第9話 両親
――――母は既に死んでいる。
その事実を告げられた時、悲しみは湧かなかった。再会の僅かな可能性が断たれた、それだけだ。殆ど会ったこともない人間との死別など、惜しむこともできない。
「どうして死んだんだ?」
梵は無感情に、事務的に聞く。
「感染症だ。お前を出産した時に、子宮に細菌が入ってしまったらしい。極めて稀な病気だったんだが……」
「そう……」
会話をしている間、2人は目を合わせなかった。正確には、梵の方が一方的に目を逸らしていた。
「母さんの名前……何ていうの?」
「海成香織だ。常に前向きで、優しくて、笑うのが好きな女性だった。生きていたら、きっと立派な母親になっていただろう……」
天人の声は震えていた。まるで嗚咽するように。
「愛してたんだ」
「ああ……心からな」
嘘を見抜くのに自信がある梵でも、彼が本心から語っていることは容易にわかった。
「なら、どうして俺を恨まないの?」
「……どういう意味だ?」
「俺を生んだせいで、母さんは死んだってことなのに」
天人はゆっくりと首を横に振る。そして、梵の頭を優しく撫でた。
「梵……私たちは共に愛し合い、そしてお前を授かった。後悔などあるはずないだろう? ましてや恨みなんて……。香織だってきっと、いや絶対に、お前を生んだことを誇りに思うはずだ。お前は香織の遺した、最後の贈り物。私のただ1人の息子、そして唯一の家族だ」
「……」
意外だった。
天人にとって自分は、愛する者の命と引き換えに生まれた忌子のはずだ。妻の仇と見られてもおかしくはないだろう。それなのに、憎むどころか自分を「家族」とまで呼んだ。子供といのは、それほどまでに特別なものなんだろうか。
「私はお前を捨てたんじゃない。メサイアから守るために、お前と別れるしかなかったんだ。施設に預けた時、必ず迎えに来ると誓った。それから14年もかかってしまったがな」
「そうだったんだ……」
梵はまだ、この男を許す気にはなれなかった。だがほんの少しだけ、ホッとした。自分を手放したのは決して身勝手な理由じゃない。その事実が、なんだか嬉しかった。
「で、梵の能力の正体は何なんだ?」
式条が、親子の会話に水を差すように尋ねた。天人は一瞬だけ不機嫌そうな顔をする。
「……それも、我々が授けた能力だ」
軽く言葉を詰まらせながら答える。
「そうだ、私は罪を犯した。我が子を実験台として利用してしまったんだ。どんな理由があろうとも、許されることじゃない」
「利用した?」
梵が聞くと、悪事がバレた子供のような顔になる。
「イーラの血液……それを人間に投与すれば、ドラゴンの力を手に入れられる。だが適合率はドラゴニュートよりも遥かに低いんだ。ドラゴニュートが数万分の1なら、ドラゴンは数千万分の1程度だ。言うなれば、梵や雪也くんは選ばれし者なんだよ」
式条は頭の中で話を整理する。要するに、ドラゴンの血液を飲めばドラゴニュートに、イーラの血液を飲めばドラゴンになるらしい。そして梵や雪也は、宝くじを2週連続で当てるくらいの確率でドラゴンになった、と。
「遺伝子の問題なら、アンタが自分で試せば良かっただろう?」
式条が威圧するが、天人は首を横に振った。
「10歳を超えると、ドラゴニュートやドラゴンに適合する可能性は大きく下がる。だから、我が子を使う他なかった。例えそれが禁忌だとしても」
式条は目を細める。世界を守るために、ドラゴンの力が必要だった。それは理解できる。しかしどんな理由があろうとも、自分の息子を死の危険に晒す人間が、まともとは思えない。
「アンタの息子は、下手をすれば死んでいたんだぞ? サーガ機関にも狙われていたし、国防軍内でも射殺許可が出ていた。おまけにアメジストやインフェルノの出現だ。知らなかったじゃ済まされないぞ」
式条は今にも掴みかかろうかという勢いで迫った。しかし寸前で華奢な腕に袖を引っ張られ、制止される。
「待って。俺は別に怒ってない」
止めたのは梵だった。式条は思わず面食らった顔をしてしまう。
「何を言ってる、こいつのせいでお前は……」
「だから別にいいんだって。過ぎたことだし。今回だって、思ったより悪い結果じゃなかったから」
「ドラゴンの能力のせいで、お前はどんな目に遭った!?」
「確かに色々あったけど、お陰で美咲や雪也に会えた」
「…………」
納得がいかないながらも、式条は引き下がるしかなかった。やはり梵も、実の父が目の前で糾弾される光景は見たくないのかもしれない。
「……わかった。じゃあ、今日のところは帰ろう。島は移動しないからな。いつでも来れるさ」
式条は返事も待たず、部屋から出ようとする。だが途中で、梵がついてきていないことに気付いた。
「おい梵、どうした?」
名前を呼ばれても、梵は動かない。彼がどういうつもりなのか、式条には分からなかった。
「俺、もう少し話してたいんだ。その……父親と」
式条は驚いた。梵は基本的に、他人にどころか自身にさえ興味を持たない性格だった。それが、自発的に話したいと言い出すなど……やはり、実の父親ともなれば特別のようだ。
「そうか、わかった。だが俺は一旦軍に戻らなきゃならない。家には美咲も置いてきてるしな」
式条は少年の肩に手を置く。
「もし危険を感じたら、すぐに戻って来い。いいな?」
「大丈夫だよ」
梵は微かに口元を緩めた。信じろ、という合図だ。
若干後ろ髪を引かれながらも、式条は出入り口の取っ手を引いた。
「……ところで、帰りのヘリはあるのか? まさか片道切符か?」
天人は思い出したように携帯を取り出し、誰かを呼び出す。
「長門、A7にヘリを回せ」
去り際、一瞬だけ天人と目が合った。だが何も言うことが見つからなかったので、視線を無理やり剥がしてヘリポートに向かった。
東の水平線が明るくなり始めている。
夜が終わりを迎え、また新たな1日が始まろうとしている。漆黒の空が紫色に変わり、風が潮の匂いを運ぶ。絵に描いたような平和な朝。だが今この瞬間にも、災いは歩みを止めることなく、ヒタヒタと我々の元に近づいているのだ。
式条は今一度、天人から聞いた話を思い出してみる。
メサイア……そう名乗る組織は、古代に滅んだドラゴンを復活させ、新世界を築こうとしている。人類の破滅を代償として。
まったく次から次へと、どうしてこんな事態が続くのだろうか。
ヘリポートの周りに茂る森林が、ザワザワと囁く。本来は心地良い自然の音が、今は何だか不気味に思えた。
「大佐、ヘリに乗ってください」
天人の部下らしい青年に急かされる。往路にも使ったCH-47ヘリが、式条が乗るのを今か今かと待っていた。
「待たせて申し訳ない」
青年に謝罪の言葉を口にしながら、式条はランプドアからヘリに乗り込んだ。
広々としたシアタールームに、数時間前に再会したばかりの親子が2人、無言で立ち尽くしている。互いに積もる話はあるが、どう話せばいいのかわからない。呼吸をすることさえ憚られるほどの雰囲気だ。一時停止ボタンを押されたような状況が、数分に渡って続いた。
「正直、お前が残ってくれるとは思わなかったぞ」
窒息しそうな沈黙を、父親がようやく破る。
「気分だよ。ただの気分」
「……そうか」
それを最後に、またも会話が途切れてしまう。
梵はあれこれと会話のネタを思索する。父親に会ったら話したかったこと……色々あったはずだが、いざその時が訪れると途端に思い出せなくなる。いつも考えていたことなのに、何とももどかしい。
……何だっけ。親に伝えたかったこと、見せたかった物。両親に繋がる手がかりだった物……そうだ!
ようやく思い出し、自身のポケットを物色する。
「あ、あのさ……」
父に呼びかけた、その時だった。
リリリリン、という黒電話のような着信音が、密室に鳴り響く。天人はハッとして、懐から携帯を取り出した。それは間違いなく最新型のスマートフォンであったが、着信音だけが何故か古めかしい。一体どんなセンスの持ち主なのだろうか。
「す……すまん、電話が」
「見ればわかるって。早く出なよ」
天人は申し訳なさそうに電話に出る。相手は、ここの部下のようだった。
「もしもし? ……ああ。わかった」
電話はその二言だけで終わった。ほんの数秒の会話だったが、天人の表情はみるみるうちに曇っていく。
「悪いニュース?」
たまらずそう聞いてみると、父親は静かに頷いた。
「メサイアの最高指導者から、連絡が入ったらしい」
「最高指導者?」
最高指導者……その人物を、梵はもちろん知らない。だが父の話が正しければ、そいつが人類を滅ぼそうとする元凶ということになる。この期に、どんな奴なのか拝んでみるのもいいかもしれない。
「その最高指導者っての、どんな人間か教えてよ」
「いや、それは流石に……」
と天人は言いかけたが、何かを思案しながら最終的に「そうだな」と言った。一応、梵の提案は承諾されたらしい。
「じゃあついて来い。悪の中枢の姿を……お前にも見せよう」




