第1話 かりそめの平和
85億人。
今現在、この星に生きる人間の数だ。
彼らは知恵を持ち、技術を持ち、文明を持ち、唯一の知的生命体……生態系の頂点として地上に君臨し続けている。その座はもはや永遠であり、何者にも脅かされることはない。
そう信じられていた。
東京都港区-2030年7月19日
無数の車が排気ガスを吹かす横で、多くの人々が行き交っている。何のことはない。日常の光景だ。1300万の人口が缶詰めにされているこの都市では、人のいない場所の方が珍しい。
海成梵は時々暑さに意識を奪われそうになりながら、そんな街の中をひたすらに歩いていた。
「はぁ~~……なんで最近こんなに暑いの?」
隣に歩く式条美咲が弱々しく呟く。
無理もなかった。この数日間、気温は30℃を軽く超え、蒸し焼きにされるかのような暑さが東京を襲っていた。梵と美咲が持っていたソフトクリームも、ドロドロに溶けてしまっている。
梵は液体と化したアイスを喉に流し込みながら、息を切らして汗を拭う。最早、美咲に返答することすら忘れていた。
「ねぇソヨ、飛んで帰らない? 今日だけでいいから」
「俺だってそうしたいっての」
もし周りに誰もいなければ、本当にそうしていただろう。だが生憎、歩道は人で埋め尽くされている。
空には太陽が高く昇り、こんな日に限って雲ひとつない快晴だ。
「でもま、明日から夏休みだし! 暑いなんて言ってられないけどね!」
美咲が大声で高らかに言う。ついさっきまで干からびた魚の如き雰囲気だったのに。まるで二重人格だ。
「家に着くまでに熱中症で死ななきゃの話だけどな」
「確かにね。ところで、ウチでの生活は慣れた?」
「そこそこかな……」
「4ヶ月も経ったのにそこそこ~?」
梵は現在、美咲の家に身を置いていた。
美咲の父である式条憲一の計らいによるものだったが、大方監視が主な目的なのだろう。だがそれは別にどうでも良かった。身寄りを失うよりはずっとマシだ。
しばらく街を歩いていると、どこからともなく拡声器の音が聞こえてきた。
『皆さん! 今人類には、審判の時が訪れているのです! 罪を贖わなければ、我々は滅ぶ運命にあります!』
けたたましい声を上げていたのは、前方に停まっている街宣車だった。周囲では、30~70代の男女数名がビラを配っている。どこかの新興宗教だろうか。
梵たちは黙ってその横を通り過ぎようとした。しかし運悪く「そこの君!」と声をかけられてしまった。
この気温だというのにジャケットを着込んだ中年の女は、梵の肩を掴むと強引にビラを見せてきた。
「ねぇ君、今世界に何が起こってるのか理解してる?」
梵と美咲は迷惑そうな視線を向けるが、当の女はそんなこと気にも留めていない様子だった。
「最後の審判が訪れようとしているの! あなたも知っているでしょう? 横浜を襲った恐ろしいドラゴンを!!」
女の言葉に、梵は内心笑う。
知っているか? 当然だ。奴を……富士田承之介を葬ったのは、他ならぬ自分なのだから。
そんなことなど知る由もない女は、なおも熱弁を続ける。
「いい? この世界には今、神が降臨しているの。私たち人間に最後の審判を下すためにね。人間は宇宙を飛び、中絶を行い、その薄汚い手で大自然の神秘を辱めた。天の掟に背いたから、古代の神の怒りを買ってしまったのよ!!」
「……あんなの、神なんかじゃない」
梵は思わずそう呟いた。女の狂気じみた瞳を、ナイフのように鋭い視線で見つめながら。
女はお化けでも見たかのような顔で、慌てて梵の肩を放す。目の前の少年に、ただならぬ気配を感じた様子だ。太めの身体を震わせ、少年の眼光から逃れようと後ずさる。
「ソヨ……もういいよ。行こ」
美咲が軽く腕を引っ張ると、梵は小さくため息を漏らして再び歩き始めた。背後にはまだ女の視線を感じたが、気にしなかった。
ドラゴンの出現以来……もっと正確に言えば横浜の惨劇以来、全てが変わった。世界中の宗教は終末の到来を予言し、ドラゴンを神と崇める団体まで現れ始めた。さっきの連中も、そういった類いの団体だろう。
「あんなの相手にしてても仕方ないって」
「それは分かってるけど……」
ドラゴンなど、ただの怪物だ。それは自分が世界の誰よりも知ってる。人は理解の及ばないものを、何でも"神"という言葉で片付けようとする。だが、自分に言わせればあんなもの……。
すると突然、ポケットに入れていたスマートフォンがブルッと震えた。その刺激で、一気に現実に引き戻される。
通知は美咲のスマホにも来たようで、梵よりも早く画面を確認していた。
「あ、雪也からだ」
梵もスマホを見ると、やはり通知が一件入っていた。送り主は、長野に住んでいる友人だ。
永代雪也との関係は、とても奇妙だった。彼もまた、梵と同じようにドラゴンの能力を持っていたのだ。そんなわけで必然的に知り合いとなり、共に訓練したり、共に戦ったりしながら今に至った。
雪也: 何時に行けばいい?
メッセージの内容はこうだった。
梵が東京で暮らし始めてからも、雪也とは何度も会っていた。東京と長野といえば、普通の中学生には今生の別れにも等しい距離だが、梵たちにとってはさしたる問題ではない。雪也ならば、ほんの20分か30分で飛び越えられる距離だ。
こうして暇さえあれば、美咲も交えた3人で、ゲームやら外出やらをして遊んでいる。さらに明日からは夏休みなので、あまり時間に縛られることもない。
美咲: 3時くらいかな
雪也: うぃ~
そんな気の抜けたやりとりで、会話は終わった。不仲とかそういうわけではなく、これがいつも通りだ。
「さ、早く帰ろっか!」
「そうだね」
そう言うと少年と少女は、陽炎の立ち上る歩道を走り始めた。




