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第29話 地獄-インフェルノ-

 富士田の周囲にいた研究員たちは、一様に身を硬直させる。目の前の状況を理解している者は、誰1人としていなかった。


「ありがとう諸君。君らの弛まぬ尽力のおかげで、研究はついに完成に至った。これは私からの、細やかながらの礼だ」


 富士田は邪悪な破顔を浮かべながら、全身を蝋燭のように発火させる。直後、激しい炎と熱風が実験場の隅々までを覆い尽くした。

 熱風は展望デッキにも襲いかかり、銃弾にすら耐える強化ガラスが粉々に砕け散る。中にいた人々は衝撃で吹き飛ばされ、全員が将棋倒しのようになってしまう。


「うぐっ……!!」


 同僚たちの下敷きになり、朝霧は苦悶の声を上げる。混乱する人々の悲鳴や絶叫が、やまびこのようにあちこちから聞こえる。


「グォォォォォォォォォォォォォォ!!!」


 その時、実験場の中から、施設全体を震わせるような咆哮が轟いた。さっきまでパニックに陥っていた者たちも、水を打ったように静まり返る。

 朝霧は床に伏したまま、恐る恐る実験場の方に視線を送る。場内は炎と煙が渦巻き、灼熱地獄の様相を呈している。中にいた研究員たちは、骨すら残っていないだろう。

 朝霧はなおも、立ち上る炎を凝視していた。惨劇を起こした元凶の正体を、その目で確かめるためだ。

 ふと、炎の奥に何かの影が浮かんだ。影は徐々に形を成し、やがて悪魔のようなシルエットが現れる。

 朝霧は呼吸を荒くする。影はゆっくりと、展望デッキへ迫ってきていた。


「あ……あぁ……」


 誰かが嗚咽を漏らした。展望ルームは今や、死への恐怖に支配されている。

 炎を掻き分けるようにして、元凶の怪物が顔を覗かせる。大きく裂けた口、2本のツノ、ゴツゴツとした岩のような皮膚……凶悪さを隠さないその顔は、まさしくドラゴンであった。


「富士田博士……なんですか……?」


 朝霧は震える声で尋ねる。ドラゴンは爬虫類めいた目を、展望デッキへと近づけてきた。


「あぁ……そこか朝霧くん。なにぶん、まだ新しい体に慣れていなくてね」


 ドラゴンは地鳴りのような声で話し始める。

 朝霧はようやく確信を持てた。この異形の怪物が、富士田の成れの果てであると。


「君は長年にわたり、私の右腕として献身的に尽くしてくれた。心から感謝している。君はやがて、世界に名を馳せる優秀な科学者となっただろう」


 ドラゴンの口角が、僅かに上がったように見えた。


「……ここで死ぬ運命でなければな」


 その言葉で朝霧は死を悟るが、脚が完全にすくんでしまい、逃げることすら叶わない。

 富士田の変異したドラゴンは、他の個体とは明らかに違っていた。まず、体躯が遥かに巨大だ。全長もアメジストの倍以上はあるだろう。

 さらに、外皮には無数の亀裂が入っていた。そこから露出する体内は、マグマのように燃え滾っている。体色は紫色のようだが、爛れているせいで殆ど判別がつかない。


「これが……あなたの目的だったんですか……!!」


 朝霧は涙を零しながら、怒りを燻らせる。長年師と仰ぎ、尊敬し続けた人物は、悪魔の如き大量虐殺者だった。その事実に、悔しさが抑え切れない。


「"インフェルノ"……それがこのドラゴンの名だ。私は世界を地獄(インフェルノ)へと変える。その殺戮をもって……私はようやく神へと至るのだ」

「何故ですか……? どうしてそんなことを……!?」

「私は幼い頃、家族を喪った。その理由を確かめるためさ」


 ドラゴンは口元に、紅蓮の炎を纏わせる。火炎放射の準備動作だ。


「に……逃げろ!!」


 恐怖に駆られた誰かが叫ぶ。それを合図に、職員たちは大挙して出口へと走り出した。立ち上がるのが遅れた朝霧は、大勢に全身を踏みつけられてしまう。

 ドラゴンは天を仰ぐと、頭上の開閉扉に向かって真っ赤な火炎を放った。地上までには3枚の開閉扉があったが、それらは瞬く間に融解する。

 強力すぎる火炎は実験場にも逆流し、さらに展望ルームにまで流れ込んだ。数十の断末魔が、灼熱の中に虚しく響く。

 開閉扉が失われ、四角く切り取られた夕闇が顔を覗かせる。ドラゴンは巨大な翼を広げると、虚空へ向けその巨体を舞わせた。


「忌まわしき世界よ……今こそ私への贖罪を果たす時だ」


 80m近いドラゴンの姿が彼方へと消え、数秒のうちに星屑と見分けがつかなくなる。陽が地平に沈み、闇夜に支配されていく空は、さながら終末の到来を暗示しているようだった。

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