第31話 喪失の痛み
気がつくと梵は、深い闇の中にいた。
果てしなく暗く、何もない空間。この世から光が失われたかのような、終末的で絶望的な世界。それがこの場所だった。五感はまるで機能していない。ここが現実の世界でないことは、すぐに理解できた。
――――そうか……俺はあいつに殺されたのか……。
自分でも驚くほど冷静に、今の状況を受け入れられた。天人は今頃どうしているだろうか? きっと東京中にウィルスをばら撒き、滅びゆく世界を見下ろしながら高笑いを上げているのだろう。だが不思議と、怒りや悔しさは湧かなかった。もう、どうでも良かった。両親に再会したいと願い続けて、ようやく巡り会えた結果がこれだ。あの世界には希望なんて無い。それならばいっそ、この闇の中に留まっているのも良いだろう……。
――――ほう……お前は本当にそれで良いのか?
ふと、そんな声が聞こえた。いいや。聞こえたと言うよりも、直接頭の中に刻み込まれたと言った方が近いかもしれない。
「だ……誰だ?」
梵は声の主に尋ねてみる。
――――前にも話しただろう? 忘れたわけではあるまい。
この恐怖の権化のような声……確かに聞き覚えがあった。そうだ。この声は……。
「イーラか……」
『ようやく思い出したか。また会えたな』
それは確かに冷徹で、生物の本能的な恐れを呼び起こすような声であった。しかし、敵対や攻撃の意図は感じ取れない。
「一体何の用だ?」
『そう身構えるな。お前が今最も欲する物を与えてやろうというのだ』
「俺が欲する物?」
『お前の父の死だ。奴を地獄へ送ってやりたいのだろう』
「俺はあいつに殺された。だから今ここにいる」
『それは違う。ここはお前の意識の中。我がお前を呼び出したのだ。まぁ、お前が死にかけているのは事実だが』
イーラはさも愉快そうだった。戦いの行方を愉しむギャラリーのつもりなのだろう。
「どういうつもりだ? どうして俺に手を貸す?」
『実を言うと、ウミナリアマトは我らにとっても目障りな存在なのだ。だからお前に我の力を貸し与え、奴を始末しようというわけだ』
「なるほどな……天人を消すために俺を利用したいのか」
『これは利害の一致だ、ソヨギ。このまま復讐すら果たせず惨めに死にたいと言うなら、邪魔立てはしないが』
まさしく悪魔の取引だな、と梵は内心笑う。選択肢は最初から一つしか無いようだ。
「分かった。天人は俺が斃す。お前の力を借りるぞ」
『……そう来なくてはな』
どの道イーラも、人類の破滅を望んでいることに変わりはない。天人に勝てたとしても、イーラが世界を滅ぼすだけだ。だが、今ここで死を受け入れるよりは……為す術もなく奴に殺されてしまうよりは……。
『さぁ、我が末裔よ……己が運命を果たしてこい』
梵の視界が、瞬く間に光に包まれた。
墨色の空へ向けて、一筋の光の柱が放たれた。梵はぼんやりとした意識で、その様子を虚ろに見つめる。青く輝く柱は雲を一瞬だけ紺碧に染めると、やがて途切れるようにして消えてしまった。
「グァァァァァァ!!!」
直後に聞こえた耳をつんざく悲鳴が、梵を幻想の世界から引き上げた。悲鳴は天人のものだった。天人は自分の溶けかけた鉤爪を交互に見ながら、半狂乱に陥っている。その鉤爪は、ついさっきまで梵の鼻と口を塞いでいたものだ。
――――まさか、これがイーラの言っていた"力"……?
青い光の柱……それは確かに、梵の口から発せられていた。まるでSFに出てくるレーザー光線だ。天人の鉤爪を焼いたのも、あの光線なのだろう。
続いて体を起こしてみる。これも驚くほど上手くいった。瀕死の重傷を負っているのが嘘のように、体が軽い。それだけでなく、自分の意思と完全に共鳴している。ある日突然オリンピック選手並みの身体能力を手に入れたような、そんな感覚だ。このドラゴンの体が如何なるものなのか、ようやく理解できた気がした。
「その力……貴様まさか!?」
天人も状況を理解したようだった。情けなく目を泳がせながら、翼を引きずって後ずさり始める。
「貴様は……イーラか……!?」
「いいや。これは俺の意思だ。俺の復讐だ」
梵の鉤爪が、天人の右目を斬り裂く。強靭な鱗はまるで濡れた泥のように崩れ落ち、眼球からは青紫の液体が吹き出した。
天人は逃げるようにして上空へ飛び上がる。勝てないと悟り、せめてウィルスだけでもばら撒こうという魂胆なのだろう。しかしそれを許すほど、梵は優しくなかった。口元を輝かせ、もう一度あの光線を放とうとする。
全身から力が湧き上がった。これがイーラの持つ"力"なのか。まさしく破壊の神の力だ。
「さよならだ……父さん」
青白い光の槍が、灰色のドラゴンを貫く。天人の断末魔の叫びが響き渡る。意思を失った灰色の体は、吸い込まれるように力無く滑走路へと落下していった。
梵は遠い昔のことを思い出していた。まだ幼かった頃……里親のもとで暮らしていた時のことだ。日々暴力を振るわれ続け、安息の時間など露ほども無かった。そんな中でたった一つの希望だったのが、古びたヒーロー人形だった。夜が更けると、傷ついた小さな体を布団に包ませて、その人形を抱きしめていた。そして呪文のように唱えていた。
「大丈夫……いつかお父さんが迎えに来てくれるから」
ヒーロー人形は、父が自分に遺した唯一の物だった。顔も知らない、生きているかも分からない両親と再会することが、梵にとっての唯一の夢だった。ヒーロー人形と、父が言ったらしい「いずれ迎えに来る」と言う言葉だけが、数少ない心の支えだったのだ。
――――お父さんに会えたら、何をしよう。何を聞こうかな。何を話そうかな。ぎゅっと抱き締めてくれるかな。いつか家族が一緒になれたらその時は……その時は、精一杯笑って、精一杯泣いて、精一杯……幸せになろう。
火山灰の砂漠を掻き分けながら、青いドラゴンが歩いていく。辺りは静寂に包まれ、さっきまで続いていた壮絶な戦いが嘘のようだ。梵の向かう先には、グレーのドラゴンがいた。人類の歴史を終わらせようとしたドラゴンは今、灰の中に力無く倒れ込んでいる。梵はドラゴンのそばまで来ると、その足を止めた。
「そよ……ぎ……」
天人は掠れた声で息子の名を紡ぐ。
「全く……馬鹿な息子め……これは取り返しのつかない過ちだ……。私は生涯をかけて……人類を救おうとしたのに……、事もあろうにお前は……イーラと結託し……この……私を……」
梵は何も言わなかった。ただ、哀れむような目で死に瀕した父を見下ろしていた。
「お前の軽率な選択が……人類の終焉を招くのだ……。世界の破滅を眺めながら……己の愚かしさをその胸に刻み込むがいい……」
「あんなウィルスで悦に浸れるのは、世界中探してもお前だけだろうよ」
梵は吐き捨てるように言った。
「私は……お前を愛していたのに……こんな顛末とはな……」
「違う。お前が本当に愛してたのは自分自身だけだ」
突き放すような言葉に、天人は乾いた笑みを浮かべる。
「どうやら我々は決して……理解し合えないようだ……」
「ああ。お互い会うべきじゃなかったな」
梵は灰色のドラゴンの口をこじ開け、そこに火球を撃ち込む。頭部が爆発し、肉片が飛び散り、天人の命は完全に絶たれることとなった。
――――終わったな……。
梵は人間の姿に戻り、その場にへたり込む。心の一部が欠けてしまったような気分だった。父、母、家族、夢……そういったものが、跡形もなく消え去ってしまった。不思議なものだ。自分を愛してくれる父親など、最初から存在していなかった……それなのに、心には確かに喪失の痛みが宿っている。雪也が記憶にすら残っていない両親の死に涙していた理由が、今なら分かる気がした。
「おーいソヨ! 大丈夫か!?」
背後から聞き慣れた声がする。その声に、幾分か安心させられた。
「おいソヨってば! どうかしたのか!?」
隣に白いドラゴンが着地し、心配げに梵の顔を覗き込む。
「生きてる……よな? ったく、返事くらいしろよな」
「え? あぁ……ごめん」
雪也は少年の姿に戻り、そっと梵の肩に手を置いた。2人の眼前にあるのは、灰色のドラゴンの亡骸だ。もう動くことはないその体には、うっすらと火山灰が積もり始めている。
「こいつ、死んだのか?」
「ああ」
「じゃあ……もう終わったのか?」
「ああ」
2人の間に沈黙が流れる。雪也も、梵にどう声をかけていいかわからなかった。
「ソヨ……本当に大丈夫か?」
「大丈夫。どこも怪我はしてない」
「そうじゃなくて、心の方だよ。せっかく親父に会えたのに、こんな……」
「まぁ……父親は最初から死んでたって思う事にするよ」
遠くからヘリのローター音が轟く。水平線の向こうから、軍用ヘリの編隊が接近していた。街の方からは、消防車やパトカーのサイレンが近づいている。空港のロビーで見ていた誰かが通報したのだろう。
梵は立ち上がり、服についた火山灰を払う。そして改めて、天人の骸に目をやった。その体は火山灰に埋もれ始めていたが、崩れかけた顔には未だに高慢な笑みが宿っている。まるで、この悪魔の意思が未だに生き続けていることを表すかのように。
梵は言葉を発さず、父に背を向けて灰色の砂漠の中を歩き去った。




