プロローグ2
富士田承之介は、悪夢を見ていた。いいや、夢というよりは、フラッシュバックに近いかもしれない。脳に直接こびりついているような、忘れられない忌まわしい記憶……。もう何十年も前のものだが、いまだに消えることはない。
見慣れた部屋に広がっていく炎、襲いくる熱気、木が焦げたような匂い……。
思い出すたびに、激しい吐き気に襲われる。
――――どうして自分をあんな目に遭わせたんだ……神様?
もう何度となく抱いた疑問だ。無論のこと、答えが返ってくることはなかったが。
「富士田博士、大丈夫ですか?」
パイロットにそう声をかけられ、意識がようやくはっきりした。
冷や汗を必死にぬぐいながら、自分が今どこにいるのか、何をしているのかを思い出していく。
そうだ。自分はとある「事故」の調査のため、アメリカから遥々このシベリアの地までやって来て、ヘリコプターで目的地に向かっていたのだ。
上空から果てしなく続く氷の平原を見ているうちに、眠りに落ちてしまったようだ。
「え……えぇ、大丈夫です。そろそろ到着しますか?」
もう歳60を超えているのに、こんな場所で取り乱すわけにはいかない。富士田は平静を装いながら、質問を返した。
「ええ、見えてきましたよ」
パイロットの視線の先には、クレバスというにはあまりに巨大な……白い大地にぽっかりと空いた、直径数百mの巨大な黒い穴が不気味に待ち構えていた。
ロシア連邦 シベリア-2029年7月1日
北極に限りなく近い位置にあるこの雪と氷の世界には、夏が訪れることはない。昼間であっても青みがかった太陽に照らされるだけで、油断すると体の芯から凍ってしまいそうになる。それは比喩でもなんでもなく、この場所では常に凍死の危険が付きまとっているのだ。富士田も上着を何重にも着込み、襲いくる寒さに耐え忍んでいた。
だが自然の全てを凍らせるこの場所は、地質学者にとっては宝の山そのものだ。数万年前の痕跡が、タイムカプセルに入っていたように完全な状態で出土するのだから、彼らが惹かれるのも無理はない。よって年がら年中、ここには世界中から学者たちが押し寄せている。そんな夢の大地で、数十人の死者を出す大事故が発生したのは、つい昨日のことだ。
突如として氷河が幅数百mに渡って大きく陥没し、ベースキャンプを丸ごと飲み込んだのだ。その場にいた人々は、逃げることもできなかっただろう。
富士田がこの国へ派遣された理由は他でもない、件の事故の調査のためだ。だが富士田は、これが単なる「事故」ではないことを知っていた。
ヘリから降りると、ロシア人の救助隊の姿が多く見られた。それは不思議なことではない。だが、時々見かけるAK-12ライフルを持った軍人の姿は、場違い極まりなかった。ただの救助任務であるなら、そんなものは必要ないはずだ。
「この事故は不可解な点が多い。調査隊員の死因は凍死、転落死……様々でした。しかし、どういうわけか焼死した者がいたんです。この極寒の地で。あり得ないでしょう?」
パイロット兼ガイドの男が、遠くにある大きめの袋を指差す。あれは間違いなく死体袋だ。そのわずかな隙間からは、黒く焼けただれた人間の皮膚が見えている。
それは、富士田の過去に起こった忌々しい出来事を想起させた。家族の命を全て奪った、あの火事……。
富士田の身体は、ところどころが移植された皮膚だった。数十年前の火傷の後遺症は、今も色濃く残っている。
「富士田博士!」
不意に、背後から女性の若々しい声がした。聞き慣れた声だ。
「ああ、朝霧君」
朝霧葉月30歳にも満たないながら、富士田の助手を務める優秀な女性だ。彼女もまた、富士田とともにこの永久凍土へやってきたのであった。
「酷い状況ですね……」
「ああ……中にもっと酷いものが無いといいんだが」
調査をするからには、氷の穴の中へ入らなければならない。安全が確認されたわけではないが、そんなことも言ってられなかった。
「ここからはロープを使って降ります。お2人は私のやり方を真似てください」
ガイドの男の後に続いて、2人は闇の中へと降りていった。
氷河の内部はさらに気温が低くなっており、体の芯に突き刺さるような寒さだ。いいや、寒いというよりも「痛い」と言った方が適切かもしれない。
ロープを使い、慎重に穴の奥深くへ降りていく。もしロープの操作を誤れば、あっという間に死体の仲間入りだ。
「気をつけて! この辺の氷は脆くなってます!」
先導するガイドはこういった懸垂下降にも慣れているようで、手際よく穴の奥底へと向かっていく。対してド素人である富士田や朝霧は、数m降りるだけでも一生分の神経をすり減らしていた。
永遠にも思えたロープ降下が終わり、ようやく穴の奥底に辿り着く。地下50mにもなるこの場所からは、空はより遠く見える。
ここは当然、360°どこを見回しても氷に囲まれている。その氷の一角に、小さな洞窟があった。洞窟はまるで獲物を誘うかのように、口を開けて静かに鎮座している。
「チェスノコフさん……あの洞窟は?」
富士田はガイドの男に尋ねる。
「あれこそ、貴方が求めているものですよ。富士田博士」
そう言うと男は、躊躇なく氷の洞窟に足を踏み入れた。富士田と朝霧は一度顔を見合わせると、覚悟を決めたようにガイドに追従していった。
洞窟内部は斜面になっており、足に力を入れていないあっという間に滑り落ちてしまう。60歳を超えた富士田の老体には、この冒険はあまりに過酷だった。
「あの……ハァ……まだ着かないんですか?」
「もうすぐそこです」
男の言葉を半信半疑で受け止めながら、富士田と朝霧は氷の滑り台を下る。早く終わってくれ……心の中でそう祈り続けていた。
そんな祈りが届いたかのように、ようやく斜面が終わり、平面の足場が現れた。落ち着いて地面に立てることに、これほど感謝したのは初めてかもしれない。どうやら、洞窟の最深部に到着したようだ。辺りは真っ暗で、ライトがないと何も見えない。
「さあ、これを見てください」
男が足元に懐中電灯を当てる。富士田たちは、言われるまま視線を下ろした。
「「うわぁ!!!?」」
老人と若い助手は同時に悲鳴をあげた。
彼らの足元にあったもの……それは、巨大な口だった。人間を丸ごと飲み込めるほどの、信じられないほど大きな口。肉食獣のような牙が生えそろい、爬虫類めいた口はワニを思い出させた。だが大きさを考えれば、それは恐竜に近いかもしれない。氷の中に閉じ込められた怪物は、今にも富士田たちに襲いかかってきそうだった。
富士田は引きつった顔でガイドの方を見る。
「数日前、ロシア科学アカデミーがシベリアの永久凍土に熱源を感知しました。まさにこの場所です。事故に遭った調査隊は、その熱源を調べるために派遣されたんです」
ガイドの男は上部の氷にライトを当てる。やはりそこにも、怪物はいた。2体、3体、4体……次々に姿を現わす。死んでいるのか、冬眠しているのかは分からない。
どの個体も、体長は10mを優に超えていた。コウモリのような翼に、大きなツノと太く長い尻尾、ゴツゴツとした鱗、さらに猛禽類のような足を持った、恐竜と翼竜のハイブリッドのような……。
「博士、これって……」
「あぁ……」
富士田と朝霧は、共に声を震わせる。
「この目で見る日が来るとはな……」
富士田は恐怖とも、感嘆とも取れる声を漏らした。
伝説上の存在と思われていた、究極の生物。公式には隠蔽されていたものの、実在の痕跡は数多く発見されていた。無論のこと、今回ほどの発見は初めてであったが。
「調査隊から最後に入った連絡はこうでした……"ドラゴンのような生物に襲われた"と」
ガイドの男がそう言った瞬間、胸から込み上げるものを感じた。
ドラゴン……長年探し求めた伝説の怪物が、数十cmの氷を挟んだ先に、確かに存在している。その事実に、興奮を覚えずにはいられなかった。
「か……彼らがここで眠りについたのは、おそらく三畳紀以前だろう。これほどの数がいたのなら、彼らはかつて、地上の支配者であった可能性が高い。もしかしたら、彼らが地球の歴史上初の知的生命体だったのかも……」
「博士、今すぐ本部に連絡しないと……」
今回に限っては、冷静なのは助手の方だった。朝霧の言葉を聞き、富士田はようやく冷静さを取り戻す。
「ああ……そうだったな」
ふと、富士田の頭にある考えがよぎった。
不自然に崩壊した氷河、調査隊員の最期の通信、フル装備のロシア軍兵士、そして数日前に確認された、謎の熱源……。それらは、一つの答えを指し示している。
「やはりドラゴンは……この地上に生きている」
富士田の言葉は、ほとんど確信に近かった。