから選んだんだけどな。ああいうタイプは通報しないだろ?もし、通報したら親の権力で父親が働いてる会社倒産させるって脅しといたしな。」
「信じられない発言に思わず俺はその場で殴りかかりそうになったが必死に歯を食いしばって耐えたさ。ここで殴って終わりじゃ復讐になんてならない。あいつには死ぬよりもつらい選択をしてほしいと思った。」
嘘であってほしかった。だが兄が誘拐犯さんのお姉さんを襲ったことは事実なようだ。わたしは兄が好きだった、でも今は?両親も兄も信用ができなくなってきた。汚いことはしていないと信じていたかった。だが思っていた以上にうちの家庭は汚れていたようだ。わたしにだけなにも知らせなかったのはいずれあの家の人間ではなくなるから?所詮嫁がせるしか価値のない女だから?愛されていたのではなかったの?まだ愛はあると信じたい。兄がここで罪を告白してくれればまだわたしは家族を信じられるかもしれない。
「本当は同じ目に合わせてやろうかと優里亜を誘拐したんだ。肉親がめちゃくちゃにされる気持ちを味あわせてやろうと。あいつの嫁と迷ったが嫁には変わりがいるだろう?代わりのいない妹を姉と同じ目にあわせてやるつもりで攫ったんだ」
誘拐犯さんの気持ちはわかる。そうされても仕方ないとすら思える。家族の罪は家族で背負うものだろう。でも何故誘拐犯さんはわたしになにもしないのだろう。
「じゃあ、なんで、どうして、わたしに酷いことをしないの?眠っていたのでしょう?チャンスならいくらでもあったはずなのに!」
「できなかった。寝ている優里亜を見ていると優里亜に罪がないと言うことはわかっていたから、体が動かなかった。優里亜の家に連絡するときにはお前がしたのと同じことをすると兄に伝えはした。でも、俺はっ、あいつのような汚い男にはなりたくない。罪もない優里亜を壊すことはできない…」
そういって誘拐犯さんはその場に崩れ落ちた。拘束もされていない今もしかしたら逃げれるかもしれない。でも傷心の誘拐犯さんを置いて逃げることはわたしにはできなかった。気がついた時には誘拐犯さんをそっと抱き締めていた。誘拐犯さんも疲れているのかなにも抵抗しない。静かに私の腕の中ですすり泣く声が聞こえる。私も涙がとまらない。この感情はなに?いま、わたしは家族より誘拐犯さんの方が信用できる気すらしてきた。
「今日はもうこのまま眠りましょう?どうせ警察には通報してないわ。」
わたしが一声かけると誘拐犯さんは眠りについてしまった。
つくづく犯罪者には向いていない人。眠ってしまったらわたしが逃げるとは考えないのだろうか。でも、逃げる気がおきないわたしも相当馬鹿なのかもしれない。誘拐犯さんを抱きしめたままわたしも眠りについてしまった。この時が永遠に続けばいいのにとすら思った。
だが、現実というのは無情である。翌朝アパートの周りに人が集まる気配がした。誘拐犯さんは色々と疲れていたのだろうまだ眠っている。窓の隙間から覗くように外を見るとそこにはわたしの家が雇ったのであろうSPのような服を着た人物が何人かいた。その時にわたしは悟った。ああ、やっぱりわたしの家庭はわたし自身の身の安全よりも兄を護ることにしたのだろうと。本当は薄々気が付いていた。決して綺麗な仕事ばかりしている家ではないと。わたしのことも愛しているようでただのものとしてしかみていなかったこと。甘やかしていたのもわたしが素直に許嫁と結婚するようにしたかったから。それだけのことだと。知らないふりをしていたかった。でも、やっぱり兄、いや家の体裁を守るために警察には言わず要求も飲まず内々に処理するのね。
わたしの中の感情は哀しみよりも諦めの方が強い。誘拐犯さんを起こそう。このままじゃどんな目にあうかわからない。警察に突き出すことはないだろう。犯行動機が知られたらまずいからだ。その時にわたしの家がくだす判断は最悪の場合…。
逃げて欲しい。この人は悪い人ではない。悪いのはわたしの家なのだから。
「誘拐犯さん、起きて。わたしの家の手のものが来ているの。」
誘拐犯さんは目を開きわたしの方を向いて少しだけ笑みを浮かべる。一体どんな感情で?諦め?哀しみ?自嘲?わたしは思わず泣きそうになる。
「潮時か…、悪かった。巻き込んで。」
笑いながらそんなこと言わないで、思わずそんな言葉をはっしそうになるがわたしは感情なるべく抑えて口を開く。
「わたしの手を何かで拘束して。そしてわたしがこのまま外にでて誘拐犯さんは買い物に行ったまま昨夜から帰ってこなかった。わたしは何もされてないから探さなくていい。誰かもわからない人だからと、伝えるわ。足も何かで拘束した跡をつけて、外に助けが見えたからなんとか足の拘束を外して逃げたことにする。誘拐犯さんは万が一部屋を調べられても見つからないようにどこかに隠れて。なるべく部屋にはいれないように頑張るけど。」
わたしの言葉に誘拐犯さんは目を丸くする。こんな時なのにそんな表情もできるのね。と内心ほっとしてしまう。
「なんで…、俺は優里亜を、誘拐した犯人だぞ?何故助けるような真似をする。同情だとしたらいらない。」
わたしは部屋にあった本来は使う予定だったのであろう麻縄で自分の片足を思い切り縛りながら答えた。そして彼に両腕を差し出した。
「悪いのはわたしの家。誘拐犯さんは悪人ではないわ。思い直して、復讐ならわたしがいずれ違う形で遂げてみせるから。決めたわ。わたしが嫁ぐ家はわたしの家よりも権力がある。時間はかかるでしょうけれど、わたしはその家を乗っ取ってわたしの家を潰すわ。それで許して。もしかしたら成功しないかもしれないし、長期にかかるものだけれど、誘拐犯さんは犯罪者になっちゃだめ。お願い普通の人に戻って?ほら、早くわたしの腕を拘束して?」
誘拐犯さんは何もいわず戸惑ったような表情を浮かべながらも、わたしの手首を麻縄で固定する。まだ納得がいかないという顔をしているけれどそろそろ時間がない。このままでは無理矢理突入してくるだろう。
「わたしはわたしの家の罪を背負うわ。それで許してちょうだい。誘拐犯さんのお姉さんも復讐なんて望んでないはず。わたしの家のように悪どいことに手を染めないで真っ当に生きてね」
わたしは言いたいことだけいうとまだほうけている誘拐犯さんの頬にそっとキスをしてアパートを出た。別れ際の誘拐犯さんの顔は子供が泣いているようにすら見えた。わたしは涙をこらえて外にいた家の手のものに誘拐犯さんと打ち合わせた通りの話をする。後暗いことがあるからだろう、わたしが無事だと確認すると特に部屋を調べることも無くわたしを車に乗せて家へと向かっていった。最後の誘拐犯さんの顔が頭から離れない。まるで母親に置いていかれる子供のような無垢な泣き顔。
やはりあの人は悪い人ではない。そうわたしは確信した。
これからのわたしの人生は決して楽なものでは無いだろう。
家族を疑いながら、そして代わりに復讐を遂げるために許嫁すら騙さなければいけない。今までの世間知らずなお嬢様ではいられない。今からでも勉強をしなくてはいつか誘拐犯さんの願いを叶えるために。
お姉さんがすぐに命を絶たず迷ったのもこういうことだったのね。守るものができると女は強くなれる。誘拐犯さんのお姉さん天国から見守っていてください。貴女の弟さんの道がそれないように。そしてわたしが貴女のため、いえわたしに初めて芽生えた家族への憎しみと誘拐犯さんへの淡い想いにかけて、かわりに復讐を遂げるところを。
色々と勉強しているうちにわかったことだけれど、世間ではわたしのように加害者に恋心や同情心を抱くことをストックホルム症候群というらしいわ。でもこの持ちはそんなものではない。だって未だにこんなに胸が張り裂けそうだもの。
今更だけれど一つだけ後悔していることがある。結局名前を聞けなかったこと。聞いておけばよかった。最初で最後の愛しい人の名前くらい。
わたしの復讐が無事おわるまで、わたしの初恋が終わることはないでしょう。