第14話 非常事態宣言
陽が沈み、宵が訪れる。惨劇が始まってから初めて夜だ。
美咲は今、兵舎内の父の自室にいた。ベッドやデスクには荷物が無造作に置かれ、とても整頓されてるとは言い難い。これが普段からなのか、それとも緊急時故なのかは分からない。父の仕事に関しては殆ど何も知らなかった。
結局、基地に到着するまでに4時間以上かかってしまった。あのタクシーの運転手には感謝してもしきれない。あの人がいなければ、未だに東京のど真ん中で立ち往生していただろう。
……あの人は、無事に家に帰れたのだろうか? 家族に会えたのだろうか? そんなことを考えると、胸が締め付けられた。
『……外で爆発音などが聞こえた場合は、行政の指示を待たず、直ちにその場を離れてください。避難指示や勧告が出されていない地域でも、ドラゴンが飛来する可能性は十分にあります』
部屋に設置された小型テレビは、各地の惨状をリアルタイムで伝えている。状況は悪化する一方だった。ニュースキャスターの顔も、心なしか憔しているように見えた。
美咲はソファーに座って、黙ってそれを眺める。
『重松総理はこの後6時15分より、国民へ向けた緊急放送を行うと……』
ガチャリ、と扉の開く音がした。
振り返ると、入り口には父の姿があった。
「美咲、平気か?」
そう尋ねてきた父の顔は、明らかに平気ではなさそうだった。一瞥しただけでも、相当追い詰められているのが見てとれる。
「うん……そっちはどう?」
「実はさっき、雪也を保護したんだ」
それを聞いた途端、美咲は勢いよく立ち上がった。はずみで側にあったテーブルを蹴飛ばしてしまう。
「雪也が!? 怪我はしてないの!?」
「それが低体温症に罹っていてな……今は医務室で治療してる」
「て、低体温症? どういうこと?」
訳がわからなかった。
低体温症になるなど、雪也はどんな状況にいたのだろう?
「雪也はどこにいたの?」
「基地の近くで倒れていた。どうやら自力で来たわけではないらしい」
「誰かに運ばれてきたってこと?」
「そういうことだろう」
父の顔がさらに険しくなる。まだ何かを隠していることは明白だった。
「お父さん……誰が雪也を運んできたの?」
喉元に何かが引っかかったような顔で、式条は答える。
「これは未確認の情報なんだが……直前に付近で青いドラゴンが目撃されていたらしい」
「青いドラゴンって……!?」
父はまだ何か言葉を続けようとしていたが、美咲にそれを待つ余裕はなかった。
「ソヨが無事だったの!!?」
「まぁ……おそらくは」
美咲は確信していた。きっと梵が、雪也を救出したのだ。そして、彼を安全なこの基地へと運んできた。友人2人の無事がわかっただけでも、幾分か気持ちが晴れてくる。
「ねぇ、ソヨは今どこにいるの!?」
「さぁ……すぐにどこかへ飛び去ったらしいから」
「えっ、飛び去ったって……」
美咲は大きな違和感を覚えた。
梵の行動はどう考えても不自然だ。今の状況で、一体どこに向かう必要がある?
よくよく考えれば、梵の行動は全てが不自然だった。数時間前の電話の件もそうだ。あの時、梵は「名古屋にいる」と言っていた。名古屋がドラゴンの攻撃で壊滅したのは、電話があったのとほぼ同時刻だ。
――――新しい世界が始まるんだよ。
梵の言葉が脳裏に蘇る。あの言葉は、一体何を示唆していたのか……。
『……えーここで、総理官邸からの中継です。重松首相による、緊急会見の模様をお伝えします』
不意に、ニュースキャスターの切迫した声が耳に刺さった。親子は同時に、テレビの方へと視線を向ける。
ちょうど、重松総理が会見場へ入ってくるところだった。一旦壇上に向かって礼をし、それから登壇する。
記者たちが一斉にカメラのフラッシュを焚く。総理は普段のスーツ姿ではなく、青色の防災服を着用していた。
『国民の皆様……既にテレビ・ラジオ等でご承知の通り、未曾有の事態が我が国を襲っています』
総理の口調は弱々しかった。普段から覇気のあるタイプの人ではなかったが、今回はそれに輪をかけてやつれている。
『既に関係各省庁が総力を挙げて対応に当たり、国防軍が全力で迎撃を行なっていますが、未だ敵の侵攻を防ぐには至っていません。中部地方を中心に甚大な被害が出ており、海外においても、壊滅的被害の報告が多数入っています』
式条もまた、真剣な眼差しをテレビに向けていた。これが最後の声明になることは、国中の誰もが察しているだろう。
『このような危機的状況を鑑み政府は、内閣の権限をもって、国家非常事態宣言の発令を決定いたしました。今後は超法規的措置に基づき、各自治体の権限は政府に委譲されます。国民各位におかれましては、行政機関の指示に従い、直ちに避難を開始していただきます』
式条はあからさまに顔を歪めた。
国家非常事態宣言……それは名称の通り、国家が現行法では対処できない脅威に直面した際に発せられる布告だ。つまるところ、「日本が存亡の危機にある」という宣言なのだ。
無論、今日以上に"非常事態"という言葉が当てはまる日はないだろう。何せ、数時間のうちに中部地方が壊滅させられたのだ。24時間後にこの国が存続している保証は、もはや何処にもない。
問題は、政府が極限の選択肢の中でどのような決断を下すかだ。この狭い日本列島は、ドラゴンにとっては格好の狩場でしかない。
だとすれば、答えは自ずと見えてくる。
『……先程申し上げた通り、ドラゴンの侵攻を阻止することは非常に困難な状況にあります。よって政府は、全国民を対象とした国外退避措置の実行を決定しました。苦渋の決断ではありますが、国民の生命を可能な限り保護するためのやむを得ない手段として、どうかご理解ください』
やはりか……と式条は思った。
全国民の国外脱出。それは裏を返せば、国土を全て放棄するという選択であり、事実上の敗戦を意味している。ドラゴンには勝てない……政府はそう判断したのだ。
しかし最悪なのは、国を捨てれば戦争が終わるわけではないということだ。ドラゴンの目的は、領土や資源の獲得ではない。人類の滅亡だ。最後の1人を根絶やしにするまで、ドラゴンの進撃は止まらないだろう。
惨禍はまだ、始まったばかりだ。
首相官邸
記者会見を終えた重松は、1人廊下に立ち尽くしていた。
自分の名が付いた内閣を組織した日から3年、ただひたすら国家の維持のために身を捧げてきた。
順調に行くはずだった。"奴ら"が現れるまでは。
1年半前のことだ。軍から"ドラゴンが現れた"などという、絵空事のような報告が入った。ドラゴン……そんなものは空想上の生き物だ。現実にいるはずがない。その固定観念が粉々に打ち砕かれるまでには、さして時間を要さなかった。
驚いたのは、世間がいとも容易くドラゴンの実在を受け入れたことだ。あたかも、夢の中で起こる奇天烈な出来事を、一抹の疑問も持たず受け入れてしまえるように。
そしてD-デイ、かのメサイア事件を経て、今日の災厄を迎えた。
再びドラゴンが襲ってくることは分かっていた。だから人類が団結し、来たる戦いの日に備えてきた。
だが、結果はこのザマだ。人類はドラゴンと戦うには、あまりに非力すぎた。いくら大層な兵器をこしらえたところで、通用しなければ豆鉄砲と同じだ。
それに比べてドラゴンはどうだ。兵站の概念すら持たず、疲労も知らない。おまけにミサイル程度では擦り傷も負わない。
最初から、勝てるはずがなかったのだ。地球最高の頭脳を集めたとしても、魔法の如き力にどう対抗できようか。
「総理! ここにおられましたか」
廊下の奥から、1人の男が走り寄ってくる。重松の秘書官を務める男だった。
「総理、まもなく海軍のヘリが到着します。今後、沖で停泊する空母に乗船した後、米海軍と合流してグアムへ退避していただきます。時間がありません。どうかお急ぎください」
退避……今しがたの会見で、国民に国外退避を促した。しかし、全員が助からないのは火を見るより明らかだ。1億3000万の国民……その内の何割が犠牲になるのだろう。亡国の指導者として、最後に何を為すべきか。
「日本国最後の総理大臣、か……」
今の立場を口に出してみると、不思議と冷静になれた。
船長は沈みゆく船を見捨てない。その船に乗客を置き去りにしているなら尚更だ。たとえ誰かを救えずとも、民に背を向けて逃げるよりは……。守るべき国を捨て、無様に生き長らえるよりは……。
重松の目には、ある決意が芽生えていた。




