第2話 恐怖
一体あの力は何だったのだろうか。
そんなことを考えながら、梵は廃墟の暗闇の中に座っていた。"どこかの廃墟"ということ以外、場所に関することは分からない。
体は人間のものに戻っているが、震えは収まらない。
あの後……7人もの人間を殺した後、夢中で逃げ続けた。あまりに必死だったためか、その間のことはよく覚えていない。あてもなく走り続けて、この人気のない廃墟を見つけたのだ。
あれからどのくらいの時間が経っただろうか。数十分? 数時間?
こうしてまだ見つかっていないということは、さほど時間は経っていないのかもしれない。
――――化け物だあああああああああああああああああああ!!!
石川の取り巻きたちの最期の言葉が、頭の中でリフレインする。
化け物……。
その通りだ。あの姿は誰がどう見ても化け物だ。この世の生き物ではない。あれを例えるならば……ドラゴン。ファンタジー世界の生き物だ。
そんなものに、よもや自分自身がなってしまうとは、未だに信じられない。
梵自身、その環境から漫画や小説を読む機会など殆どなかったが、人間が怪物と化して人々から恐怖されるという話は聞いたことがある。
今まさに自分が置かれている状況だ。
もしあの恐ろしい姿を人々が目にしたら、どんな感情を抱くのだろうか。それはおそらく梵と同じ感情、恐怖や畏怖だろう。
人間は恐怖の対象や得体の知れないものを排除しようとする。そうなると、梵の運命は自ずと決まってくる。
何故自分にあんな力があるのか。人間がドラゴンになるなどあり得るのか。何かの病気、もしくは呪いだろうか。そもそも自分は本当に人間なのか。
疑問は尽きなかったが、それに対する回答は一向に湧いてこない。
ふと、自分の左手に目をやる。
酷い火傷をしていたはずだが、どういう訳か痛みは綺麗さっぱり消えている。梵は不思議に思い、包帯をゆっくりと取ってみる。
すると驚くべきことに、痛みだけでなく、傷そのものが消滅していた。今朝は確かに、遠目からでもわかるくらいに皮膚が痛々しく爛れ、肉が露わになっていた。それが今では、傷一つない綺麗な手があるだけだ。
明らかに人間の治癒能力ではない。
「何なんだよ……これ」
梵は誰に問うでもなく呟いた。
これまでずっと孤独の中で生きてきたのは確かだが、それとは完全に別次元の話だ。
これから自分がどうなるのか、全く見当もつかない。
梵は膝を抱えながら、ただ一つの持ち物であるヒーロー人形をぎゅっと握りしめていた。
惨殺事件のあった横浜市立北中学校へと続く公道を、国防軍特有の緑色の塗装がされたジープやトラックが列を成して走っている。
「中佐、まもなく目的地です」
「わかった」
陸軍中佐の式条憲一は、ジープの後部座席から不安げに外を眺めていた。
最初に出動命令を聞いた時、式条の頭の中に疑問符が浮かんだ。
"横浜市内の中学校で起きた猟奇殺人事件を調査せよ。"
それが命令の内容だった。だが、殺人事件の捜査など明らかに警察の仕事だ。国防軍の出る幕があるとは思えない。
だが命令は命令。しかも統合幕僚監部直々のご指名ときた。「どういうことか」と尋ねても、「詳細は不明」の一点張りだった。
一体全体エイリアンでも出たというのか、と最初は笑っていたが、その中学校の名前を聞いて全身の体毛が逆立った。そこは、愛娘の通う学校だったのだ。
刹那、ジープが左へと曲がった。舗装された道路から抜けたようで、車体がガタガタと揺れ始める。学校のグラウンドに入ったようだ。
窓からは数十台のパトカーや救急車、そして1000人単位の群衆の姿も見えた。
ジープがゆっくりと停車する。この一帯は警察により封鎖されており、マスコミや野次馬がいるのは遥か向こうだ。
ジープから出て地面に降り立つと、周囲の状況がよく分かった。既に生徒たちは校舎から避難しているようで、子供の無事を喜ぶ保護者の姿も多く見える。グラウンドでは警官たちが教師への聞き込みや現場検証を行なっていた。
式条がそこで感じたのは、異様に緊迫した現場の雰囲気だった。
警官たちの表情は一様に強張り、何かに得体の知れないものに怯えているようにも見える。誰も口には出さないが、確かに何かがおかしかった。まるで幽霊でも見たかのような顔だ。
「お待ちしておりました。式条中佐ですね?」
1人の若い警官に声をかけられた。
藍色の制服に身を包みながら、こちらに向かって敬礼をしている。
「ああ、私が式条だ」
式条は姿勢を正し、丁寧に敬礼を返す。
たとえ相手が部下であろうと若者であろうと、最大限の敬意を持って接しなければならない、というのが彼の信条だ。
「現場は信じられないような状況ですよ。正直、僕もあまり見たくないです」
そう言いながら、警官は式条たちを案内する。そうして到着したのは、日光の届かない体育館の裏の辺りだった。
「何なんだ……これは」
式条たちはその現場の光景を見て愕然とする。
胸に大きな風穴が空いた死体、上半身が引き千切られた死体、皮膚や内臓が焼け焦げ、骨だけになっている死体……。
どれか一つでも吐き気を催すほどだが、そんな死体がいくつも散乱していた。それらを調べている鑑識の警官も、苦渋に似た表情を浮かべている。
そこでようやく、式条はこの異様な雰囲気の理由に気付いた。
この惨殺は、どう考えても人間には不可能なのだ。
上半身のない死体は、明らかに肉食獣か何かに食い千切られたようだ。焼け焦げた死体にしても、火炎放射器でも使わなければまず不可能だろう。
式条は事の重大さに気付く。
この猟奇殺人は単なる殺人事件ではない。想像を絶する惨状は、一つの答えを指し示している。
――――この場所に怪物がいたのだ。
そう思い至った時、体の奥から底知れない恐怖が湧き上がってくるのを感じた。全身に鳥肌が立つ。
人間でない何かが、この少年たちを皆殺しにしたのだ。
「中佐、中佐の娘さんは……この中学校でしたよね?」
部下の1人にそう尋ねられ、式条はゾッとした。
そうだ。ここに来る前から、娘の安否については何度も考えていた。だが今、その恐れが現実になろうとしている。
この原型すら留めない死体の中に、娘の亡骸が含まれていたら……。
「調べた限りだと、遺体は全て男性のものでした」
式条の心中を察した警官が、気を利かせて伝えた。
「本当か!?」
式条が思わず安堵の声を上げる。
職務上感情的になるのは避けなければならないが、家族のこととなるとそうもいかない。やはり、父親としての自分を隠すのは難しかった。
式条はその場で大きくため息を吐く。幸いにも、自分にとっての最悪の事態は起こらなかった。もちろん状況が好転したわけでもないし、7人もの人命が奪われた事実が変わることはないが。
そして、人を殺す怪物が実在している事実も……。
「寺島、警察と協力して、この周辺を捜索しろ。何としても犯人を見つけるんだ」
「了解」
その命令で、部下たちが慌ただしく動き始める。
また新たな犠牲者が出る前に、事態を収拾せねばならない。式条を含む兵士たちの顔には、焦りが浮かんでいた。
「犠牲者は本当にこれで全部ですか?」
式条は何気なく近くの警官に尋ねる。
すると、ただでさえ神妙な面持ちだった警官の顔がいっそう強張った。
「それが…もう1人行方不明になってる少年がいて……」
「何ですって?」
"どうして言わなかったんだ"とでも言いたげな式条に対し、警官は一瞬たじろぐが、すぐに反論に移った。
「血痕が一切ないんです。学校側の見落としかとも思いましたが、いくら探しても見つからないそうです」
式条の気がいっそう引き締まる。
もし彼が生きているなら、きっと怯えながら助けを待っているはずだ。
「……では彼も捜索しなければ! 彼の名前は何です?」
警官が手に持っていた資料に目を通し、答えた。
「海成梵です」