第1話 復活
――――ついにこの時が来た。我らが……地上へ舞い戻る時が。
海成梵は、果てしない闇の中にいた。寒々しく、絶望や恐怖を象徴するかのような、漆黒の空間……。ここが現実でなく夢の中であることは、すぐに理解できた。
――――神よ……お前の過ちの代償は、人間たちが支払うことになるだろう。
不気味な声が頭の中に響く。もう何度となく聞いた声だ。梵は何をするでもなく、ただ黙って声に耳を傾ける。
――――地球上に蔓延る全ての生命は、我々の支配の下にある。
声の主は以前から分かっている。イーラだ。海成天人を斃したあの日以来、"声"は何度も梵の夢に現れている。内容はいつも断片的で、全容を掴むことはできない。感じ取れるのは、激しい憎悪と怒りだけだった。
――――我は終焉……我は悪魔。我こそが……唯一絶対の王なり。
そこで目が覚めた。
いつのまにか呼吸は上がっており、Tシャツの襟元はびっしょりと冷や汗に濡れている。カーテンから覗く空は薄暗く、まだ夜も明けきっていない。鼓動が高鳴り、もう眠れそうもないので、そのままリビングに向かうことにした。
時刻は午前5時前。起きるには早すぎる時間だ。梵はソファーに座り、外の景色に目をやる。この時間だというのに、ビル群は煌煌と光を放ち、眠らない街東京を彩っている。冬本番を前にした肌寒さが、リビングの中に流れ込んでいた。
「ソヨ……?」
廊下の方から声をかけられる。同居人の少女である美咲だった。リビングに向かう途中で起こしてしまったのだろう。美咲は心配げな表情を浮かべながら、ソファーの側まで歩いてくる。
「また……夢を見たの?」
「……ただの夢だよ」
美咲を心配させないように、平静を装って答える。しかしこれが単なる夢でないことは、梵自身が最も解っていた。
「良かったら、私にも話してくれない? 夢のこと……」
そんな不安を見抜いたように、美咲は優しく話しかける。部屋の電気はついておらず、外も夜明け前であるため、彼女の表情を窺い知ることは叶わない。
「悪いけど、巻き込みたくはないから……」
「そういうのはやめてって言ったでしょ? 1人で悩まれるのが一番辛いんだから」
美咲は梵の横に腰掛け、そっと背中に触れた。リビングが冷えていたためか、彼女の手はいつもより温かく感じる。
梵は観念したように溜息を吐いた。
「声が聞こえるんだ」
「声?」
「姿は見えないんだけど……"そいつ"の声だけがはっきりと聞こえる」
どうしてイーラの声が夢に現れるのかは分からない。何らかの理由で、イーラと意識が繋がってしまったのだろうか? それとも単に心に巣食うトラウマが、ありもしない妄想を生み出しているだけなのだろうか?
「あなたに話しかけてるの?」
「いいや、違うと思う。なんていうか……記憶の断片を見せられてる感じ。映画の予告編みたいに」
そこまで言うと、梵は自嘲気味に笑った。
「ははっ……これマズいかな? 精神科とか行くべき?」
そう冗談めかしく言った直後、背中を温めていた美咲の手が、ゆっくりと肩まで移動した。彼女の手はそのまま腕を伝い、終着点にあった梵の右手に絡められる。
「ソヨ……」
美咲は声を震わせて名前を呼ぶ。やはり話すべきではなかったと、梵は後悔した。
「ごめん、忘れていいよ」
「何言ってるの。放っておけるわけないでしょ」
「なんでもないよ。きっとなんでもない」
そうだ。これ以上美咲を不安にさせてどうする。どんなに恐ろしかろうと、夢は夢だ。それ以上でもそれ以下でもない。
梵はそう自分に言い聞かせた。
「今日の朝飯の当番、どっちだっけ?」
「私だよ。ちょっと待ってて、今準備するから」
梵の戸籍上の保護者でもある美咲の父親は、最近はあまり家に帰ってこなかった。そういったことは以前もあったらしいが、ドラゴンの脅威が顕在化した今は、さらに拍車が掛かっているようだ。という訳で、近頃は美咲と梵が分担して家事を行なっている。
「いいや、今日は俺が準備するよ。こんな時間に起こしちゃったし」
「でも……」
「大丈夫だって。7時になったら起こすから、それまでは寝てて」
「う……うん……」
美咲はソファーを立ち、気の進まない様子で自室へと戻っていく。梵はそれを見送ると、背もたれに深く寄りかかった。
秒針の刻まれる音が寂しく響く。梵は暫く無心で天井を仰いでいたが、やがて立ち上がり、窓際の方へと歩いた。
――――"地上へ舞い戻る時が来た"……奴は確かにそう言っていた。
窓の外を見やりながら、夢でのことを考える。あれが事実ならば、まもなく人類とドラゴンの戦争が始まることになる。そうなれば当然、自分たちも巻き込まれてしまうだろう。
雪也は間違いなく戦おうとする。彼はそういう人間だから。彼自身の世界を守るためなら、死をも厭わない少年だ。
――――だが、俺はどうする……?
美咲や雪也は確かに良くしてくれる。だがそれは、彼らが善人だからに他ならない。一方的な善意に依存する関係は、遅かれ早かれ消えてしまうものだ。それに、彼らには"本当に大切な人間"がいる。自分ではない、別の誰かが。
では、命を賭してイーラに挑む意味などあるのだろうか? こんな抜け殻のような世界など、守る価値があるのか?
梵は人差し指で窓ガラスに触れる。気温が低かったせいか、ガラスは氷のように冷たい。向こうに見えるビル群は、精巧に作られたジオラマか何かに思えた。
東の空は、まだ暗闇に包まれたままだ。
中部アフリカ エベニア民主共和国首都 キルノマ市-2030年12月2日
街が炎と黒煙に覆われている。
原型を留めている建物は殆どなく、通りは逃げ遅れた人々の死体で埋め尽くされ、生きている者は誰1人見当たらない。ここが数時間前までアフリカ有数の大都市であったとは、誰も信じないだろう。
そんな殺戮と破壊の跡を、ローブを纏った1人の男が歩いていく。その顔に恐怖や動揺といった感情はなく、むしろ恍惚に近い表情だ。男の名はエリック・ウォレス……国際テロ組織"メサイア"の最高指導者であった。
――――我々の悲願は……今達成された。今日をもって、人類の歴史は幕を閉じるのだ。
ウォレスは無数の死体を跨ぎながら、吹き荒れる熱風を肌で感じ取る。この国は、つい数年前に独立を果たしたばかりだった。独立志向の強かったエベニア自治政府をメサイアが支援し、この地に新たな国家を樹立させたのだ。無論、それは善意からの支援ではない。
この地に眠るドラゴンの王"イーラ"、その覚醒までの時間を稼ぐためだ。覚醒前にサーガ機関に嗅ぎつけられでもしたら、数十年に渡る計画が水泡に帰してしまう。だから隠れ蓑として、国際社会の手の及ばない国家が必要だったのだ。
だがその隠れ蓑も、もう役割を終えた。もはや無用の長物だ。こうして火の海と化していても、感慨など一切無い。まぁ、最後まで傀儡でしかなかったこの国の政府や、メサイアを本物の救世主と信じて疑わなかった国民たちには、僅かに憐憫を覚えたが。
ウォレスは満足げに天空を見上げる。何層にも重なった黒煙の中を、巨大な生物が飛び抜けた。その生物は漆黒の翼を持ち、全長は50m以上ある。羽ばたきにより起こった突風は、広範囲に大量の火の粉を舞い上がらせた。この生物こそが、都市をものの数分で焼き尽くした元凶だ。
――――かつてこの星は、彼らのものだった。王が蘇った今、その支配は復古する。弱肉強食……それは全ての生き物が逃れられない摂理。ヒトは長らく、己だけは摂理の外側にいると錯覚していた。だがそれは傲慢に過ぎない。新たな頂点捕食者が君臨した今、ヒトは被食者としての恐怖を知るだろう。
ウォレスはローブを大きくなびかせながら、王の姿を見送る。この世に再臨した天界の支配者……漆黒のドラゴンは、恐ろしい咆哮を放ちながら彼方の空へ飛び去っていった。




