第9話 決意
横浜の夜景が、川のように過ぎ去っていく。
この高速バスに乗ってる人間は、梵と美咲以外にはいない。
電車で行った方が早かったのだが、深夜1時ではとっくに終電は過ぎている。追われている状況で一箇所に留まるのは危険、という美咲の判断で、始発を待たずに夜行バスを使ったのだ。
美咲はかなり疲れているらしく、背もたれに寄りかかって目を閉じている。それもその筈だ。今日1日の間に変質者に襲われ、ドラゴンを目の当たりにし、逃避行を繰り広げているのだから。
もう1時間近く乗っているだろうか。さっきから波のような睡魔に襲われる。美咲もそうだが、梵自身も昨日からまともな休息を取っていなかった。到着するのは朝の8時くらいらしいので、寝ていても問題ない。
――――もし国防軍に居場所がバレていたら……。
そんな不安が頭をよぎる。国防軍から逃げる算段も考えておきたかったが、もうそこまでの思考が働かない。もうそろそろ限界だろう。睡眠をとらなければ、かえって悪い結果になってしまう。
梵は一度大きなあくびをすると、ぼんやりとする視界で流れていく横浜の街並みを眺めた。
やはりこの都市の夜景はとても美しい。まるで地上に輝く星空だ。
梵はその光景を見て口元をわずかに緩めると、そのまま静かに目を閉じた。
ふと目を開けてみる。
目を閉じたのはほんの数秒だった筈だ。だがその間に、横浜の夜景は消え去っていた。
代わりに窓から見えるのは、オレンジ色の光。それが街全体を包み込んでいる。
梵は思わず驚愕した。一体何が起こっているというのか。もう一度目を凝らして、その信じられない光景を見つめる。
オレンジの光は全て、激しく燃える炎であった。それは街のいたるところから上がっている。暗くて分かりにくいが、上空には大量の黒煙も見えた。
ビルが土煙を上げて崩れ去り、次々に新たな火災が起こる。地獄絵図と呼ぶにふさわしい光景だった。
――――我々は決して滅ぶことはない。たとえ神であろうと、我々を止めることはできない。
何だ? 誰の声だ!?
梵は反射的に辺りを見回す。だが誰もいない。さっきまで隣にいた美咲すらも。梵は、バスの中でたった一人だった。
――――我が種族こそが、この星の頂点だ。
再び声が響く。2度目で梵は気付いた。
この声は「聞こえている」のではない。頭の中に直接届いているのだ。
それにしても、一体何者なんだ?
――――神よ……いつの日かドラゴンは地上に舞い戻り、再び支配者の座に返り咲く!!
その恐ろしい声からは、怒り、憎悪、屈辱……様々な感情が含まれていた。
梵は再び燃え上がる横浜を見た。
するとビルと黒煙の狭間から、コウモリに似た巨大な翼が一対、姿を現した。
それは確かに梵のものと同じ、ドラゴンの翼であった。しかし大きな違いもある。
それは梵の青い翼よりも遥かに大きかった。翼から考えると、本体はおそらく80m近くあるだろう。
こいつが、横浜を火の海に変えたのだろうか。
――――その力の意味を、お前も知っているはずだ。
またも声が響く。
だが先程とは違う。今までは会話が断片的に聞こえるような感じだったが、今回は直接梵に語りかけている。
「お前は……誰なんだ!!?」
思わずその声の主に問いかける。言葉の内容から推測して、おそらく人間ではないだろうが。
――――お前と同じ存在だ。
返答はすぐに帰ってきた。
言葉が徐々にハッキリとする。そこでようやく、梵は恐怖を感じた。
こいつが何かは分からないが、途方もなく強大で恐ろしい存在だ。得体の知れない何かが、自分に迫っている。
「……イーラ」
あの恐ろしい声が、耳元から聞こえた。
「うわあああああああああああ!!!?」
梵は素っ頓狂な悲鳴をあげ、同時に大きく目を見開いた。
「ど……どうしたの!?」
横から美咲の声がする。
何が起こったのか、理解ができなかった。
「えっ……? あれ? ここは……」
梵はもう一度周囲を見回してみる。
窓から見えるのは壊滅した横浜などではなく、どこまでも続く長い山道であった。空もいつのまにか明るくなり、朝を迎えている。
「夢……??」
もうあの恐ろしい声はしない。
意識もはっきりとしている。さっきのは単なる悪夢だったのだろうか。
「大丈夫……?」
全身にびっしょりと汗をかき、呼吸を荒くしている梵を美咲は心配そうに見つめている。
梵は黙って首を縦に振った。
「ただの夢だよ……ただの夢……」
それは美咲への返答というよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。
そこから数分間、沈黙が続いた。
二人の乗るバスは、相変わらず生い茂る木々の中を切り裂くように進んでいる。
「あっそうだ! これ渡すの忘れてた!」
沈黙を破ったのは美咲だった。彼女の手には、梵のヒーロー人形が握られていた。
「あ……ありがとう。置いてきたと思ってたよ」
梵はゆっくりとその人形を手に取った。唯一、自分という存在の証明になり得るもの……。
「ロストレッド……ソヨも知ってたんだ」
「え? ロストレッド……?」
思わず質問を返すと、美咲は意外そうな顔をした。
それもそうだろう。大切にしている人形の名を全く知らないというのは、確かに不自然だ。
「……20年くらい前に放送されてた、特撮ヒーローものよ」
美咲は、「なぜ名前を知らないのか」とは聞かなかった。梵の境遇を考えればだいたい想像はつく。
「かなり変わった内容でね……主人公は大切な人をみんな失った青年で、その人があてもなく旅をして、敵と戦ったり、仲間を見つけるストーリーなの」
梵は真剣に耳を傾けていた。特撮どころかテレビ自体まともに見たことをなかったので、話の全てが興味をそそられるものだった。
「それで、最後はどうなったの?」
「それは分からない。打ち切りになっちゃったから」
「そっか……」
「やっぱり、ストーリーが暗すぎたみたい……。でも私は好きだったな」
美咲は感慨深げに人形を眺めていた。そして、何かを決意したように、梵の目をじっと見つめた。
「ソヨ……この旅を、絶対にバッドエンドでは終わらせない。私が必ず、あなたの仲間を見つけ出す」
美咲の両手は、梵の左手を優しく包み込んでいた。
梵は驚いて言葉を返すことができなかった。他人にこんなことを言われるのは初めてだったからだ。
仲間がいるというのは、こんなにも心強いものなのか。
「ありがとう……美咲」
梵はようやく絞り出した言葉とともに、ぎこちない笑みを浮かべた。
長野県上空 UH-60JBヘリコプター内-同時刻
"ブラックホーク"の名を冠したこのヘリの中には、式条中佐以下12名の兵士が搭乗していた。
旧自衛隊時代には救難目的で使用された機体だったが、国防軍への改組に伴い、より実戦向きに改良されている。
『式条、わかっているな?』
ヘッドホンから、木原中将の威厳に満ちた声が響く。式条はやれやれと思いながらもそれに応答した。
「もちろんです中将」
『美咲ちゃんを救いたいのはよく分かる。だが、私情に流されて部下の命を危険に晒すな。これは指揮官たる者の責任だ』
木原中将の言葉は正しい。そんなことは式条自身もよく分かっていた。娘のために危険に晒すのは、父である自分の命だけだ。
『それから、武力の行使には常に政治が絡む。必要以上の行使は、国内外からの反発に繋がる。また官邸は、この問題を他国の干渉が入る前に処理したいと考えてる。ドラゴンという究極の生物を、かの国が放置するわけはないからな』
やれやれ、また政治の話か。頭が痛くなってくる。
政府が早急の幕引きを望むのは分かるが、敵の正体も能力もわからないのに、それがどれだけ難しいことか。割りを食うのはいつも末端だ。
上層部は「お前は優秀な兵士だ」などと言うが、ドラゴン相手の訓練など一度もしていない。
実のところ、式条自身も不安だらけだった。
「……もし我々で倒せなかったら?」
『私にもどうなるか分からない……』
どうやら不安を抱いていたのは、式条だけではなかったようだ。
だがあのドラゴンは必ず倒さなければならない。奴は、目の前から娘を連れ去っていったのだから。
「美咲……待ってろ」
式条はアサルトライフルを手に取り、それにマガジンを1つ装填した。