第3話 前兆
東京都文京区-2030年12月5日
「おい雪也! いつまで寝てんだよ!」
永代雪也はけたたましい声で叩き起こされる。8年近くほぼ毎日耳にしてきた、とても聞き馴染みのある声だ。自分がどこで何をしているのか、全く思い出せない。
「雪也ってば! 観光する時間なくなるぞ!」
「……んん? 拓巳? 朝メシの時間か?」
「何寝ぼけてんだよこの馬鹿……」
――――観光? なんの話だっけ……?
状況を掴めぬまま、雪也はゆっくりと目を覚ます。目の前には、見慣れない天井が広がっていた。布団もいつもより硬く、ごわごわとしている。
「や~っと夢ん中から戻ってきたか? アホ」
横には、長年の親友である進藤拓巳の顔がある。雪也は今、二段ベッドの上段部分に仰向けになっていた。そこでようやく、自分の置かれている状況を思い出す。
「って、ちょっと待て! 今何時だ!?」
「もう11時だよ!!」
「マジで!?」
雪也たちは昨日から、2泊3日の旅行で東京を訪れていた。数ヶ月遅れのバスケ部引退旅行であり、且つ保護者同伴無しでの初めての旅行でもあった。メンバーは総勢7人、いずれも、部活で長い間共に戦った仲間たちだ。
通常ならばこの時期の中学生は受験勉強に明け暮れるものだが、彼らは全員スポーツ特待での名門私立入学を決めていた。チームは全国大会で優勝を果たしていたため、レギュラーであった彼らには、多くの特待の話が来ていたのだ。もちろん受験勉強をする必要も無くなるので、長期休暇と被らず人の少ないこの時期に旅行を計画した、という形だ。
通常のホテルは中学生だけでは利用できないため、今は未成年だけでも利用可能なユースホステルに宿泊していた。長野から飛行機で東京へ向かい、ユースホステルで一泊して翌朝から東京を巡る……という予定だったのだが、昨晩の夜更かしが原因で完全に計画が狂ってしまった。
「あーもう……なんでこんな日に限って寝坊すんだ!?」
「明け方まで大富豪やってりゃ寝坊もするだろうよ!」
雪也は慌てて二段ベッドから降り、自分のリュックの中から着替えを漁る。他の少年たちも、大急ぎで出かける支度を始めていた。
部屋は二段ベッドが4つ設置された8人用のため、メンバー全員がこの部屋に寝泊まりしている。静寂が訪れることはほぼ皆無で、室内は常に賑やかだ。
「なんかさ、部活の合宿思い出すよな!」
メンバーの1人である翔悟が、楽しげな調子で言う。
「あー、あったな。みんなで夜更かしして寝坊して、顧問に怒鳴られてよ」
「なんか懐かしいよなー。ほんの何ヶ月か前のことなのに」
時間に追われていることも忘れ、少年たちは思い出に浸る。練習試合も大会も、帰り際に買った自販機のジュースの味でさえ、彼らにとってはかけがえのない思い出だった。
雪也も満ち足りた笑みを浮かべる。このメンバーと一緒に居られることが、嬉しくてたまらなかった。これが中学生活最後の旅行となるかもしれない。ならば、思いっきり楽しもう。最高の友人たちと、最高の思い出を作ろう。
そう思った時だった。
「ぐっ!!?」
突如として雪也を、激しい頭痛が襲った。まるで脳みそを丸ごと鷲掴みにされたような、経験したことのない痛み……。思わず、その場に倒れこんでしまう。
「おい雪也!? 大丈夫か!!?」
異常に気付いた少年たちが駆け寄ってくる。全身の細胞が弾けそうな痛みが、数秒間にわたって続いた。
だが、痛みはすぐに消えた。雪也自身も信じられないほどに、綺麗さっぱりと。ほんの数秒前の頭痛が、夢か幻だったのではと思うほどに。
――――何だったんだ……?
雪也は頭に疑問符を浮かべる。体の不調とか、そういうものではない気がする。もっと暗く恐ろしい、別の何か……。言うなれば、虫の知らせというやつかもしれない。
「雪也、どうしたんだ……?」
「え?」
「お前、汗びっしょりだぞ」
拓巳にそう言われ、ようやく気付いた。雪也の全身は冷たい汗に湿っていた。呼吸すら上手くできず、心臓の鼓動も荒くなっている。真夜中の森で巨大な肉食獣に遭遇したような、そんな気分に陥った。
「これ、ヤバいかも……」
「救急車呼んだ方がいいか?」
「いや、そうじゃなくて。ヤバいことが起こりそうだってこと」
「えっ何だよ、それ?」
「俺にも説明できないけど……」
確かに本能が告げていた。生物としての本能か、はたまたドラゴンとしての本能か。どちらかは分からないが、とにかく今はっきりしてるのは……
……自分たちのそばに、とてつもない脅威が迫っているということだ。
東京都港区-同時刻
梵は虚ろな目で、ソファーに体を横たえていた。
室内は静寂に包まれており、梵以外に人の気配はない。テレビも点いておらず、窓の外も曇天であるため、朝の11時とは思えぬ淀んだ雰囲気だった。
最近は学校も休みがちになっていた。例の"夢"のせいで、寝ている間も神経がすり減ってしまう。とても、学校に行ける精神状態ではなかった。
式条は軍の任務中で、美咲も学校があるため、家には梵1人だけだ。だが今は、寂しさよりも心地よさが勝っている。1人なら、誰にも心配をかけることがないからだ。
――――雪也は今どうしてるんだろう。
過ぎゆく時間の中で、ふとそんなことを考える。
……あぁ、そうだった。友達と東京を旅行するとか言ってたっけ。大方、例の部活仲間とやらだろう。
連絡を取ろうかとも思ったが、その考えはすぐに放棄した。幼馴染同士で過ごす時間を、外様である自分が邪魔するなど以ての外だ。梵は掌を額に当て、深くため息をつく。
――――惨めだなぁ、お前は。お前の大事な"親友"は、お前になんぞまるで無関心だ。
突如頭の中に、地鳴りのように低い声が響いた。その声はイーラのものではない。また別の誰かだ。
――――雪也にとってお前は、有象無象でしかないんだよ。
声は容赦なく、梵の心を抉ってくる。そこで気付いた。この声は"誰か"ではなく、自分自身のものだ。自分の中の闇……心に巣食う悪魔が、恐怖や失意の具現化として囁いているのだ。
だが梵には、悪魔に反論するだけの力は無かった。自分自身の闇を体現したようなこの悪魔に、対抗する術などあるはずもない。
「好きなだけ笑えばいいさ……」
そう投げやりに呟く。悪魔の言葉は正論だ。結局のところ、自分は誰かにとっての本当の友にはなれないのだ。唯一の希望だった家族も、最早この世にはいない。自分が、この手で葬り去ったから。
――――どれだけ世界を救っても、誰一人お前を救う者はいない。
「そうだな……」
――――お前は雪也の猿真似をしただけだ。奴のような信念も、正義感も持ち合わせていない。
――――お前は……雪也のようなヒーローにはなれないんだ。どれだけ命を懸けようともな。
「ああ、そうだな」
これ以上何も聞きたくない。少しの間仮眠を取ろう。そう思って、梵は瞼を閉じた。
刹那、キーンという激しい耳鳴りが響いた。
「うっ!? な、何だこれ……!!?」
同時に酷い頭痛も起こり、意識が飛びそうになる。
全身から冷や汗が吹き出し、呼吸が苦しくなった。ただの体調不良でないことは明らかだ。もっと根源的で、本能的な何か……。爬虫類などが持つ危機察知能力の類いかもしれない。
――――あいつが……来る!!
そう本能が叫んだ。
姿を前にしたわけでもないのに全身の鳥肌が逆立ち、恐怖が湧き上がってくる。これほどの恐ろしい存在は、知りうる限りたった一つだ。
梵は無理やり体を起こすと、迫り来る絶望の名を呟いた。
「イーラ……!!」
あの夢は決して、妄想の産物などではなかった。イーラは既に復活を果たし、この場所へ向かっているのだ。




