第13話 忍び寄る邪悪
太陽が水平線に沈み始めた頃、梵は研究所から離れた、初嘉山の麓を訪れていた。天人に案内されてのことだ。どうしても、梵をここに連れてきたかったのだという。だが周囲には草木が生い茂るばかりで、他には何もない。
「何なの、ここ?」
思わず尋ねるが、天人は一切躊躇せず森の中を進んでいく。
しばらく歩くと、やがて木々が全く生えていない場所にたどり着いた。この島は全体が森に覆われていたはずだが、この一帯だけが円状に切り取られたように更地になっている。さながらミステリーサークルだ。
その半径40m程度の円の中心に向かい、天人は足を進めている。そこに何があるのか、梵には見当もつかない。
「ここだ」
天人が足を止め、何もない地面を指差す。雲雀の巣でもあるのだろうか。梵がふらふらと近寄ってみると、地面に大理石のプレートが埋め込まれているのが見えた。正確に切り取られた長方形であり、自然の産物でないのは明らかだ。雑草しかない土の上で、プレートは異様な存在感を放っている。
ふと、プレートに何か文字が刻まれているのに気付いた。その文字を読んで、梵は驚愕した。
「これって……」
"海成香織
悠久の安らぎの中で、静かに眠る。"
「母さんの、墓……」
「そうだ」
石の上には、花束が1つ手向けられている。まだ新しい。おそらく、今朝天人が置いたのだろう。梵は、小さな墓の前にしゃがんだ。
「やっと会えたね、母さん……」
そっと石碑に触れてみる。手のひらに、ヒヤリとした感覚が走った。この下に、母が眠っているのだろうか。あまり実感が湧かない。
「香織は最期の瞬間まで、お前の幸せを願っていた。だから私は約束した……私達の子を、必ず幸せにすると。その約束は果たせなかったが……」
天人も、梵の隣に跪く。歪な形ではあるが、これでようやく家族全員が揃ったことになる。
「香織……私達の息子は、こんなにも大きくなったぞ」
天人が寂しそうに笑う。生きていてほしかった……そんな思いがひしひしと伝わった。
赤とオレンジに塗られた空が反射し、石碑がキラキラと輝いている。まるで、天国から母が微笑んでくれているようだ。
そよ風が吹き抜け、木々が心地よく囁く。梵の心は、台風一過の空のように晴れやかだった。
ようやく自分の運命に決着をつけられた。きっと、ここがゴールだったんだ。父に再会し、過去を知り、自分が何者なのかを知ること。それがゴールであり、新たな未来へのスタートなのだ。長かった。やっと、ここまで辿り着いた。
「梵、試しに競争でもしないか?」
突然、天人がそう提案してきた。
「競争?」
「空を飛んで、この初嘉山の周りを一周するんだ。ゴールは今立ってるこの場所。ドラゴンとドラゴニュート、どちらが速いかの一騎打ちだ」
「へぇ……言っておくけど俺、かなり速いよ?」
その手の競争なら、雪也と何度もやっている。最初は全く敵わなかったが、最近では互角レベルだ。だからかなり自信はあった。
「フフッ……我が子とて手加減はしないぞ?」
天人は不敵に笑うと、灰色の刺々しいドラゴニュートに変身した。梵もまた青いドラゴンの姿を発現させる。
「さぁ、ゲームと行こうか」
梵と天人は、勢いよく夕闇の空へと飛び立った。
結果は梵の圧勝だった。
天人に30秒近い差をつけ、梵は元いた場所に帰ってくる。しばらくして漸く戻ってきた天人は、もう息も絶え絶えだった。
「どうしたの? 手加減してくれなくても良かったのに」
梵が意地悪そうに聞く。
「ハァ……ハァ……やはり……本物のドラゴンには敵わないな……」
「父さんがドラゴンでも多分俺が勝ってたよ」
「言ってくれる……ハァ……」
まるで、憑き物が落ちたようだった。胸が軽くなり、世界がいつもより明るく見える。このまま、平和な時間がずっと続けばいい……そう思っていた。
刹那、不安が針のように胸に突き刺さった。
「どうした梵、浮かない顔して」
「俺、勝てるのかな……。メサイアとか、イーラに」
たとえ父親に会えたとしても、全てが終わったわけではない。むしろ、本当の戦いはこれからと言える。メサイアやイーラがどれほどの脅威かは、想像がつかない。だからこそ怖かった。このささやかな平和すらも紅蓮の炎に焼かれ、塵と化してしまうかもしれない。幸せは、呆気なく崩れ去るものだ。
曇った顔をする梵に、天人はそっと手を置いた。
「勝てるさ。お前は孤独じゃないんだ。私も戦うし、雪也くんだっているだろう? 自分自身を信じ、共に戦う仲間を信じろ。お前は誰よりも強い」
励ましでどうにかなる問題ではない。しかし、父の「勝てる」という言葉は、梵の心に幾分か平穏をもたらした。
「もし我々が勝って、全てに終止符を打つことができたら……私とお前で暮らそう。どこか他人の目の届かない、静かな場所で」
「……うん」
「じゃあ、約束だ」
天人が右手を差し出してくる。握手を求めているらしい。
梵はすぐに応じようとしたが、直後にポケットのスマホがブルブルと震えだした。どうやら電話のようだ。
「あ……ちょっとごめん」
「いや、気にするな」
天人は口にこそ出していないが、親子の時間を邪魔されて不満そうだった。その証拠に、子供っぽく唇を尖らせている。
電話は式条からであった。彼から電話が来るのはハレー彗星の地球接近より珍しい。
「はい、どしたの?」
『梵、お前か?』
式条の声はいつになく切迫していた。
「そうだけど」
『一刻を争う事態だ。今、周りに誰かいるか?』
梵は念のため周囲を見回してみる。当然、側にいるのは天人1人だ。
「父さんだけだけど」
『いいか? 何も聞かずに、すぐD-スレイヤーの基地に来い』
「どうしたの?」
『電話じゃ話せない。とにかく、今すぐだ』
式条の背後からは、人々の怒声やヘリのローター音、大型車両の通る音が絶え間なく聞こえている。基地で何かが起こったのだろうか。
「……わかった」
『ああ。もう切るぞ』
その会話を最後に、電話は途切れた。
よほどの事態でない限り、自分を基地に呼び出したりはしないだろう。もしかして、メサイアやイーラが動き出したのでは……。梵は不安に駆られた。
「ごめん、ちょっと帰らなきゃいけなくなった」
「そうか……寂しくなるな」
天人は冗談めかしく言ったが、それが本心であろうことは何となく察しがついた。
梵は青いドラゴンに姿を変え、2対の翼を広げた。
「じゃあ、またね父さん」
「ああ。いつでも来いよ」
「雪也のこと、頼んだ」
「任せておけ」
梵はそのまま、疾風の如き速度で天へと舞い上がる。夕暮れの空に消えていくその姿は、青く輝く雫のようであった。
天人は息子の影が見えなくなるまで、いつまでも空を仰いでいた。
「ふぅ……」
梵が飛び去るのを見届けると、天人は満足げに深呼吸をした。
「さて、と……」
これで終わったわけではない。本当の使命はこれからだ。15年かけて、ようやくスタートラインに立てたのだ。世界の命運は自分の手にかかっている。
天人は身を翻し、研究所に戻ろうとした。
「全く素晴らしい息子を持ったものだな、海成」
突然そう話しかけられ、体が凍りついた。眼前には、いつの間にか仙人のような容姿をした老人が立っている。
天人は、この老人をよく知っていた。
「オウル卿……!!?」
動揺しきった声でそう聞く。目の前の現実を受け入れることで精一杯だった。
「どうした海成? 何を怯えている?」
オウルがわざとらしく尋ねてくる。直後、天人を取り囲むように6体のドラゴニュートが降り立った。
まさか……オウルがこの場にいるはずがない。この男はずっと、アフリカにあるメサイアの本部にいるはずだ。だが、これが夢や幻覚だとは到底思えなかった。
「あの少年はお前の息子なんだろう? んん?」
「あ、えっと……」
言葉に詰まる天人を、オウルはさも愉快そうに眺める。
「こやつを拘束しろ」
オウルの指示でドラゴニュート達が天人の腕を掴み、そして跪かせた。
「本当に残念だよ。お前のような優秀な同志を……この手で処刑せねばならないとは」
全てを知られている……そう察するのに、時間はかからなかった。
「一体、どうして……」
「哀れな裏切り者よ。我々が気づかないとでも思ったか? 15年前、お前はエクアドルの秘密研究所からイーラの血液を盗んだ。昨日東京に現れた2体のドラゴンは、お前が生み出したんだろう?」
「くっ……!!」
天人は歯をくいしばる。無精髭の生えた顎を、オウルの手が気色悪く這った。
「安心しろ。貴様の息子は生かしておいてやる。舌を引き抜き、目を抉り出し、はらわたを切り裂き……死んだ方がマシだと思うほどの苦痛を味わわせるがな」
「オウル……!!」
力を振り絞って凄みを利かせる天人に対し、オウルはニヤリと歯を見せた。
「梵!!」
D-スレイヤーのヘリポートに降り立った梵を、式条が迎えた。その表情は、鬼気迫るという言葉がぴったりだ。周囲の兵士たちも、慌ただしく武器や大型兵器の準備を整えている。まるで戦争前夜のような雰囲気だった。
梵は人間の姿に戻ると、式条の方に歩み寄った。
「何があったの?」
「梵、お前が無事でよかった」
「どういうこと?」
言葉の意図がわからず、梵は困惑した。
「いいか梵、落ち着いて聞くんだ」
式条の両手が、梵の肩に置かれる。
「お前の母親……海成香織は、14年前に行方不明になってる」
「えっ何?」
「死亡届も出されていないし、彼女の最期を看取った人間もいない。日本中のどの病院にも、彼女の診断記録が無かったんだ」
「……言ってる意味が分からないんだけど」
目を白黒させて、式条の顔を見上げる。彼が何を言いたいのか、見当もつかなかった。
「俺が言いたいのは、天人は嘘をついてるってことだ」
「は……?」
式条が何か冗談を言ってるのかと思った。だが、その瞳は真剣そのものだ。
「嘘って……何?」
「海成香織の死についてだ。俺は少し気になってな、部下に調べさせたんだ。天人の証言を裏付ける証拠は、どこにも無かった」
「だからって……」
式条は「あくまで可能性の話だが」と続ける。しかしその言い方は、ある程度の確信を持っているようだった。
もし仮に天人が嘘をついているとすれば、その理由は……。
そんなはずない、あり得ない。梵は心の中で否定し続けた。




