むかつく後輩に脅されています。
※ヒーローがへたれでチャラ男でアホです。ヒロインがBL漫画を描いてます。
「デキる女には秘密があるって言うけど、マジなんすね」
相楽義明がにやにや笑いながらこちらを見る。サラサラした黒髪、女子社員にきゃあきゃあ言われる端正な顔立ち。要領がよく、残業をしているところは見たことがない。なんでこいつが、こんな遅くまでいるのよ。
私は原稿をぎゅっと抱きしめた。
「だ、誰にも言わないで」
「え? 何をっすか」
とぼけてんじゃないわよ、このチャラ男。
「私がBL漫画を描いてるってことよ!」
完全に油断した。残業中、誰もいないのをいいことに、BL漫画の原稿を机の上に置きっぱなしにしてしまったのだ。コーヒーを淹れに行っている隙に、相楽が原稿を見てしまった──。
「べつにいいじゃないですか。ホモが好きでも」
「す、好きとかそういうんじゃない。これは、仕事よ」
私はもともと、人気少年漫画のBL同人誌を作っていた。そのとき知り合った編集者が縁で、時折雑誌にオリジナル漫画を載せるようになったのだ。
「じゃあなんで隠すんですか。みんなに見せたらいいのに」
「見せられるわけないでしょ!」
BL漫画を描くのはだいすきだ。でも他人に話すことはできない。この会社では、完全なる「一般人」として振舞っているのだから。
「隠すってことは、大して好きじゃないんじゃ?」
知ったようなことを──あんたに何がわかるのよ。私はぎゅっと唇を噛んだ。
「とにかく、黙ってて。いいわね」
素早く荷物を片付け、急いで出入り口へ向かう。エレベーターの階数ボタンを押しまくっていたら、相楽がやってきた。
「せんぱーい、原稿一枚落としてますよ」
「はっ!?」
私は慌てて、相楽から原稿をひったくる。そうこうしているうちに、エレベーターのドアが開いた。急いで乗り込むと、相楽も乗ってくる。私は閉ボタンを押しまくった。閉まりかけたドアに足を挟んだ相楽が、ぎゃあ、と叫ぶ。
しゃがみこんだ相楽を残し、エレベーターは下へと向かう。ドクドクと心臓が鳴っているのがわかる。相楽、大丈夫かな……いや、あんなやつどうでもいい。
私は心を落ち着け、深呼吸した。──大丈夫。相楽が言いふらしたところで、しらばっくれればいいのだ。
エレベーターがエントランスに着くと、ポーン、と音が響いた。私はヒールを鳴らし、エレベーターから降りた。
★
相楽義明は、5歳年下の後輩だ。年齢は23歳。彼は一年前、私のいる部署に配属された。
「嬉しいなー。こんな美人が指導係で」
初顔合わせの時、相楽はニコニコ笑いながら言った。私は相楽を見て、冷たく告げた。
「辞める時は辞表を出してね。電話やメールじゃなくて」
新入社員の面倒を見るのは三人目だったが、前の二人を思うと、こいつにも期待できそうにない。私はそう考えていた。相楽はけらけら笑った。
「辞めませんよー。せっかく大手に就職したのに」
調子のいいことを言う。笑い事ではない。私が世話した新人二人は、両方三カ月以内でやめていったのだ。しかし言葉通り、相楽は一年持った。あのお調子者は、意外にも要領がいい。そして何より、取引先にウケがいいのだ。
だが私は、相楽義明が気に入らない。いかにもなチャラ男だからだ。いつも女子社員にきゃあきゃあ言われてるし、きっと二股とかしているに違いないのだ……。
翌日、私は晴れない気持ちで部署に向かった。相楽とどんな顔で会えばいいのだ。重い足取りでフロアに入ると、同僚が声をかけてきた。
「あ、吉永。相楽から連絡があったよ。半休とらせてください、だって」
「え、ええ、わかったわ」
もしかして、病院に行っているのか。思いの外、私が挟んでしまった足が重症なのだろうか? もやもやしているうちに、外回りの時間になった。会社を出て、取引先へと向かう。応接室に通され、書類を差し出した。
「部長、こちらが我が社の新しい商品で……」
部長は私の話を遮り、
「相楽くん、今日いないの? 今度一緒に釣りする約束したんだけどさ」
いつの間にそんな約束を。
「え、ええ……相楽は、少し体調が悪く、半休をとっておりまして」
「ええっ、大丈夫かな? どこが悪いの? 夏風邪が流行ってるからねえ。悪化しないといいけどなあ」
部長は甥っ子を心配するおじみたいな顔をした。あの男は、男女問わず年上にやたらとちやほやされる。私には全く理解できないが、熟年の心をくすぐる何かがあるらしい。
「相楽も部長にお会いしたかったと落ち込んでおりました」
「後でメールするよ。あげたルアーセットの感想も聞きたいし」
ルアーセットって……なかなか高額なはずだ。相楽は愛人か何か?
……いいかもしれないわね。50代と新人社員の恋。私がよからぬことを妄想していたら、携帯が鳴り響いた。
「はい、吉永です」
「あっ、先輩」
相楽だ。
「今どこですか? 合流します」
「いいわ。一旦社に戻るから」
私は通話を切り、部長に笑顔を向けた。
「それでは商品の説明をさせていただきます」
部長と別れ、自社へ戻る。フロアに向かうと、相楽がデスクからひょこっと顔を出した。
「あ、先輩。おはようございます」
「!」
私はギョッとした。相楽は全身傷だらけだったのだ。腕と足は包帯でぐるぐる巻き、デスクのそばには松葉杖が置かれている。端正な顔には、打撲のあとがあった。
「ど、どうしたのよ」
「あー、昨日エレベーターで足挟んだじゃないですか。思いの外重症だったみたいで、足がうまく動かなくて」
相楽はあっけらかんと言った。
「今朝アパートの階段降りてたら、バランス崩しちゃって。そのまま階段落ちました」
「ごめんなさい」
私は真っ青になった。まさか、そんな大ごとになるなんて。
「治療費を出すわ。いくら?」
「あー、いいですよ、そんなの」
相楽はにこっ、と笑った。
「それより、腹減りません?」
立ち上がろうとしたら相楽を、私は慌てて支えた。
「座ってて」
「大丈夫っすよ」
「いいから。何か買ってくるわ」
私は相楽を座らせ、弁当を買いに向かった。ブースに入り、声をひそめて話す。
「全治どれくらいだって?」
「んー、三カ月ですかね。骨がくっつくまで時間かかるらしくて」
相楽はサンドイッチを咀嚼する。いくら気に入らない後輩でも、傷ついた姿を見たら胸が痛む。それも、私のせいなのだ。
「ほんとにごめんなさい。私にできることなら、なんでもするわ」
「なんでも?」
そのとき、相楽の瞳が輝いた気がした。
「な……なによ、その顔は」
「んー、いいこと思いついちゃって」
相楽がキャスターを転がし、私に身を寄せた。私は反射的に身を引く。
「俺と付き合ってください」
その言葉に、私は目を丸くした。
「な……なに言ってるのよ」
「嫌ですか?」
「私は送迎とか、そういうことを手伝う、って言ってるの」
「でも、俺んち近いし。ごはんとか作りに来てもらいたいです」
「それは、付き合わなくてもできるでしょう」
じりじり後ずさっていたら、壁に背中がついた。相楽が上目遣いでこちらを見る。
「付き合ってなきゃできないこと、先輩としたいな」
彼の手が私の手に触れたので、びくりとする。
「バカ言わないで」
私は相楽の手を振り払った。弁当箱を片付け、慌てて戸口へ向かう。背後から呻き声が聞こえてきた。
「あ、痛っ……」
振り向いたら、相楽が腕を押さえていた。私は慌てて彼に駆け寄る。
「大丈夫? ごめんなさい。そっちの手に当たった?」
相楽がくく、とわらう。こちらを見る目は緩んでいる。
「先輩って優しいですよね。そういうとこ好き」
「騙したの!? このチャラ男!」
彼はスマホを取り出し、こちらに向けた。
「先輩の描いた漫画、みんなに見せちゃおっかなあ」
「な……」
画面に表示されているのは、私の描いたBL漫画。
「消しなさいよ、ばか!」
手を伸ばしたら避けられた。相楽は唇に弧を描く。
「怪我が治るまでの三カ月、俺のことは義明、って呼んでくださいね、ゆり先輩」
「……っ」
私はぎりぎりと歯噛みした。
★
「ねえ相楽くん、怪我大丈夫〜?」
「ごはんとか大変じゃない? 作りに行こっか?」
女子社員たちが上目遣いで相楽に話しかける。触れるか触れないかのボディタッチ付きだ。相楽は笑顔で返した。
「大丈夫です。適当に済ませるんで」
大丈夫なら、さっきの言葉も撤回しなさいよ。私は内心毒づいた。
就業時間になり、フロアには人がまばらになってきた。残っているのは、相楽とそれを取り巻く女子社員だ。私が打ち込みをしていると、相楽がキャスターを転がし、こちらにやってくる。
「せんぱーい、まだ帰らないんですか?」
「仕事が残ってるの」
「早く帰ってBL漫画描きたいでしょ」
私が睨みつけると、相楽がにやにやした。むかつく……。女子社員たちは粘っていたが、相楽の反応が芳しくないのを悟り、こちらをチラチラ見ながら去って行った。私は相楽を横目で見る。
「あなたも早く帰ったら。よく眠ると、骨がくっつくそうよ」
「先輩がキスしてくれたら帰ろっかな」
「ばかじゃないの」
「先輩って口悪いですよね。そこも好き」
全くよく口が回ることだ。私は相楽を無視した。カタカタとキーを叩く音だけが響く。相楽はくるくる椅子を回したり、スマホをいじったりしていたが、よたよた立ち上がって歩いていく。ようやく帰る気になったか。そう思っていたら、奥からがしゃん、という音が聞こえてきた。
「!?」
私は慌ててそちらへ向かった。給湯室で相楽が倒れている。
「ちょっ、大丈夫!?」
「痛え……」
駆け寄って抱きおこす。彼の足元には、プラスチックのコーヒーカップが散らばっていた。
「なにしてるのよ」
「先輩にコーヒー持ってこうかな、って」
相楽は叱られた犬みたいな顔をしている。
「自分でやるわよ、それくらい」
私はため息をついて、相楽を立たせた。
「座ってなさい。私が淹れる」
「すいません、先輩」
相楽は心なしか肩を落として、ひょこひょこ自分の席へ戻っていく。まったく。私はコーヒーを淹れ、フロアに戻った。相楽はちんまり椅子に座っている。
「はい」
カップを差し出すと、相楽が顔をあげた。本当に顔だけはいい。私の好みじゃないけれど。
「ねえ、あなたならお世話してくれる彼女の一人や二人いるでしょう」
「二人っておかしいでしょ。先輩、俺にどんなイメージ持ってるんですか」
「そんなイメージよ」
「……ひどいっす」
相楽がむくれた。
「俺結構一途なんですよ。ここ一年くらい、彼女いないし」
「ああそう」
果たして、それが一途だということの証明になるだろうか?
「先輩もいませんよね、彼氏」
「だったら何」
もっとも、彼氏なんていたことがないのだが。
「ちょうどいいですよ、俺たち」
「なにがちょうどいいの」
「二人とも恋人いないし、先輩は微妙なやつから告られたとき彼氏いる、って断れるじゃないすか」
「告られることがないから必要ないわ」
「そんなことないです、先輩綺麗だし」
「はいはい」
私はコーヒーカップを置いて、パソコンに向き直る。
「早く帰りなさい。明日もあるんだから」
「先輩つめたい。俺、彼氏なのに」
「ごめんなさいね。構ってくれる優しい子と付き合いなさい」
カタカタキーボードを叩いていたら、目の前にスマホが差し出された。私が描いたBL漫画の画像がでかでかと待ち受けになっている。
「!」
私はスマホを掴もうとする。相楽はさっ、とスマホを引いて、ニヤニヤ笑う。
「パソコンの壁紙にもしちゃおっかなあー」
「この……なにがしたいのよ、あなたは」
「さよならのキスがしたいです」
「この世から永遠にさよならしたいなら叶えてあげるわよ」
私はキーボードを構えた。
「ちょ、備品壊しちゃまずいっすよ」
相楽は自身の頰を指差した。
「ほっぺでいいから。ね?」
私は相楽を睨みつけ、彼の襟首を引っ張った。背伸びして、頰に触れるだけのキスをする。相楽はじっとこちらを見て、ニコッと笑う。
「へへ。先輩とキスしちゃった」
「は……はやくかえりなさい」
「はぁい」
相楽はご機嫌で帰っていく。
「……なによ、あの笑顔。ほんとムカつく」
暗いパソコン画面に映り込んだ私の顔は、トマトみたいに真っ赤だった。
★
相楽の彼女(?)になってから三日。本日は国民の休日である。今日ばかりは何かとまとわりついてくるうざい後輩に会わなくて済む。
そして、絶好の作業日でもある。
私はヘアバンドで髪をまとめ、すっぴんプラス部屋着姿で原稿を描いていた。けして同僚には見せられない姿だ。しかし、私はこうやって漫画を描いている時が一番幸せだ。いい表情が描けて満足していたその時、スマホが鳴り響いた。
「はい、吉永です」
「あっ、先輩。俺俺」
私は反射的に通話を切った。間髪入れず、また電話がかかってくる。
「……なによ、相楽」
「なんで切るんすかあ」
「いま原稿で忙しいの」
「日曜日だし、二人きりで会いたいです」
なぜ日曜日まで、うざい後輩に会わなければならないのだ──。
「そんな暇ないわ」
「なら、俺が先輩の部屋に行きます。それならいいでしょ?」
「はあ? ちょっ」
いきなり通話が切れた。私は怪訝な顔でスマホを見る。なんだったんだ? まあいい。原稿の続きを描こう。カリカリペンを走らせていたら、インターホンが鳴った。なんだろう? 見本誌が届いたのだろうか。
「はーい」
私はペンを置いて、玄関に向かった。がちゃりとドアを開くと、松葉杖をついた相楽が立っていた。
「どーも、郵便でーす」
「ちょっ」
彼はふざけたことを言いながら私の脇をすり抜け、室内に入ってきた。キョロキョロ辺りを見回す。
「ここが先輩の部屋かー漫画がたくさんありますね」
「ちょっ、勝手に見ないで」
相楽は足をひょこひょこ動かしながら、本棚に向かう。一冊抜き出して、パラパラめくった。
「なんかこの本薄くないすか? え、これで800円? たかっ」
私は相楽から同人誌を奪い取る。トレース台を掲げて、低い声で言った。
「命が惜しければ座りなさい」
「いや、それ壊れたら先輩が困るでしょー?」
相楽がけらけら笑った。図星だからムカつく。私はコーヒーを淹れて、相楽に渡した。
「なんでうちを知ってるの」
「原稿入った封筒に書いてあったので」
「大人しくしててよ」
「はぁい」
相楽はクッションにもたれ、ニコニコ笑った。返事だけはいいのだ、こいつは。カリカリペンが走る音が室内に響いている。やけに静かだな……。
ちらりと振り返ると、相楽がすやすや寝ていた。人んちにきて速攻で寝るとか、なんなの、こいつは。
寝息を立てるたび、長い睫毛が揺れている。手に持ったカップが、落ちそうになっていた。危ないでしょうが。私はため息をつき、カップを取り上げる。
「ん〜、ゆり先輩〜」
私はぴたりと動きを止めた。
「やめてくださいよ、いてっ、うわっ、それ投げたら死にますって」
どんな夢を見てるんだ、こいつは。
「ちょっと相楽、こんなとこで寝ないで」
彼を起こそうと肩に触れたら、その手を掴まれた。
「!」
片腕で引き寄せられて、相楽との距離が縮まる。私を見つめる、相楽の瞳が緩んだ。
「あ、あんた起きてたの」
「先輩、すっぴんでも美人ですね」
質問に答えなさいよ。そう言う前に、相楽の唇が近づいてくる。私は慌てて、彼の頭をおさえた。
「なにしてるのよ」
「だって俺たちカレカノだし。キスくらい普通でしょ」
唇が近づいてくる。私はぎゅっと目を瞑った。──ちゅっ。
相楽の唇は、額に落ちた。おそるおそる瞳を開いたら、彼はじっとこちらを見ていた。目が合うと、嬉しそうに笑う。
「先輩のおでこ、すごい可愛い」
「……っ」
私は真っ赤になって、相楽を押しのけた。
玄関に向かった相楽は、私に手を振る。
「じゃあまた月曜日に」
「明日もあんたに会わなきゃいけないなんて最悪」
私は目をそらしながら言った。
「俺は嬉しいです。先輩とずっといっしょにいられて」
「うるさい。はやく帰りなさいよ」
「はぁい」
相楽が出ていって、私はずるずる体勢を崩した。ドクドクと心臓が鳴り響いている。
──あぶなかった。
あんなの、あいつは慣れっこなんだろう。キスも、もちろんそれ以上も。
「……ばか……」
相楽にキスされた額が、妙にじんじんとしびれていた。
★
翌朝、エレベーターに乗り込むと、松葉杖をついた男が私に続いた。
「先輩、おはようございます」
「お……はよう」
私はじりじりと相楽から離れた。相楽が不思議そうにこちらを見る。
「なんで離れるんすか?」
「べつに」
相楽は私にひょこひょこ寄ってきて、顔を覗き込んだ。
「な……なによ」
彼は私の髪をかきあげ、にこにこする。
「先輩、おでこ出したほうが可愛い」
「年下のくせに、可愛いとか言うんじゃないわよ」
「可愛いのに年齢は関係ないですよ」
そのとき、ポーン、と音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。私は慌てて、相楽を押しのける。エレベーターに乗り込もうとした人物が、私たちを見て足を止めた。
──あ。私はどくん、と心臓を鳴らす。
彼は緩く微笑み、
「久しぶり。吉永さん」
「え、ええ」
私は彼から目をそらした。相楽が何か言いたげにこちらを見ている。なんなのよ。こっち見るんじゃないわよ。私は逃げるようにしてエレベーターを降りた。相楽が後ろからついてくる。
「先輩、あの人誰?」
「べつに……ただの知り合い」
それ以上詮索されないように、私は相楽に書類を渡す。
「これ、今日の外回りリスト。チェックしておいて」
「あ、はい」
相楽がリストをめくっている間に、私は自分の席に向かう。パソコンの前に座って、息を整えた。仕事をしなくちゃ。余計なことは考えない。ふとパソコンを開くと、メールが届いている。メールを開いて見て、私はハッとした。差出人は三井弘次。
from:三井弘次
to:吉永ゆり
_____________________
本文
少々ご相談したいことがあります。都合のいい時間を教えてください。
「……」
私はカタカタとキーを打ち、送信ボタンを押した。
時計の針が十二時をさして、フロアから人が出払う。私は席を立ち、相楽に告げた。
「相楽、お昼食べておいて。一時から取引先に行くから」
「先輩は?」
「私は、ちょっと用事があるの」
相楽は不可解そうな目でこちらを見る。私は彼を振り返らずに、フロアから出た。
チリンチリン、とドアベルが鳴り響く。中に入ると、窓際の席にいた男性が手を挙げた。近寄っていくと、三井は笑顔を浮かべる。彼は吸っていたタバコを灰皿に押し付け、
「よかった。着信拒否されてるかと思った」
「そんなこと、しません。仕事のメールが入るかもしれないから」
私は三井の前に座る。注文をとりにきたウエイトレスに告げる。
「すぐ帰りますから」
「食べないの? お腹減るよ」
「大丈夫です」
三井は肩をすくめ、
「さっきの彼、恋人? エレベーターの」
「……後輩です」
「仲よさそうだったね」
「あなたには関係ありません」
「彼は知ってるの? 君が……」
私はぎゅっと拳を握りしめた。
「知ってます。BL漫画を描いてること」
「そうなんだ。へえ」
それでも彼は平気で君に近づくんだ。奇特な男だね──。三井の顔にはそう書かれていた。濡れた服を着ている時のような不快さが、身体にまとわりつく。
「話がそれだけなら帰ります。これからは、私用で社内メール使わないでください」
私は立ち上がる。
「悪かったよ」
三井の声に、足を止めた。
「なんていうか、君があんなの描いてるなんて知らなかったからさ。ちょっとびっくりしただけなんだ」
「……だから?」
「あの話、もう一度考えてみてよ。時間をかければ理解できると思うし」
私は、三井に笑顔を向けた。
「あなたに理解されなくても大丈夫です」
振り返らず、そのまま喫茶店を出た。
会社に戻ると、相楽がひょこひょここちらに寄ってきた。
「先輩、お帰りなさい」
呑気な顔を見ていると、苛立ちが募る。
「ちょっといい」
「え、うお」
私は相楽を引っ張るようにして、会議室へ連れていく。会議室に入ると、相楽は不可解そうにこちらをみた。
「どうしたんすか」
「画像、消して」
「はい?」
「はやく。スマホ出しなさいよ」
私は相楽の胸ポケットに手を突っ込む。
「ちょっ」
彼は慌てて私の手を退けた。
「何してるんすか」
「……漫画のこと知られたくないの、誰にも」
「なんかあったんすか?」
相楽はそう尋ねたあと、くん、と匂いを嗅いだ。すっ、と目を細める。
「……タバコの匂いがしますね」
私はぎくりとした。相楽が低い声を出す。
「先輩、タバコ吸いませんよね? 誰と会ってたの? さっきの男?」
「あなたに、関係ないでしょう」
相楽がじりじりと近づいてくる。後ずさりした私の背中が壁についた。
「キスしてください」
「……嫌よ」
「なんで? 約束したじゃないですか。三カ月、彼女やるって」
相楽が私の頰に手を添えた。彼の唇が近づいてくる。私はびくりとして、顔をそらす。相楽が唇を止めた。かすれた声で尋ねる。
「俺のこと、嫌い?」
「……嫌いよ」
するりと頰から手が離れた。
「……画像、消しといてください。携帯の中にしかないんで」
私にスマホを渡して、相楽が会議室を出ていく。バタン、と閉まったドアの音に、私は身体を震わせた。
その夜、帰宅した私は相楽のスマホを手にしていた。
「……」
画像を全て消去してやったのに、なぜかもやもやする。あいつ、スマホがなくて困ってるんじゃないだろうか。
そう思っていたら、相楽のスマホが鳴り響いた。私はびくりとして、震えるスマホに目をやる。
え、どうしよう。勝手に出るのはためらわれた。でも、重要な要件だったら困るだろうし。私は迷った末に、電話に出た。
「はい、相楽義明の携帯です」
「あれ? 女が出た」
聞き覚えのない声がした。
「もしかして、ゆり先輩さん?」
「え……はい」
先輩さんという独特の呼び方が引っかかる。
「あの、俺、相楽のダチなんすけど、あいつめちゃくちゃ酔ってて。なんかあったのかなって」
通話口から賑やかな音が聞こえている。どうやら彼は、飲み屋にいるようだ。
「相楽、大丈夫なんですか?」
「いやあ、ひどいです。ゆり先輩ゆり先輩うるせーし。悪いんですけど、店に来てもらえませんか」
「でも……」
「お願いします。手に負えないんですよ」
「……わかりました」
私は相楽の携帯を手に家を出た。送信された地図をもとに店へと向かう。よくある居酒屋だ。店内に入ると、飲み屋独特の喧騒が耳をついた。
「いらっしゃいませ」
店員が近寄ってくる。その声に次いで、聞き覚えのある声が響いた。
「あーっ! ゆり先輩だ!」
真っ赤な顔の相楽が、座敷からこちらを指差していた。視線が集まってきて、私は赤くなりながらそちらへ向かう。座敷には相楽ともう一人、同年代くらいの青年がいた。
「なあ、向井。俺の先輩美人だろ」
相楽がヘラヘラ笑いながら、青年の肩をたたく。
「はいはい」
向井はため息を漏らし、私に会釈した。
「すいません、来てもらっちゃって」
多分電話の人だろう。声が同じだ。
「いえ」
「ゆり先輩も飲みましょうよー」
相楽がヘラヘラしながら酒瓶を差し出してくる。私は酒瓶を取り上げた。
「あっ、何するんすか」
「あなた、明日も仕事でしょう。もう飲んじゃだめ」
相楽は恨めしげにこちらを見て、ぷいと顔をそらした。
「もーいーんすよ、仕事なんか辞めるし」
「は?」
「ゆり先輩に振られたから、あの会社にいる意味ないし」
「……」
「釣りとかして無人島で暮らそっかなー」
「あなた、バカなの?」
「え、ぐえっ」
私は相楽の襟首を締め上げた。
「松井物産の部長はあなたのこと気に入って、高い釣り道具までくれたんでしょう! その厚意を踏みにじる気!」
「せ、先輩、くるしい」
「女に振られたから仕事を辞める? 今まで三人新人を見て来たけど、あなたはそのなかで一番の馬鹿よ!」
手を離したら、相楽がゴホゴホ咳き込んだ。向井が慌てて相楽に寄り添う。私は、冷たく相楽を見下ろした。
「少しは骨があると思った私がバカだったわ。辞めるなら引き継ぎの期間があるから、早く辞表を書きなさい」
「先輩、まって」
相楽がよたよた追いかけてくる。私はそれを無視して歩いていく。店を出て橋を歩いている途中で、ばたっ、と何かが倒れる音がした。振り向いたら、相楽が地面に転がっていた。足を抱え、痛みに呻いている。
「……何してるのよ」
私はため息をついた。相楽に近寄っていき、彼を抱き起こす。
「大丈夫?」
相楽はかぶりを振って、私にぎゅっと抱きつく。ぎゅうぎゅう抱きしめられて、私は眉を寄せた。
「痛いわよ。離しなさい」
「辞めないから、嫌いにならないで」
「嫌いよ、最初から」
要領が良くてお調子者で、やけに熟年層に好かれる。私はそう他人と上手くやれるタイプじゃない。天然で他人を惹きつける相楽が、嫌いだったんだ。
「私はあなたが大嫌い。辞めようがどうしようが、構わないわ」
「……」
相楽がう、と呻いた。
「は……吐きそう」
「はあ!? ちょっ、待ちなさい」
私は慌てて、相楽を近くの公園に連れて行った。
静かな公園に、虫の音が響いている。真っ赤な顔の相楽が、ベンチに寝転がっていた。
「……すいません、先輩」
「本当、最悪ね」
私は、相楽の傍に座った。彼に飲料水を差し出す。相楽はそれをひとくち飲んだ。私は彼の頭を見ながら口を開く。
「……エレベーターであったひとは、本当にただの知り合いなの」
相楽がこちらを見上げた。酔っているせいで、瞳が潤んでいる。
「たまたま同じ喫茶店で会って。たまに話すようになって。同じ会社だってわかって……」
──俺と、付き合ってくれませんか。
三井はそう言った。だけど私はすぐに頷けなかった。BL漫画を描いていることを、告げるのはためらわれた。
「ある日、喫茶店に原稿を忘れたの。三井さんは書類だと思ったんでしょう。多分、中身を見た」
「……それで?」
「彼は喫茶店に来なくなった。そのかわり別の店で、受付の子と一緒に食事してるのを見たわ」
「ひっでえ男」
「私のことを、べつに好きじゃなかったんだと思う」
彼からしたら、私は付き合ってもいいかな、程度の女だったのだ。でも、私は『奇妙な』趣味を持つ女だった。それで、何人かいた交際候補から脱落したに過ぎない。私は勝手に悩んで、勝手に傷ついた。彼の考えを見抜けなかった。経験がないからだ。情けない。
相楽がむっとした顔でこちらを見ているので、どうしたの、と尋ねた。
「先輩は、あいつのこと好きだったんでしょ」
「……初めてだったから。男のひとと、一緒にいてドキドキしたの」
「すごいむかつく。俺のほうが、先輩のこと好きなのに」
「脅したくせに」
「だって先輩、俺がくどいても無視するし」
「口説かれたことなんかないわよ」
「飯とか誘っても、他のやつ連れてくるし。美人ですね、って言ってもスルーだし」
あれは口説かれていたのか。
「あなたが言うと軽いのよ、全てが」
「どうすればいいですか」
相楽がすがるような目でこっちを見る。
「先輩にふさわしい男になりたい」
彼は私のこと、実際以上によく見えているんだろう。でもそれは、まやかしだ。いずれ冷める気持ちに過ぎない。そう思ったら、なぜか切なかった。さあね、と私は言った。
「あと5年くらいしたら、少しは重みが出るかもね」
「遠すぎますよ」
「そうでもないわよ。5年なんかすぐだから」
「じゃあ、あと5年は会社辞めません」
相楽は珍しく真面目な顔で言った。単純なんだから。なんだかおかしくて、私は思わず笑う。
「頑張りなさい、義明」
「!」
相楽ががばっと起き上がる。
「な、名前! いま名前呼びましたよね」
「さあね」
「呼びましたよ! もう一回呼んでください」
「嫌よ」
「いいじゃないですか、ねーねー、先輩」
相楽が私のスーツを引っ張る。ああ、うるさい。こんな馬鹿を引き止めるようなこと、言うんじゃなかった。
見上げた夜空には、一等星が光っていた。
★
三カ月後、相楽が満面の笑みでVサインした。
「じゃーん。ギプス取れましたよ」
「よかったわね」
「へへ。これで先輩のことぎゅってできる」
相楽が私を抱きしめようとする。私はその腕をさっ、と避けた。相楽が唇を尖らせた。
「むー。なんで避けるんすか?」
「もうあなたに脅される材料はないからね」
画像は消去したし、怪我は治った。時刻は五時。今日は珍しく早く帰れる。
「帰って漫画描くから。じゃあね」
フロアを出て歩き出したら、相楽がついてきた。エレベーターの前で、簡単に追いつかれる。私が睨むと、彼がにっこり笑う。まったく、怪我なんか治らなければよかったのに。
エレベーターに乗り込むと、相楽が私を抱きしめてきた。
「ちょっ」
「一階に着くまでぎゅってしてていいですか?」
彼は私の首筋に、すりすり頬ずりする。
「……嫌よ」
相楽がくすくす笑った。
「先輩って天邪鬼っすね。そういうとこ好き」
「ばかじゃないの」
エレベーターの鏡に映りこんだ私の顔は、真っ赤だった。
むかつく後輩に脅されています/end