第1話 覚醒
神奈川県 横浜市-2029年7月13日
また、朝が来た。
いつもと何も変わらない朝だ。
いっそ目が覚めたら世界が終わっていればと願ったが、無論そんなことがあるはずもない。ベッドから立ち上がり、おぼつかない足取りで窓のところまで行き、カーテンを開ける。
夜明けの光が、少年の顔を照らす。朝焼けを見ようとも、鳥のさえずりを聞こうとも、気分が晴れることはない。
――――自分はどうしてこんな世界に生きているのだろう。
少年が何度となく自問自答したことだ。だが、答えが出ることはない。ただ毎日を、死人のように過ごして行くだけだ。
少年が求めていたのは、何でもないごく普通の家庭だった。家族の温もりというものを知りたかった。だが、それすらも叶うことはない。
自分がどういう経緯で実の両親に捨てられて里子に出されたのか、説明は一切なかった。物心がつく頃には既にこの里親の家にいたため、両親の顔すら知らない。
一体どうして自分を捨てたのか。
やむを得ない事情があったのか。
それとも単なる身勝手なのか。
それだけでも教えて欲しかった。最も、それで何かが変わるわけでもないだろうが。
洗面台の前に立ち、鏡に映る自分の顔を見る。輝きの無い瞳に、生気のない表情。この14年間の暗く惨めな人生を象徴しているかのようだ。
どんな侮辱であろうと、どんな暴力であろうと耐えることが出来たが、これを見ると自然に涙が溢れてくる。
"お前なんか生きてる意味はない。"
そう告げられているような気がした。
その通りかもしれない。実際何度か死のうとしたこともあった。だがいつもギリギリのところで怖くなった。
まともに生きることも、まともに死ぬことも出来ないというわけだ。
「食事は出来てるんだろうな、梵? 」
「はい……」
里親たちが起きてくる時間までに、彼らの朝食を用意しなくてはならない。もし準備が遅れれば、どんな目に遭わされるか分からないのだ。
海成梵。それが少年の名だった。
里親の苗字は諸田といい、梵は5歳の頃からこの家にいる。
実の父は児童養護施設の職員に「いずれ迎えに来る」と言っていたらしい。それ以来、13年間音沙汰も無いらしいが。もしかしたら、とっくに死んでいるのかもしれない。
2人が食事をする様子を、梵は部屋の隅に立ちながら黙って見ていた。これも日課だ。勿論梵の分の朝食など用意されるはずもない。
里親の1人である大輔がパンを食べ終え、コーヒーを口に運んだ時だった。
「おい何だこりゃ! 味が薄すぎるだろうが!!」
そう言うと、大輔は梵の顔めがけてコーヒーを浴びせかけた。
「熱っ!!?」
咄嗟に顔を左手で覆い、顔にかかることだけは防いだ。だが90℃近い熱湯を浴びれば、体のどこであろうと無事では済まない。
梵は左手を庇いながら、うずくまって呻き声をあげる。火傷をしていることは明らかだ。
「うわ~かわいそ~」
もう1人の里親である美月が、わざとらしく声をあげる。無論本音ではない。彼女も大輔とともに虐待を楽しんでいるクチだ。
その目は、まるでショーやイベントでも見ているかのようなものであった。
「さっさと学校に行ったらどうだ」
その一言で、梵は慌てて自分の部屋に戻り、荷物を準備する。
荷物を全てリュックに入れた後、机の中から手のひらサイズの人形を取り出した。
体色は赤く、フルフェイスのマスクをしている。詳細は知らなかったが、おそらく特撮ヒーローか何かだろう。
かなり年季が入ってボロボロであったが、大切なものだった。ここに来る前から持っていた唯一の物……つまり、実の両親への唯一の手がかりだ。
その人形を、リュックの中に忍ばせる。自分の物などほとんど持っていない梵であったが、このヒーロー人形だけは肌身離さず持っていた。
ヒーロー……。もしそんなものが存在するとしたら、自分を救ってくれるのだろうか。
梵は知らぬ間にそんなことを考えていた。
中学校に到着した梵は、無心のまま教室の扉を開ける。クラスメイトがわいわいと騒いでいるが、梵はそれらを無視して自分の席に座った。
まだ左手がズキズキと痛む。申し訳程度に包帯を巻いているが、傷を隠すこと以外に役に立っているとは思えない。
学校では理不尽な暴力から解放されるのかと言えばそうではない。むしろ学校の方が酷いかもしれない。所謂、いじめというやつだ。家にも学校にも、梵の居場所はなかった。
「あれ~?? 俺の筆入れが無いぞ~??」
教室のどこかから、いかにも芝居がかった声が聞こえた。いじめの主犯格である石川の声だ。
石川の取り巻きたち5~6人が、梵の周囲にやって来る。
「おい海成、ちょっと机の中見せろよ」
返事を聞こうともせず、取り巻きたちは梵の机の中を漁り始める。梵は抵抗することもできず、その様子をただ見つめていた。
「おい! 石川の筆入れあったぞ!」
1人が、その筆入れを高々と掲げる。
当然、梵はそんなものに心当たりはない。大方、彼らがあらかじめ机の中に入れておいたのだろう。
言いがかりは彼らの常套手段であった。
「人の物盗むとか……最低だなお前」
「今までの復讐ってわけ?」
「犯罪だって分かってる?」
「死ねよ」
梵は反論するでもなくただ黙って座っている。こうなってしまっては手遅れだと解っているからだ。
「皆さ~ん! 海成君は平気で人の物を盗む犯罪者で~す!」
誰かがそう叫ぶと、外野からクスクスという笑い声が聞こえた。いじめというものは、部外者から見れば単なる喜劇にしか映らないものだ。
すると石川が突然立ち上がり、ゆっくりとこちらに迫ってきた。
「おい……なに目逸らしてんだよ」
「うわっ……!!」
石川は梵の髪の毛を鷲掴みにし、無理やりその顔を上げる。石川は一際体格が大きく、柔道も習っていたので、抵抗することなどできない。
「この犯罪者……まだ盗んだもんあるんじゃねぇの?」
石川がそう言うと、取り巻きが一斉にはしゃぎ始めた。
「そうだな、間違いない! 絶対余罪があるに決まってる!」
「こういう奴は盗みが癖になってるんだ」
などと勝手なことを言いながら、梵のリュックの中を乱雑に漁り始める。中の物は周囲に投げ捨てられたため、床には教科書やポケットティッシュが散乱している。
「おい、なんか変なもん入ってるぞ」
取り巻きの1人が、リュックの中から何かを取り出す。赤く手のひらサイズの大きさのそれは、あのヒーロー人形だった。
「あ……待て! それには触るな!」
それまで無反応だった梵が、初めて声をあげた。石川と取り巻きは思わぬ反応に少し驚いたようだが、すぐにあのねっとりとした気味の悪い笑みを取り戻した。
「あれれ~海成君? ひょっとして大事なオモチャだったかな?」
「ははっ! ガキかよ!!」
その言葉に、周囲にいた人間が爆笑する。梵の必死な様子がよほど面白かったようだ。
「何この汚ねぇ人形? バカじゃねぇの……」
人形を手にした石川が、吐き捨てるように言う。
「返せよ!!」
梵が机から身を乗り出し、石川から人形を奪い取ろうとする。だがそれが逆に石川の逆鱗に触れてしまい、体を思い切り蹴飛ばされてしまう。
吹き飛んだ体は椅子に激突し、激しい痛みが背中全体に走った。その様子に、教室の盛り上がりは最高潮に達していた。
痛みで起き上がることのできない梵に、石川が耳元で囁く。
「これは預かっといてやる。放課後に体育館の裏に来い。このお人形さんが惜しかったらな……」
体育館の裏は日光が遮られているため常に薄暗く、夏場だというのに身震いするほどの寒さだ。当然こんなところには人影などない。だから石川たちにとっては、最高の"遊び場"だ。
梵は鉛のように重い足取りでその場所へと向かう。これまでも散々な目に遭わされてきた場所だ。
「てめぇ……人の物盗んだ上に逆ギレするとはどういうことだ!! 」
石川が怒鳴り声をあげながら全力の蹴りを放つ。
梵はその場に倒れ込んで、唇を噛み締めて声を殺しつつ、背中でそれを受け続ける。腹よりも背中の方が痛みが幾分か軽減されるのだ。
取り巻きたちはヒューヒューと歓声を上げている。
「お前みたいな屑……親に捨てられて当然だよな」
そう言いながら、石川は包帯の巻かれた梵の左手を踏みつける。それにより、皮膚を剥がされているような激痛が神経を伝って襲ってきた。
声にならない叫びを上げる梵の様子に、石川は満足げな笑みを浮かべた。
「この汚ねぇ人形も、必要ねえよな?」
石川はポケットから出した人形を、ボトリと地面に落とす。梵が目をやった時には、石川の足が今まさに人形の上に落とされようとしていた。踏み潰して破壊するつもりだ。
「おい……やめろ!」
梵は必死に止めようとする。
その様子が、彼らには面白かったようだ。梵の声真似をするなどして彼を嘲笑っている。
「さぁ、大事なお人形さんにお別れしな」
石川の足が、人形に向けて落とされる。
「やめろって言ってんだろうがああああああああああああああああああああ!!!」
梵は涙を浮かべながら、立ち上がって石川に拳を振り上げた。
…………はずだった。
意識が僅かに飛んだような感覚の後、仰向けなって恐怖の表情でこちらを見上げる石川の姿があった。
……見上げる? 石川は自分よりも身長が大きかったはずだ。
意識がはっきりしてきた時、石川の体がかなり小さくなっているのに気づいた。そしてその胸は、巨大な爪により綺麗に貫かれ、周囲には血だまりが生まれている。
そしてその爪の主は、何を隠そう梵自身であった。
取り巻きの6人も、その様子に恐怖と困惑の表情を浮かべ、その場から一歩も動けないでいる。
石川に視線を戻すと、その瞳から徐々に光が消えているのが分かった。声の代わりに鮮血を吐き出しながら、永遠に目覚めることのない眠りへと落ちていく。
「うわぁ……化け物だああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
取り巻きたちが、恐怖に怯えながらその場から離れようと一目散に逃げていく。
――――何なんだ……これ?
梵の頭の中に、疑問が雪崩のように押し寄せてくる。
一体何が起こっているのか?
石川や取り巻きたちには何が見えているのか?
今、自分はどんな姿をしているのか?
だがそんなことよりも、感じたことのないような快感が全身を支配していた。
梵は軽く飛び上がると、逃げる取り巻きたちのすぐ後ろへと着地した。彼らが振り返る間もなく、1人の体にその巨大な口で噛みつき、そのまま上半身を喰い千切る。
翼についた手でもう1人をハエのごとく叩き潰し、残りの人間を口から発射した炎で生きたまま火葬してやった。
悲鳴は全て消え去り、あたりに残ったのは無惨な焼死体だけであった。
――――やった……ついにやった!
死ぬほど殺したかった人間たちを、ついに殺すことができた。梵はしばらくその達成感に浸っていた。
だが、徐々に冷静になるにつれて、自分のしたことの恐ろしさが分かってきた。周囲に転がる屍は、もはや人の形を保っていない。骨か肉塊だ。
改めて、自分の体に目をやってみる。
皮膚は青い鱗でびっしりと覆われ、太く巨大な尻尾がある。胴からは蝙蝠のような翼が生え、足からは鉤爪が生えている。首の根元からはアンバランスな腕が生えており、口には鋭い牙が生え揃っていた。体長は、少なくとも20mはある。
――――怪物だ。
まずはじめに思ったことはそれだった。姿形だけでなく、その振る舞いも。
そこで初めて、自分自身への恐怖心が湧き上がってくる。人ならざる力で、一瞬で7人もの人を殺した。感じていた達成感は一瞬で消え失せ、代わりに底知れぬ恐れと罪悪感に襲われる。
思考がショートしそうだったが、今はこの力に関する疑問を全て捨て、今すべきことに考えを集中する。
今の自分は人殺しだ。7人もの人間を殺してしまったのだ。
どう考えても、誰かに事情を説明してどうにかなる状況ではない。無論、梵自身説明などできなかったが。
ふと足元を見ると、あのヒーロー人形が地面に転がっていた。これだけは守ることができたようだ。
梵は太い鉤爪で、そっと人形を拾い上げる。
この人形だけが、唯一の心の拠り所だ。
いくら考えても、何をするべきかの答えはたった1つだった。
――――ここから逃げなければ。