第21話 父の罪
七潮島-2016年8月20日
「あなたは……狂ってるわ!」
血と死体の臭いが漂う、この世の地獄のような研究所の中で、香織は震えながら叫んだ。その手には、赤黒いシミのついたメスが握られている。切っ先が向くのは、彼女の夫だ。
「香織……私は梵を殺そうとしてたわけじゃない。人間という器から解放しようとしていたんだ。このままだといずれ人類は、上位の存在によって滅ぼされてしまう。だから人間には、人為的な進化が必要なんだ」
天人の横にある鉄製のベッドには、1歳程度の小さな子供が寝かされていた。2人の子である梵だ。梵は無数の管や器具に繋がれ、静かに眠っている。
「いいか。ドラゴンは我々の理解の範疇を超えた……いわば魔法の如き力を持っている。その力を、梵に与えたんだ。この子の、そして人類の未来のためにね」
天人は宥めるような口調で言うと、ゆっくりと香織の方に歩み寄っていく。
「この子は私たちの希望……私たちの宝だ。いつだって」
近寄ってくる天人に、香織はメスを突きつけた。
「来ないで……貴方は、自分が何をしてるか分かってるの!?」
香織の目は、もはや愛する夫に向ける目ではなかった。彼女の顔には、怒りや恐怖、嫌悪感が溢れんばかりに浮かんでいる。
夫の秘密については、殆ど知っていると思っていた。彼がドラゴニュートと呼ばれる生き物で、世界を守るためにメサイアという組織と戦っている……それで全てだと思っていた。
しかし真実は違った。夫は密かに大勢の子供を誘拐し、自らの実験の生贄としていたのだ。香織がそんな恐ろしい現実を知ったのは、ついさっきのことだった。そして今、我が子すらもその毒牙にかかろうとしている。
「この偉業が理解できないか? 私たちの子は、ドラゴンとなった……ヒトを超えたんだ。これは喜ばしいことなんだよ、香織」
天人は嬉々として語る。
「正気の沙汰じゃないわ……」
「そう思われるのも仕方ない。だが、犠牲よりも業績の方に目を向けるべきじゃないか?」
「業績!? 自分の息子を怪物に変えることが!?」
「怪物というのは正確じゃない。ドラゴンは生命の理を超越した生物なんだ。死の概念すらも無い、いわば不老不死の生き物だ。ドラゴンこそ人類が夢見た、永遠そのものだ!」
「そんなものに、梵を巻き込まないで!」
天人は臆する様子もなく、香織の前に立つ。メスを刺そうと思えば、簡単に刺せる距離だ。
「私を殺すのか?」
普段と変わらぬチャーミングな笑みで、香織に問いかける。「私を殺せるわけがないだろう」とでも言いたげに。
しかし、香織の殺意は本物だった。
「梵のためならね……」
香織はメスを強く握りしめると、勢い良く天人の頚動脈に振り下ろした。
「ぐぁっ!!?」
天人の首から、鮮血が噴水のように噴き出す。天人は慌てて傷口を手で抑えたが、すぐに指の間からも血が溢れてきた。足がもつれ、そばにあった実験器具類を次々に倒してしまう。
「香、織……まさか本当に……やるとはな……」
メスは首元に深く突き刺さり、滝のような流血が天人のローブを真っ赤に染めていた。苦しそうに呼吸を荒くする夫を、香織は憎しみを込めて見つめる。
「梵は……私が守るわ!」
全身を汗で濡らしながら、絞り出すように宣言する。気丈に振る舞ってはいたが、吐き気を催すような出来事の連続で、香織の心はかなり疲弊していた。
天人はメスを自力で引き抜くと、そんな香織を嘲笑うようにニヤリと顔を歪めた。
「確かに……君の覚悟は私の想像以上だったよ。しかし……」
一瞬のうちに、天人の体が灰色の怪物へと変わる。
「私にも、愛する者を犠牲にする覚悟がある」
怪物が、目にも留まらぬスピードで迫ってくる。香織は逃げる間も無く、後頭部を強く殴打されてしまう。
「全てを知った君を、生かしておくわけにはいかない。だからせめて、私の創る世界の一端を……君の目で確かめて欲しい」
香織はたまらずその場に倒れこむ。どうにか立ち上がろうとしたが、徐々に視界が黒く塗られ始め、ついに意識を手放してしまった。
コンピューター類がいくつか並んだ無機質な部屋で、天人はモニターを眺めていた。モニターにはドーム状の白い空間が映っており、その中には天人の妻と息子がいる。香織が気絶してる間に、彼女と梵をドームの中に放置したのだ。
香織は不安そうに周囲を見回しながら、梵をしっかりと抱きしめている。天人はそれを悲しげな瞳で見つめた。
「我が愛する妻よ……その命の華をもって、新たな世界の礎となってくれ」
声を震わせながら、手元のボタンを押す。
「さようなら……香織」
まもなく、モニターの映像に変化が訪れた。ドームの障壁の一角が、重々しく上に開いていく。画面の中の香織も、その光景に釘付けになっていた。開閉扉の向こうから、一体何が現れるのか。その答えを知らない香織は、不安と恐怖を全身に浮かべている。しかし答えを知っている天人は、大粒の涙を流していた。
闇の中から、怪物がその姿を見せ始める。大きく裂けた口、びっしりと生え揃った牙、全身を覆う鱗、翼と手が合体した器官……それは体長10mほどの、白いドラゴンだった。この世に存在するはずのない異形を目の当たりにした香織は、体を硬直させている。
このドラゴンこそが、天人の研究の成果だった。途方もない時間をかけてイーラの血液に適応できる血筋を見つけ、さらにその中から適正な年齢の者を選定した。砂漠で1粒の砂金を見つけるような努力の果てに、遂に1人の子供を探し当てたのだ。まだ1歳程度の、永代家の一人息子だ。彼はドラゴニュートのような出来損ないではない、完全なドラゴンとなった。
香織は梵を抱きながら、決死でドラゴンから逃れようとする。しかし周囲は閉ざされているため、ドームの端に寄るだけで精一杯だ。
ドラゴンが香織たちに迫る。翼を器用に使って、ゆっくりと彼女らを追い詰めていく。僅かに開いた口からは、唾液がダラダラと漏れていた。
すると香織は、我が子をそっと地面に置いた。何をする気なのかと、天人はモニターに釘付けになる。まさか、梵を放置して逃げるつもりなのか。
そうではなかった。香織はドラゴンに向かって何かを叫ぶと、怪物の気をそらすようにどこかへ走り始めた。ほんの少しでも、我が子の命を長らえようとしているのだろう。
「君は、最期まで母であったな……」
天人が惜しむように呟く。
香織の命がけの抵抗は、長くは持たなかった。ドラゴンはその鋭い鉤爪で、素早く彼女の体を掴んでしまう。香織は喉が張り裂けんばかりに何かを絶叫している。音声が無いので内容は分からないが、それが断末魔であることは容易に想像がついた。ドラゴンはそのまま香織を口元に運び、菓子でも頬張るように彼女の体を喰いちぎってしまった。
天人は目を背けず、妻の最期をしっかりと目に焼き付ける。それが、彼なりの贖罪であった。
――――香織……君もこれで、分かってくれただろう。これから人類が辿り着く世界は、誰もが神となれるんだ。
すると今度は、梵の方に変化が起こった。突如として青い光を放ったかと思うと、小さな体が一瞬のうちにドラゴンの姿へと変異したのだ。
「目醒めたか……」
天人は悲しみを飲み込みつつ、歓喜の目をモニターに向ける。妻の死をきっかけに、我が子が神の如き生物へと進化したのだ。最も大切な命を捧げることで、至高の存在を手中に収めることができた。
青いドラゴンは狂ったように、白のドラゴンに襲いかかっている。その姿は悲痛そのものだった。慟哭し、怒りのままに白竜を殺そうとしている。幼子なりに、母を喪ったことを理解しているのだろう。
天人は笑みを浮かべた。梵が生まれた日のような、優しい笑みを。
「梵。いずれお前が真実を知って、私と殺し合うことになったとしても……私はお前を愛し続けるぞ」




