プロローグ2
アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ-2030年8月12日
「さぁどうぞ朝霧さん。恐怖の館へようこそ」
防護服の男に促され、朝霧葉月は実験室の中へと入っていく。異様に寒々しい雰囲気の室内には、厳重にロックされた保管庫がいくつもあった。朝霧は畏怖に似た視線で、それらに目を通していく。この保管庫一つ一つに、文明社会を崩壊させかねないウィルスが納められているのだ。
ここは疾病予防管理センター本部ビルにある、病原菌を保管・研究するための実験室だった。BSLは最高の4。これはエボラや天然痘といった、非常に危険なウィルスを扱えるレベルだ。
当然衛生面でも万全が期されており、入室には防護服の着用が絶対条件となる。もし防護服に穴でも空こうものなら、即座に隔離室に放り込まれてしまうだろう。
もちろん朝霧も、入室前に宇宙飛行士のような格好にさせられ、ついでに薬液のシャワーも浴びせられていた。
「悪いけど朝霧さん、ここじゃ来場者特典は期待しない方がいいよ」
男が冗談めかしく言う。渡されても受け取るものかと、内心朝霧は毒づいた。
男はCDCの職員であり、今回の案内役でもあった。名はアンダーソンというらしい。
「今日はうちの"新入り"に用があるんでしたね」
「はい。お手数をおかけします」
「女性の頼みは断らない主義でしてね」
アンダーソンは保管庫の電子ロックを解除し、ステンレス製の扉をゆっくりと開ける。中に入っていたのは、いかにも頑丈そうな鋼鉄のケースだった。
「さぁ……良い子にしてろよじゃじゃ馬」
そう呟きながら、慎重にケースを運ぶ。ケースの側面には、三日月を3つ合成したようなマークが刻まれていた。生物学的危害を表す記号だ。
アンダーソンはケースを手近なデスクに置くと、丁寧にそれを開けた。中から出てきたのは、さらに小さなケースだった。まるでマトリョーシカだ。
「こんなウィルスが実在するなんてね……未だに信じられませんよ。あなた方、魔法使いとでも戦ってたんですか?」
「いいえ……もっと恐ろしいものです」
小さなケースが開かれる。そこに入っていたのは、掌サイズのアンプルだった。この瓶の中に、人類を滅ぼしかねない悪魔が封じ込められているのだ。
"D.G.ウィルス"……悪魔はそう呼ばれていた。このウィルスは感染した人間を怪物へと変異させ、理性をも奪って本能にのみ従う獣へと変えてしまうのだ。治療法は存在せず、未だ100名以上の感染者が世界中の空を飛び回っている。
「こんなもの……今すぐ焼却した方が世界のためだと思いますがね」
アンダーソンは嫌悪感を露わにして言う。朝霧自身も、彼と同意見だった。D.G.ウィルスは、この世界の摂理の中に在るべきではない。しかし……。
……今は、世界を根本から破壊してしまうほどの由々しき脅威が迫っている。摂理がどうこうという議論以前に、人類が滅んでしまっては本末転倒だ。世界を守るには、時に倫理を超えた決断も必要になるだろう。
海成天人の狂気に賛同するなど以ての外だ。だが、D.G.ウィルスに無限の可能性が秘められていることもまた事実。この悪魔が、人類を救う矛となることもあり得るのだ。
人間はドラゴンに敵わない。しかし、人間がドラゴンの力を手にできれば……アルビノやサファイアのように戦うことができれば、或いは……。
朝霧はそんな葛藤を抱えながら、目の前に置かれたアンプルをまじまじと見つめていた。
アメリカ合衆国ニューヨーク市-2030年9月20日
国連本部ビルの前の通りには、何百人というデモ隊が押し寄せていた。彼らはプラカードや横断幕を掲げながら大声を上げており、凄まじい喧騒が辺りを包んでいる。さらに一部が暴徒化して警官隊と衝突したため、まさしくパニック寸前の状況だった。
『この一帯でのデモは許可されていない! 直ちに解散しなさい!!』
警官が拡声器で呼びかけても、事態が収束する気配はない。ヘルメットとシールドを装備した機動隊がデモ隊を取り囲み、周囲は一触即発の様相を呈している。
異様だったのは、デモ隊は政治的な主張のもとに集ったわけではないという点だった。
「ドラゴンは神だ!!」
「ドラゴンを讃えよ! 彼らこそが地球の支配者だ!!」
「この星の王……ドラゴンに栄光あれ!!」
彼らは口々にそう叫んでいた。プラカードにも、似たような主張が大きく書かれている。取り憑かれたかのように同じ言葉をリフレインさせるその姿は、見る者に恐怖すら与えた。
こういった光景は、既に珍しいものではなくなっていた。度重なるドラゴンの出現により、今や世界中の宗教が終末の到来を予言している。さらにはインターネットを媒介し、宗教にさほど縁のない者にも終末論が拡散されている有様だった。
それと並行してドラゴンを神と崇める、いわば"ドラゴン教"と呼ぶべき狂信者たちも次々に現れていた。デモ隊はまさしくその典型だ。
デモ隊が投石を行い、警官隊が放水や催涙ガスで応戦する。路上に停められていた車に火が放たれ、黒煙が大通りに立ち込めた。この街だけではない。世界中で、このような事態が多発しているのだ。
数百年に渡り築かれた社会秩序は今、音を立てて崩壊しようとしていた。
国連本部ビル内 安全保障理事会会議場-同時刻
『我々は今、存亡の危機に立たされています。人類同士の戦いではなく、太古より現れた悪魔たちによって。有史以来初めて、人類は外敵によりその生存を脅かされているのです』
国連事務総長が各国の代表に向け演説をする。
議場には現在、各国の大統領や首相が集結していた。首脳レベルでの安全保障理事会が開催されるのは、かなり稀なことだ。首脳たちは通訳用イヤホンを耳に当てつつ、雄弁に語る事務総長に注目している。
日本国総理大臣である重松志郎もまた、理事国の代表として議会に出席していた。時々手元の資料に目を通しつつ、次の演説に備えて呼吸を整える。
『ドラゴン、そして国際テロ組織"メサイア"……それらによる未曾有の惨劇は、とりわけ日本に大きな被害をもたらしました。それでは、日本国首相の重松氏にお話をいただきます』
事務総長の演説が終わり、視線が一斉に重松の方に向けられる。重松は一度咳払いをすると、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「インフェルノドラゴン出現による災厄、所謂"D-デイ"……メサイアにより引き起こされたバイオテロ……これらは確かに、我が国に深い傷跡を残しました。しかし、"真の脅威"はまだ姿を現していないのです」
議場は水を打ったように静まり返っている。かろうじて聞こえるのはカメラのシャッター音と、通訳者の声だけだった。
「"イーラ"……メサイアの信仰する神であり、ドラゴンの王と目される存在です。その目的は、人類からこの星の覇権を奪い返すこと……。世界中が横浜のような悲劇に見舞われるまで、もう猶予はないでしょう」
首脳たちが一様に難しい顔を浮かべる。イーラについては無論のこと情報共有済みだったが、やはり人ならざる種族との戦争を前に、心中穏やかでない様子だった。
重松は間を置くのも兼ねて、正面にある大きな油彩画に目をやった。壁一面を覆うその絵画には、灰の中から飛び立つ1羽の不死鳥が描かれている。戦争の惨禍から立ち上がる人類を表現したものだ。
人類はドラゴンとの戦争に勝利し、再び立ち上がることができるのだろうか……。重松は自然とそんなことを考えていた。
「私は、ドラゴンの厄災に見舞われた国家の長として、本決議案の採択を強く支持します」
定石通りの文言で、演説を終了する。今回の決議案は、「ドラゴンの脅威が去るまでの間、全ての加盟国は国際競争を停止し、軍事的・経済的に協力関係を結ぶ」というものだった。これが成立すれば、世界中が一丸となってドラゴンと戦うことができるのだ。
幸いにも、決議は全会一致で採択される運びとなった。議場に拍手が巻き起こる中、重松はホッと息をつく。もっとも、決議がどこまで遵守されるのかは全くの未知数であったが。




