第15話 誓い
東京都江東区 東京国際クルーズターミナル
『押さないでください! 落ち着いて、前の人に続いてください! 割り込みなどの行為は、大変危険です!』
国防軍や警察が、数十万の群衆に向かって必死に呼びかける。しかし、一人としてそれに耳を貸す者はいなかった。
既にターミナルロビーには波のように人が押し寄せ、混乱は建物の外にまで及んでいる。兵士や警官が周囲を取り囲み、どうにか暴徒化を防いでいるという状況だった。
首相による緊急声明から約2時間、国民の大半が日本脱出を図ったことで、列島中がパニックに陥っていた。全国の埠頭は勿論のこと、閉鎖された空港にも人々が大挙し、航空機を奪おうとしている有様であった。
無論、このターミナルもその例外ではなかった。悲鳴や怒号が絶え間なく響く。不安や焦燥に蝕まれ、人々は冷静さを失っていた。
「押すなよ!」
「なんで進まないんだ!?」
「お母さんどこ!? お母さん!!」
「赤ちゃんがいるんです! 押さないでください!!」
一歩動くのも不可能なほどに、人がすし詰め状態になる。誤ってその場に転倒した人が何十何百回と踏みつけられ、全身の骨を砕かれた。
それほどまでに多くの人が殺到していたが、埠頭に係留されているのは2隻のフェリーだけだった。当然ながら、全員が乗船することはできない。群衆がそれに気付くまでに、時間はかからなかった。
いよいよ暴徒と化した集団が兵士たちを殴り飛ばし、ロビーの窓ガラスを叩き割る。理性をかなぐり捨てた人々が、我先にと走り始める。群衆はそのまま、停泊中のフェリーの方へと雪崩れ込んでいった。
D-スレイヤー基地
無数のヘリコプターやオスプレイが、海の彼方へ飛び去っていく。それらは全て、日本列島を脱出する機体だ。
ヘリポートからはまた1機、UH-60ヘリが飛び立とうとしていた。定員一杯まで人を詰め込んで、メインローターをけたたましく回転させる。
「さぁ美咲、しっかりシートベルトをしろ。これで安全な場所まで行けるからな」
式条は優しく語りかけながら、愛娘をヘリに乗せた。
しかし美咲はヘリから身を乗り出し、父の袖をギュッと掴む。
「お父さんは……来るんだよね!?」
美咲の目は真剣そのものだった。
責め立てるかのように問われ、式条は思わずたじろいでしまう。
「も、勿論だとも。この次のヘリでそっちへ行く。心配するな」
嘘だった。
式条はこの国の軍人として、最後まで死地に踏みとどまる覚悟だった。おそらく多くの国民が、この死にゆく国に取り残されるだろう。ならばせめて彼らのために戦い、そして散ろう。そう考えていた。
だが美咲は、父の嘘に何度も騙されるほど鈍くはなかった。
「嘘ばっかり……。そう言って、一緒にいてくれたことなんか無いくせに」
堪えていたものが溢れ出すように、美咲の両目から涙が零れ落ちる。
「家族より任務の方が大事なの!? やっぱりお父さんは、お母さんが死んだ時から何も変わってない! やっと一緒に暮らせると思っても、すぐにまたどこかへ行っちゃう……」
嗚咽の混じった、胸から絞り出したような言葉であった。両手で必死に涙を拭いながら、美咲は悲哀に満ちた睨みを利かせる。
「最後くらい……私のそばにいてよ」
式条は心を握りつぶされたような気分だった。娘に対し、かけてやる言葉が見つからなかった。
しかし、先ほどの決意は変わることはなかった。こうなることも全て、入隊した時から覚悟していたことだ。
「……すまない」
それだけ告げて、機体のドアを閉める。
ヘリがゆっくりと上昇していく。それは彼岸と此岸……我が子との今生の別れに相違ない。
こんなことは以前にも経験した。およそ1年前、所謂D-デイの時だ。あの時、燃ゆる横浜からヘリで美咲を逃し、インフェルノドラゴンに挑んだ。
あの時はどうにか生還を果たしたが、今回ばかりは……。
式条は拳を握りしめた。迷いなどとうに断ち切った……そう自身に言い聞かせるかのように。
「いやはや、この世の終わりは唐突に訪れるな……式条」
背後から、親しんだ声に話しかけられた。式条はおもむろに身を翻す。
「木原中将……すみませんが今は、思い出話に花を咲かせる気分じゃありません」
「当然だな」
そう言って、木原は不敵に笑う。その面様は、おおよそ世界の終末には似つかわしくない。
「何をしに来たんです?」
「お前と思い出話でもとな」
式条は思わず失笑した。
「ははは……ふざけてるんですか?」
「昨日までは報告書の文言に頭を悩ませてたものだが、今日になって心に余裕を持つことを覚えたんだ」
「それは結構なことですね」
「お前もいい加減覚えたらどうだ?」
式条と木原は並び立ち、飛び去っていくヘリの大群を眺める。美咲の乗った機体は、既に米粒大にしか見えない。
「美咲ちゃんはもうヘリに乗せたのか?」
「はい」
「"アルビノ"の少年は?」
「20分前に移送済みです」
「では……"サファイア"の少年の方は?」
木原は声のトーンを落とし、伏し目がちに聞く。
「報告の通りです。彼はおそらく、イーラの側に寝返った……」
式条の口調は淡々としていた。だがその裏に渦巻いているとてつもない悔恨の念は、木原にも痛いほど伝わった。
「お前のせいではないさ、式条」
「いいえ、俺の責任です。梵を預かるなどと言いながら家にも帰らず、殆どの時間を美咲と2人きりにさせていました。実の娘にすらまともに向き合えない男が、一体何を思い上がったのやら……」
式条はは自嘲の笑いを漏らす。
木原はそっと、その背中を叩いた。
「あの少年の闇は、我々の手に負えるものではなかった。物心ついた時から里親に虐待を受け、やっと会えた実の父は……外道そのものだったのだ。おまけに自らの手で父を葬ったともなれば、この結果も仕方あるまい」
そこからしばらく、沈黙が続いた。
空にはもう星が輝いている。横浜という大都市が消し飛び、地上の光が失われてからは、夜空は見違えるように美しくなった。今は基地内の照明も大半が消えているので、絶景を拝むことができる。
「これが……我々の見る最後の夜かもしれないんですね」
式条が天を仰いで呟く。
「お前はそれを受け入れるのか?」
「どう足掻こうと、避けられない未来もあります」
「そうは思わんな」
式条は思わず、隣の上官の顔を見る。
「……どういうことです?」
「お前の死に場所は、ここではないということだ」
そう言って木原は微笑んだ。あまり見せたことのない、穏やかな笑みだ。
だが式条の方は、微塵も穏やかな気分にはなれなかった。
「部下や国を見捨てて逃げろと仰るんですか?」
そう言って、怪訝な顔を浮かべる。
「お断りです。たとえどんな敵が相手だろうと、最後まで戦い抜くのが兵士の務めでしょう!? 少なくとも俺はそう信じてきた!」
「はっ! 小生意気な新兵が随分な口を叩くようになったな」
木原の茶化すような言い方に、式条は思わず苛立ちを覚えた。
「生憎冗談を言う気分ではないんですよ!」
「最後まで戦い抜く……その言葉の意味を考えたことはあるか?」
「何が言いたいんです!?」
ふと気付くと、木原の顔から笑みが消えていた。数秒前の穏やかさを忘れ去ったかのように、眼差しはは真剣なものへと変わっている。
式条は思わず押し黙ってしまう。
「いいか式条、国民のために最期まで戦うのは結構なことだ。だが、それで何が救える? 国と心中するよりも、もっと出来ることがあるんじゃないか?」
「ではどうしろと言うんです……!?」
「生き残るんだ。敵に背を向けようとも、多くの仲間を見捨てようとも」
生き残る……? 全てを放棄し、自分だけ生き残る……? それで生き延びて何になる? むしろ、これまでの生き方を否定するようなものだ。
式条には、その言葉は到底受け入れ難かった。
「兵士としての使命を捨て、無様に生き永らえろ、そう言いたいんですか?」
「いいや。生き永らえ、そして打ち倒すのだ。奴らを」
式条は思わず顔をひきつらせる。
この人は此の期に及んで、まだ敵を理解していないのか。今この瞬間、人類がドラゴンに駆逐されているというのに。どんな妄言を語り出すかと思えば……。
思いつく限りの言葉で、木原を心中で毒突く。
「それが不可能なことは……」
「私の目の前にいるのは腰抜けか? 違うはずだ。インフェルノドラゴンを倒した、この国で最も優秀な兵士のはずだ!」
それは、老兵とは思えぬほどの語気だった。
木原の瞳の中にあったのは、怒りの炎だ。ドラゴンに全てを蹂躙された怒り……それを指を咥えて眺めることしかできなかった、無力な己への怒り……。
――――そうか、この人も悔しいのだ。悔しくてたまらないのだ。
「式条、もうお前しかいないんだ。我々の無念を晴らせるのは。何十年先になってもいい。いつの日か……いつの日か必ずイーラを倒せ。散った同胞たちの遺志を、決して無駄にするな」
恩師による後生の頼み……それを断るなど、式条には絶対に出来なかった。
「了解です……木原さん」
「今一度問う。お前に、最後まで戦い抜く覚悟はあるか!?」
「あります! イーラを必ず、この手で仕留めてみせます!」
それを聞いた木原は、ようやく微笑みを取り戻す。
2人は互いの手を握り合った。それは誓いの握手であり、そして別れの握手だ。
「もうすぐ次のヘリが飛ぶ。またな、式条」
「木原さん……この世界が平和になったら、また酒でも飲みましょう」
「私に奢らせるなよ?」
これが最後の会話になるかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられた。
式条は一歩ずつ、ヘリコプターの方へと歩き出す。ふと振り返ると、木原中将が安堵したような笑みを浮かべていた。彼に向かって、力強い敬礼を送る。
――――イーラ……ここはお前の世界ではない。かつてこの空の支配者だったとしても、お前が奪っていい物など何もないのだ。人類の怒りを、俺が必ず思い知らせてやる。




