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第30話 D-デイ

 朝霧は痛む体を引きずりながら、覚束ない足取りで廊下を歩く。立ち込める煙を吸い込んだことで、何度も咳き込んでしまう。

 朝霧自身、自分が生きているのが信じられなかった。展望デッキが炎に包まれた時、朝霧は転倒していたために全身を焼かれずに済んだ。覆い被さってきた同僚たちの骸が、奇跡的に盾の役割を果たしたのだ。

 無論、生還したのは彼女だけだ。あの場で死んだ同僚の中には、朝霧の友人も多くいた。


「うぅ……!!」


 止め処なく涙が落ちてくる。全身の痛みもあるが、それ以上に痛むのは心だった。尊敬する者に裏切られ、多くの友人を奪われた痛み……。

 しかし、今は悲しんではいられない。ここで折れるわけにはいかない。まだ、唯一の生存者としての使命が残っているのだから。

 朝霧は今一度、手に持ったカードキーを確かめる。殺された警備兵から拝借した物だ。これは、アルビノとサファイアの少年たちがいる隔離室のキーだった。


 ――――あの子たちを……置いてはいけない……。あの子たちは、私たちのせいで……。


 施設の防火システムは一切作動していなかった。きっと、富士田博士が事前に故障させていたのだろう。放っておけばやがて施設全体に火が回り、少年たちは蒸し焼きにされてしまう。

 全ては自分たち、サーガ機関の過ちだ。アメジストから世界を救った少年たちを、過ちの犠牲にするわけにはいかない。

 朝霧はそう自分に言い聞かせて、重傷を負った身体に鞭打っていた。


「ハァ……ハァ……」


 意識が朦朧とする。喉奥が焼けるように熱い。時々気絶しそうになりながらも、朝霧はどうにか隔離室へと辿り着いた。

 カードキーをかざし、扉のロックを解除する。彼女はそのまま、部屋の中へと倒れ込んでしまう。

 突然の出来事に、中にいた梵と雪也は目を丸くした。


「お、おいお前! 大丈夫か!?」


 雪也はベッドから飛び降り、慌てて朝霧のもとへ駆けつける。


「ひでぇ火傷だぞ……俺、誰か呼んでくる!」


 医学の知識がない雪也にも、症状の重篤さはよく分かった。すぐさま医者を呼びに行こうとしたが、その腕は朝霧によって掴まれてしまう。


「待って……もう……誰もいないわ……ハァ……みんな、殺された……」

「は……!!?」


 その一言で、雪也は体を硬直させた。

 通路の方からは、白煙と熱い空気が流れ込んできている。梵はそれで、何が起こったのかを察した。


「富士田が……やったんですね?」


 朝霧は小さく頷く。


「富士田博士はドラゴンになって……大勢を殺して逃げた……。あの男の目的は……ハァ……最初からこれだったの……」

「マジかよ……」


 雪也は歯を食いしばった。

 やはり、富士田の話は嘘ではなかった。何もかも、全て本心だったのだ。


「とりあえず、ここから逃げるぞ!」


 そう言って、雪也は朝霧の肩を持つ。


「ソヨ、そっちの腕持ってくれ!」

「あ、ああ」


 梵ももう一方の肩を支え、2人で朝霧を運び出そうとした。しかし、当の彼女は少年たち腕を振り払ってしまう。


「おい! 何やってんだ!」


 雪也が怒鳴っても、朝霧は首を横に振るばかりだった。


「ダメ……私のことは置いていって……」


 朝霧には分かっていた。ここからの脱出が遅れれば、それだけ地上で多くの犠牲者が出てしまうと。


「もう時間がない……。富士田博士はおそらく、地上の都市を無差別に襲う気よ……。このままだと、何十万もの人が殺されてしまう……」


 富士田を止められるのは、この少年たちだけだ。自分がここで足手纏いになる訳にはいかない。そもそも、これは自分たちの失態なのだ。命の1つで償えるのなら本望だ。

 しかし、雪也はそれを許さなかった。有無を言わさず、再び彼女の腕を取る。


「なっ……!?」

「馬鹿言うなよ姉ちゃん。こんなとこに置いてけるわけねぇだろ」


 朝霧は半ば強引に、2人の少年によって担ぎ出された。

 通路には既に、大量の煙が充満していた。さらに梵と雪也は裸足のままだったため、床の熱がダイレクトに伝わってしまう。


「ゲホッ……熱いし煙たいし最悪だな。お前はどう思う、ソヨ?」

「どうもこうも無いだろ……」


 今や地下施設全体が、炎に焼べられているような状況だった。あと30分もすれば、火は全階層の隅々にまで行き渡るだろう。それでも、少年たちは懸命に脱出の道を模索していた。

 朝霧は涙を流した。こんな子供たちが、人類を脅かす存在のはずがないではないか。アメジストから人々を守ったのも彼らだ。そして今も、こんな自分を助けようとしてくれている。

 世界の脅威はむしろ……私たちの方だ。


「ごめんなさい……」


 朝霧は声を振り絞って謝罪する。


「全部……私たちのせい……。あなた達に酷いことをした……本当にごめんなさい……」


 雪也はそれを見て、悪戯っぽく笑った。


「ったく、この何ヶ月間マジで退屈だったんだからな」


 息を切らしながら、冗談めかしく続ける。


「せめてスマホくらい使わせてくれよな。でなきゃ、テレビとか漫画とかゲーム用意するとかさ」


 あまりにお気楽な台詞に、梵が思わず吹き出す。

 朝霧もまた、火傷と汗にまみれた顔ではにかんだ。


「うん……そうするわ」


 彼らは自分を恨んではいない……それが分かっただけでも、朝霧の心は幾分か軽くなった。







神奈川県 横浜市-2029年12月24日


 諸田大輔とその妻である美月は、横浜ベイブリッジで最新式のセダンを走らせていた。

 2人の顔には、とても満足げな笑みが浮かんでいる。梵に関する情報を政府にありったけ提供したことで、多額の謝礼金が支払われたのだ。

 数十年は遊んで暮らせるかという大金は、2人の欲望を満たすのには申し分なかった。


「里親なんて面倒なだけだと思ってたけど……今回ばかりは正解だったわね」


 助手席に座る美月は、ハンドルを握る大輔に話しかけた。


「しかしまあ、政府の奴らも礼儀を知らねえよなぁ。俺らがねだらなかったら一銭も寄越さなかったぞ、あれ。協力者には相応の金を払うのが常識ってもんだろ! なあ!?」

「ほんとその通りよ!」

「俺らは国を守ったヒーローだぞ、バカ政府!」


 2人は無意識にヒートアップしてしまう。大輔は溜飲を下げるように、深く息をした。


「ま、過去のことを怒っても仕方ねぇか。厄介なクソガキも居なくなって、大金も手に入ったんだ。今更文句はねぇよ」


 この数ヶ月間、謝礼金を湯水のように使い続けたが、それでも無くなる気配は全くない。富裕層の仲間入りをしたと言っもいいだろう。


「梵にはちゃんと感謝しなきゃね。そよぎぃーーーー! 今まで虐待してごめんねーーーー!」

「「はははははははは!!」」


 車の中に、夫婦の子供のような笑い声がこだまする。

 自分たちを邪魔する者は誰もいない。この先の人生はなんの苦労もない。この幸せは永遠に続いていく。2人はそう信じて疑わなかった。

 すると突然、美月の顔から笑みが消えた。


「ん? どした?」


 大輔が聞いても、美月は何も答えない。その顔色は、みるみるうちに青ざめていく。


「おい! どしたって聞いてんだよ!!」


 大輔は苛立って声を荒げる。


「……あれ! あれ!」


 美月は唇を震わせながら、狂乱したようにフロントガラスの向こうを指差す。妻のただならぬ様子に、大輔も僅かに不安を覚えた。


「な、何なんだよ?」


 上半身を屈ませ、美月の指差す方向に視線を遣る。

 そこで大輔は絶句した。ベイブリッジの主塔の上……そこに、見たこともないような巨大な生物が鎮座していてたのだ。

 目を見張るほどに大きな翼を持ち、外皮の亀裂からはオレンジ色の光が漏れている。その生き物は、数ヶ月前にテレビで何度も報道されていた、ドラゴンの姿にそっくりであった。


「おい、マジかよ……」


 大輔は反射的にブレーキを踏む。そのせいで後続車に追突されたが、そんなことに気を回す余裕はなかった。


「大輔……どうするの!? 大輔ぇ!!」

「あっ……あぁ……」


 一瞬、ドラゴンがニヤリと笑ったように見えた。直後、大きく裂けた口が真紅に燃え始める。

 巨大な火球が、眼下の橋を狙って放たれる。大輔にはそれが、スローモーションのように見えた。主塔と橋桁を繋ぐケーブルが弾け飛び、街灯や電飾から光が消え、橋全体が波打つように揺れる。


「いやだ! 死んじゃう! 死んじゃう! ごめんなさい神様ごめんなさい!!」


 美月は恐怖で正気を失い、大声を上げて手足をばたつかせる。一方の大輔は思考すら停止し、死神の姿を虚ろな目で眺めていた。

 金属の軋む音が鳴り、やがて橋桁が中央から一気に崩落する。数十台の車が、次々に凍てつく海へ投げ出された。


「いやああああああああああああ!!!」

「うわああああああああああああ!!?」


 美月と大輔の車も、もちろん例外ではなかった。2人は脱出すら叶わず、窒息しながら暗黒の海底へと引き摺り込まれていった。







 無数の人間を巻き込んで崩壊するベイブリッジを見て、富士田は満足げに喉を鳴らす。

 ようやく、神が何故自分の家族を奪ったのかが分かった気がした。


 ――――きっと、楽しかったのだ。


 子供たちがアリを踏み潰し、アリの巣を埋めて遊ぶのと同じだ。恐怖に慄き、絶望に涙する人間を見るのが楽しかったのだろう。ちょうど、現在の富士田がそうであるように。


「かつて私は、惨めに虐げられるだけの虫けらだった。だが、今は違う。私は神となったのだ……」


 誰にも止めることはできない。何百万もの人間を葬る力が、自分には宿っているのだ。他者の尊厳を踏みにじるという行為が、これ程の快感とは思いもしなかった。

 富士田は歓喜に打ち震えながら、横浜港に向けて火球を穿った。

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