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ロスト・ドラゴン・ヒーローズ  作者: モアイ
第2章 運命に呪われし少年
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プロローグ

2015年8月21日-神奈川県 横浜市


 男はハンドルを指でトントンと叩きながら、信号が青に変わるのを待っていた。こういう大切な日に限って、何度も信号に引っかかる。待っている時間はほんの1分弱のはずだが、体感では5分にも10分にも感じられた。

 数時間前、妻から「陣痛が本格化したので病院に行く」という旨の連絡が入ったが、その後病院からは「陣痛が治ったので今日は産まれないだろう」と言われていた。

 だがどうだ。さっき入った電話では、もう出産が終わってしまったと言うではないか。妻や赤子が無事だったのは何よりだが、やはりそばにいてやりたかった。

 目的の産婦人科に着くと、車を乱雑に停めて入り口まで全力疾走した。なりふり構わず、という言葉がぴったりで、身に纏っていたスーツは既に酷い有様だった。

 男は汗だくのまま、受付へと向かう。


「あの……ハァ……私の妻は……」


 息が上がっていて、上手く話せない。


海成(うみなり)さん、落ち着いてください! すぐにご案内しますので!」


 受付の看護師は若干気圧されながら、すぐに誰かに電話をかけ始めた。

 その場でしばらく待っていると、どこからともなく別の看護師が駆け寄ってきた。


「海成さん、お待ちしておりました」


 看護師の女性はよく通る声で、男とは反対の落ち着いた調子で言った。男はその看護師に向き直り、一度唾を飲み込む。


「妻は……無事なんですよね?」

「はい。母子ともに健康な状態です」


 にこやかに言う看護師を見て、男も思わず笑みをこぼした。






 そうして案内されたのは、6階の病室であった。男は引き戸を勢いよく開ける。

 ベッドで体を休めていたのは、1人の女性。他でもない、この女性に会うために、ここまで車を飛ばしてきたのだ。

 女性はゆっくりと振り向くと、端正な顔立ちに満面の笑みを浮かべた。男の方も、口元を綻ばせる。


「遅かったじゃない、"パパ"」


 女性は冗談めかしく言いながら、そっと手招きをする。男はそれに従い、一歩ずつ歩み寄っていく。


「側にいられなくてすまなかった、香織(かおり)

「仕方ないわね、今日だけは許してあげる」


 香織と呼ばれた女性は、男の妻であった。そして香織の手に大事そうに抱えられている、タオルに包まれた小さな命。ついさっき生まれたばかりの、何色にも染まっていない命。母親の手の中で眠る愛の結晶は、この世界の何よりも輝いて見えた。


「触ってみても……いいかな?」


 男はそう妻に尋ねる。香織は言葉を発する代わりに、そっと赤子の頰を差し出した。男はガラス細工に触れるよりも慎重に、頰に指を当てる。その感触はゼリーよりも柔らかく、すべすべとしていた。


 ……生まれてきてくれて、ありがとう。


 心の中で赤子にそう告げる。

 男は愛おしそうに何度も何度も、我が子の頰を撫でた。

 だがそれが災いしたのか、赤ん坊は目を覚まし、泣き出してしまった。甲高い声が、広い病室にこだまする。


「あぁっ……ご、ごめんよ……!」


 男は慌てて手を引っ込めるが、泣き声が収まる気配はない。


「も〜パパったら」

「す……すまん」


 香織はなんとか我が子の機嫌を直そうと、懸命にあやす。だが、赤ん坊は小さな体から出ているとは思えない声で、依然泣き続けた。男は何も出来ず、その様子を見ているしかない。

 男はしばらく縮こまっていたが、不意に何かを思い出し、胸元のポケットから何かを取り出した。


「さ、さぁ! これはお前へのプレゼントだ」


 男が躊躇いながらプレゼントを掲げる。その手に握られていた物……それは、全身に赤いコスチュームを身に纏った、特撮番組で見るようなヒーローのフィギュアであった。


「ちょっと……それは何なの?」


 香織は思わず苦笑いする。


「まぁ……特撮のヒーロー、かな」

「それで、何ていうヒーローなの?」

「さぁ、何のヒーローかまでは……」

「それも知らずに買ってきちゃったの!?」


 妻の追及に、男は黙り込むしかなかった。しばし病室に沈黙が流れる。

 数秒間の無音を破ったのは、赤子の笑うような声であった。香織の胸に抱かれた子は、男の持つヒーロー人形に向かって懸命に両手を伸ばしていた。


「ほ……ほら香織! この子、これを気に入ったみたいだぞ!」

「まぁ、驚いたわね……流石は男の子……」


 子供のようにはしゃぐ男の横で、香織は驚きのあまり言葉を失っていた。この子がこんなに声を上げるのは、真の意味で生まれて初めてであったからだ。

 男が人形を優しく手渡すと、赤ん坊は嬉しそうな顔をしながらそれを抱きしめた。両親の顔にも、微笑みが伝染する。

 男はホッと一息をつくと、窓の外の景色に目をやった。ガラスの向こうには横浜の市街地が広がっており、ビル群は西陽に反射して輝き続けている。その美しい光景は、天がこの小さな命の誕生を祝福しているようだった。

 男は我が子に視線を戻すと、その小さな頭を撫でてやった。柔らかい産毛が、何本か指に絡む。

 また泣かせてしまうかとも思ったが、心配は杞憂だった。赤子はすっかりヒーロー人形に興味を奪われていて、他のことは眼中にない様子だ。


「この子は……私たちの希望だ」


 男が万感の思いを込めて言うと、妻もすぐに同意した。


「そうね。その通り。この子は私たちの宝……」


 しばし、優しい時間が3人の家族を包む。

 すると香織が、何かを思い出したように夫の方に顔を上げた。


「そうだ! この子の名前、決めてくれた?」


 香織が期待に目を輝かせる。男は妻の瞳をまっすぐに見つめながら、力強く頷いた。


「ああ、勿論だとも」


 男の言葉は自信に満ち溢れている。そして、口元をわずかに緩めた。


(そよぎ)。この子の名前は……海成梵(うみなり そよぎ)


 男が言い終えると同時に、香織は小さな命の灯火に自らの額を当てた。閉じられた目から、一筋の涙が流れる。


「梵、10年後も20年後も……大人になっても……お爺ちゃんになるまでずっと、幸せに生きてね」

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