第12話 涙
梵は夢を見ていた。
いいや、夢というよりは記憶だ。雪也と共に、サーガ機関に囚われていた時の記憶。白い壁に四方を囲まれ、ベッドが2つ並んでいるだけの殺風景な空間で、数ヶ月間を過ごしていた。無論娯楽などあるはずもないので、互いと話すことだけが唯一の暇つぶしであった。
他愛もない会話の中で、雪也の過去の一端を聞いたことがあった。
「雪也は、両親が生きてれば良かったって思ったことある?」
梵がそう尋ねると、雪也は
「ん〜……まぁな」
と軽い調子で答えた。
「突然寂しくなることとかは?」
「あー、昔は結構あったな。てか、そのせいで時々荒れてたし」
「雪也が? なんか意外」
「小学生の頃とか、クラスメイトとしょっちゅう喧嘩してたんだぜ。まー、所謂問題児ってやつ? あん時は後先考えないことばっかやってた」
「後先考えないのは今もだと思うけど」
「おい」
話の腰を折るなよ、とでも言いたげに雪也が抗議の目線を向けてくる。それを適当に受け流して、続きを話すよう促した。
「それで?」
「ああ。そんなこんなあって、9歳の頃ドラゴンの力が目覚めた」
「怖かった?」
「怖いっつーか……ショックだったな。俺は人間じゃないんだ、俺は一生独りなんだって。でも、爺ちゃんと婆ちゃんはずっと側にいてくれた。俺が化け物だって分かってからもな。"絶対にお前に寂しい思いはさせない"って言ってくれたんだ。それで俺も、ぐっすり眠れるようになった」
雪也は仰向けに寝転がり、懐かしそうに語る。口元も綻んでいて、どこか嬉しそうだった。
「じゃあ、今はもう寂しくないんだ」
半ば確信を持って聞いてみる。
おう! と満面の笑みで返してくれると思った。梵自身も、そんな返事を期待していた。だが、雪也の表情はロウソクが消えるように暗くなっていく。
「なあソヨ」
体を梵の方に向け、暗雲立ち込める眼差しで何かを訴えかけてくる。普段からは考えられないほどトーンの落ちた声に、梵は困惑することしかできない。
「俺、時々夢を見るんだ」
「夢……?」
「俺が父ちゃんと母ちゃんの葬式に出てる夢。夢の中で、俺はずっと泣いてた。おかしいよな……親が死んだのは俺が赤ん坊の頃で、葬式の記憶なんかあるはずないのに」
梵はただ驚いていた。雪也が、こんなことを言う奴だとは思わなかったからだ。悲しみを乗り越えて、ただひたすら前向きに生きている奴だと思っていた。夢というのは、その人の深層心理の表れだというが、それならば……。
「なぁ……親の温もりなんか知らないはずなのに、悲しくなるのは何でだろうな」
雪也の瞳から雫がこぼれる。それは梵が見た、雪也の最初で最後の涙だった。
初めから無かったものを、失うことなどできない。だから悲しみも存在しないはずだ。
だが、雪也は泣いていた。悲しんでいた。まるで両親の死の瞬間を、はっきりと覚えているかのように。人は最初から失っていたものを、惜しみ嘆くことができるのだろうか。生まれた時から手や足が無かった人間は、喪失の痛みを感じるのだろうか。
梵には、雪也にかけてやる言葉が見つからなかった。
梵が起床した頃には、時刻は正午近くになっていた。知らない場所、知らないベッドでは眠れない体質だったはずだが、今回ばかりは時間を忘れて眠ってしまった。きっと、昨日色々と大変だったせいだろう。
起きるや否や、天人がいきなり朝食に誘ってきたので、とりあえず誘いに乗ることにした。
そうして案内されたのは、広々としたダイニングルームだった。窓からは日光が差し込み、部屋全体を照らしている。長いテーブルの周りには、椅子が14脚も置かれていた。
あの寝室といい此処といい、本当に研究施設なのだろうか。どちらかというと洋館を思わせる内装だ。
「さぁ、掛けてくれ」
促されるままに、梵は椅子に座る。
これほど大きなテーブルに、父親と自分の2人だけというのは、いささか寂しかった。目の前には、朝食にもブランチにも相応しくないような分厚いステーキが置かれている。
「どうした? 食べないのか?」
「あ、いや……」
どう考えても、この料理は寝起きで食べるような物ではない。もっと軽い食べ物を用意してほしかったが、流石に悪いと思って何も言えなかった。
「そうか。あーんしてほしいのか」
「……はぁ!!?」
何を勘違いしたのか、突然とんでもないことを口走った父親に、梵は素っ頓狂な声を上げてしまう。
「違ったか?」
「違うに決まってんだろ! 何歳だと思ってんだ!」
「いやすまんすまん。最後に見たのは1歳の時だったからこう……連続性が無さすぎて」
何が連続性だ、と心の中で悪態をつく。
「とにかく、冷めないうちに食べろ」
「う……うん」
気が進まないながらも、梵は渋々食べることにした。
そこからはしばらく沈黙が続いたが、不意に天人が話を切り出してきた。
「インフェルノドラゴンは、お前が倒したんだろう?」
梵は黙って首を縦に振る。
「我々も奴の情報をあまり持ってなくてな……良ければ教えてくれないか?」
面倒だな……とは思ったが、父の頼みを断る理由もない。インフェルノドラゴン……あいつに関することについては、脳に直接焼き付けられたように鮮明に覚えている。
「あいつは元々、人間の科学者だった。名前は富士田承之介。サーガ機関でドラゴンを研究してたらしい。ドラゴンの力を使って色々実験をやってたみたいだけど……」
「失敗してああなった?」
「いや、違う。最初からあれが目的だったんだ。自分を怪物に変えて、人類を滅ぼそうとしてた。頭の狂った奴だったよ」
「そうして横浜を襲った富士田に、お前と雪也くんが挑んだんだな」
「そういうこと。だからサーガ機関は嫌いだ。あいつらロクなことしない」
「全くだな」
天人は共感したように苦笑いする。つられて梵も少しだけ笑った。父と共通の話題を持てたことが、なんだか嬉しく思えた。
その後も、過去を辿るように今までのことを語った。アメジストドラゴンと戦ったことや、雪也や美咲と出会ったことも。梵に女の子の友達がいると知ると、天人は少し嬉しそうにしていた。
だが、絶対に触れてほしくない過去もあった。
「それで、いつどうやってドラゴンの力が目覚めたんだ?」
天人にそう聞かれた途端、梵の顔は一気に曇った。
「え……どうしたんだ?」
当惑する天人を、梵は鋭い眼差しで見つめる。まるで警告するように。
「聞かない方がいいと思うけど」
「どういう意味だ?」
このまま適当にはぐらかして、場を切り抜けることもできる。だが仮にも親子である以上、いずれは話しておかねばならない。話してしまえば、この親子の関係も終わってしまうかもしれない。しかし、時間が経ってからではますます複雑になる。梵は深くため息をついた。
「最初に力が覚醒した時、俺は人を殺したんだ」
天人は眉毛を吊り上げ、目を白黒させる。相当な衝撃を受けている様子だ。そんな父を何ら気にするでもなく、梵は淡々と続ける。
「中学の同級生だった。あいつらは、ずっと俺のことを傷つけて楽しんでた。人の痛みが分からない奴らに、痛みを教えてやったんだ」
天人は額に冷や汗をかき、頰を震わせている。彼の中にあるのが悲しみか、怒りかは判別できない。
「あいつらはロストレッドの人形も壊そうとした。だから復讐した。力が暴走したわけじゃない。全部自分の意思でやった」
父を挑発的な目で見る。
さあどうする? 俺を人殺しって罵るのか? 一丁前に正義や倫理を振りかざすのか?
「後悔なんか微塵もない……あいつらを生きたまま灰にした時は、最高の気分だったよ」
さらに追い討ちをかけてやる。もうヤケクソに近かった。
――――どうだ。これがお前の息子だ。こんな人の命を何とも思えない、骨の髄から腐ったガキがお前の息子なんだ。
思わず歪んだ笑みをこぼす。父は今、自分にどれだけ失望しているだろうか。父は自分を、世界を救った心優しいヒーローだとでも思っているようだった。だから真実を教えた。裏切られたと感じているだろうが、勝手に期待する方が悪い。
そうやって、誰に対してでもなく言い訳を並べた。
――――全てを曝け出した俺を、まだ息子と呼べるか?
「どうだ? 聞くべきじゃなかっただろう?」
自分を愛してくれた父や、死んだ母に唾を吐きかけるようなことをしている、それはよく理解していた。それでも、このままずっと自分を偽ってはいられない。それがせめてもの、父への贖罪だ。
たとえ自分の前から父が去っていったとしても、また孤独に戻るだけだ。孤独にはとうに慣れている。
「さあ、何か言えよ……言えよ!!」
俺を軽蔑しろ。罵倒してみろ。ぶん殴ってみろ。"お前になんか再会するんじゃなかった"と言ってみろ。さっさと終わらせてくれ。
だがどんなに訴えても、天人は沈黙を守っていた。ただ悲しげな目で、梵の方を見つめていた。
窒息しそうな雰囲気に耐えられなくなり、梵は席を立とうとした。だがそれは、男性らしい逞しい腕に阻まれてしまう。2本の腕はそのまま、梵の体を優しく包み込んだ。
「え……?」
一瞬、何をされたのか分からなかった。全身を温かさが覆っている。自分が父に抱かれていると気付くまでには、しばらく時間がかかった。
「何、してんだよ……放せ!」
「梵、本当にごめんな」
「はぁ……!?」
どうして謝られたのか分からない。間近にいる父親が、何を考えてるのか分からなかった。
俺は、父が思っていたような輝ける宝石じゃない。あちこち亀裂が入り、泥に汚れたただの石ころだ。しかし父はその石ころを、さも大事そうに抱き締めている。
「気付いてやれなくて、済まなかった。今まで辛かったんだろう? 怖かったんだろう?」
天人は上擦った声で梵に語りかける。
「私に話してくれてありがとう。大丈夫だ、お前はもう……孤独じゃない。もう寂しい思いはさせない」
父の声は力強く、頼もしかった。
「お前1人が十字架を背負うことはない。ごめんな……何もかも私のせいだ。これからは、私がずっと側にいるから」
怒りのままに人を殺してしまったこと……それは、美咲にも雪也にも話せなかったことだ。恐れられ、嫌われ、軽蔑されるのが怖かったから。それを天人にだけ話せたのは、彼が本当の父親だからだろう。この父親は「蔑み」という概念を最初から知らないかのように、本性を曝け出した息子を温かく包み込んでいた。
梵の心を何年も覆っていた霧が、徐々に晴れていくようだった。初めて本当の意味で、この男を父親だと思えた。自分がどんなに歪んでも、決して見捨てないでいてくれる人。心に巣食っていた分厚い氷が、少しずつ溶けていく。温かい涙が、梵の両目から溢れ出た。
「泣いていいんだ、息子よ。感情を殺す必要なんてない。好きなだけ泣いて、怒って、そして笑え」
涙を我慢しようとしても、できない。胸が締め付けられ、その度に嗚咽が漏れた。天人はそれを、わずかな量も逃さず受け止めている。
「お前に会えてよかった、梵」
天人は梵の頭をそっと撫でる。
窓から差す淡い日光が、父と子をそっと照らし出していた。




