第34話 散華
まるで脳がショートを起こしたように、眼前の現実を認識できなかった。
どこを探しても、雪也の姿はない。ほんの一瞬のうちに、この世界から消えてしまったかのように……。
――――おい、冗談はやめろよ。一体どこに隠れてるんだよ。
ふと、白い布切れのような何かが頬をかすめた。
それは木立から落ち、秋の風に泳ぐ紅葉のように、どこかへ吹き飛ばされていく。その正体がドラゴンの翼であると気付くのには、少なからず時間がかかった。
――――雪也の……翼? どうしてあんなものが?
梵は霞がかった思考のまま、白い翼を追いかけようとする。だがその直後、大気が微かに震えるのを感じた。
神経の凍るような感覚を覚え、梵は反射的に振り返る。背後には信じられない……信じたくない光景が待ち構えていた。
赤いオーラを身に纏った、漆黒の巨竜。多くの犠牲を払って勝利したはずの、天界の魔王。それが今、梵の前で悠然と一対の翼を広げている。
ようやく掴んだはずの希望が、砂となって指からこぼれ落ちていく。できれば悪夢であると思いたかった。
「お前、どうして……生きて……」
「質問を返すが、我に勝ったなどと本気で信じていたのか?」
たどたどしく言葉を並べる梵に対し、イーラは平然と言い放つ。
「ソヨギ……かつての友よ。我はこの宇宙の摂理ではないのだ。お前たちの概念を超越した、究極の存在だ。レイロスですら、我を殺すことはできなかった。貴様らでは到底、我に抗うなど不可能なのだ」
イーラは勝ち誇ったように笑っている。
何が起こったのか、梵はようやく理解することができた。イーラは瓦礫の中から光線を放ち、雪也は咄嗟に自分を守った。そして、攻撃を直に浴びた雪也は……。
「お前は実に良い友人を持っていたようだな、ソヨギ。あの白竜は己の命を捨てて、お前を守り抜いた。その涙ぐましい犠牲も、残念ながら徒労に終わるだろうが」
名残の雪のような白い光が、梵の鼻先に触れる。かつて雪也であったであろう、小さな輝き……。
――――やっぱりだ。雪也は、俺を庇って死んだんだ。俺のせいで、俺のせいで……!!
どうしてだよ。ついさっき、友達を紹介するって約束したばかりじゃないか。お前の帰りを待ってる人も、大勢いるんだぞ。
どうして俺なんかを助けた……? 俺が死ぬはずだったのに。生き残るべきはお前だった……。お前は、みんなの希望だったんだ……!!
――――何故こうなった? 誰のせいだ? この恨みを晴らすには、どうすればいい?
梵は全てを焼き尽くすような目で、黒竜を睨みつける。
そうだ。あらゆる運命は、こいつから始まった。こいつさえいなければ、雪也は両親を喪うこともなく、今も長野の町で平穏に生きていられたんだ。こいつさえ、こいつさえ……!!
「グオァァァァァァァァァァァ!!!」
梵は理性をかなぐり捨てた咆哮を上げる。
そして、レーザーを放ちながらイーラに襲いかかった。鉤爪で幾度も斬りかかり、顎で鱗を砕こうとする。
「あいつは……俺を見捨てないでいてくれた! 何があっても、俺を友達だと言ってくれた!!」
「そんなかけがえのない友を、お前は裏切ったのだ」
「返せ! 今すぐあいつを生き返らせろ!!」
「お前の過ちが招いた結果だ。我の甘言に惑わされず、セツヤと共に戦っていれば、或いは我に打ち勝つ道も見出せたかもな」
その言葉尻1つ1つが、錐の如く梵の心を深く抉る。
神や運命など最初から信じてはいない。だがこれはあまりにも……あまりにも残酷じゃないか。英雄らしくもない、全くもって無意味な死。
梵は全身全霊の攻撃を、黒竜に向けて繰り出し続けた。対するイーラは、全く反撃に転じようとしない。それどころか、攻撃を回避しようともしなかった。
「どうした来いよ……かかって来い!! 俺と戦え!!」
梵の決死の挑発にも、イーラは悪意の笑みを浮かべるばかりだった。
「"戦え"だと? 自惚れるな。勝敗をつけるまでもない。貴様と我では、戦いにすらならないのだ。今のお前は、憎悪に取り憑かれた獣でしかない。復讐心は眼を曇らせるぞ」
「黙れええええ!!!」
限界を超えた最大の力で、梵は青い光線を吐く。
攻撃は間違いなくイーラに直撃した。黒い鱗も、ところどころがオレンジ色に融解している。にも関わらず、黒竜は涼しい面持ちを崩さない。
「よく見ろ、ソヨギ。そして理解しろ。お前に我を滅することはできない。この星のドラゴンは、我によって生み出されたのだ。お前も含めてな。故にお前にとって、我は絶対の存在なのだ」
イーラの言葉に嘘偽りはなかった。
梵が渾身の攻撃で与えた傷も、たちどころに再生していく。爛れた鱗はものの数秒で、本来の光沢を取り戻してしまった。
そこでようやく勘付いた。イーラの再生能力は、他のドラゴンに比べても異常なのだ。攻撃力だけでも桁違いであったが、回復力もそれに比肩する程に並外れている。
イーラに戦意が無い状態ですらこの有様だ。初めから、勝てる見込みなど露ほどもなかったということだ。
「じゃあ、さっきビルの下敷きになったのも……!」
「真の絶望とはいつ生まれると思う? 掴みかけた希望を奪われた時だ」
ずっとこいつの、掌の上だったってわけか……。
梵は歯を食いしばり、敵うはずもない相手に挑み続ける。そうするより他に無かった。万が一勝てたところで、もう雪也が戻らないのも理解している。それでも……たとえ命に代えても、この黒竜に一矢報いてやりたかった。
王? 宇宙の摂理? そんなもの知ったことか。そんな荒唐無稽な概念に、友を奪い去られてたまるものか。大人しく殺されてたまるものか。
「ソヨギ。我はいつ如何なる瞬間にも、お前を殺すことができた。お前がなおも生きているのは、我の意思に他ならない」
イーラは冷酷に語りかける。
梵は言葉を返さなかった。ただ狂ったように、黒い鱗に向けて鉤爪を振り乱していた。
「ああ、失念していた。我は1度だけ、お前を仕留め損なっていた。セツヤが身代わりとなった時だ」
「……!!」
口内を青色に発光させ、梵は再び光線を放とうとする。しかしイーラは尻尾を鞭のように使い、青竜の体を軽々と弾き飛ばしてしまった。
梵はきりもみ状態のまま、どこかのビルの屋上に転がり落ちる。目にも留まらぬ速さの攻撃だった。とても、50mの巨体の動きとは思えない。
コンクリートに爪を食い込ませ、どうにか屋上からの落下だけは防いだ。
――――こいつ……本物の化け物だ。
それでも、梵は決して屈しなかった。他ならぬ、亡き友のために。雪也ならばきっと、ここで諦めたりはしない。勝機がなくとも、最後まで戦い抜こうとするはずだ。ならば自分も、彼の遺志に応えなくては。
梵は今一度上空を見上げ、イーラを睨みつける。他のドラゴンたちも、至る所で戦いの火花を散らしていた。
「ハァ……ハァ……"勝敗をつけるまでもない"だと? どちらかが死ぬまで、戦いに終わりはないぞ!!」
梵は勇猛果敢に吠えた。
イーラは喉をグルグルと鳴らしながら、薄気味悪く笑う。
「いいや。もう終わっているとも」
「何だと……?」
イーラの含みを持たせた言い方に、梵はただならぬ悪寒を覚えた。
「ぐぁっ!!!?」
その言葉の意味を、すぐに知ることとなった。梵の腹部が、突如として背後から串刺しにされたのだ。
「ガァァ……!?」
激痛に歯を食い縛りながら、梵はどうにか傷口へと目を遣る。しかしそこに、凶器の類は見えなかった。あるのは、内側から突き破られたような傷痕だけだ。腹には確かに、何かに突き刺される感覚があるというのに。
傷口からは絶えず青紫の血が吹き出し、それが足先や尻尾に伝っている。屋上全体が、自身の血で満たされていくのが見えた。
少しずつ意識が霞んでいく。この透明な刃に貫かれたような感覚は、一体……?
――――透明……? まさか!?
梵はようやく、自分を襲ったモノの正体に勘付いた。
「随分な仕打ちじゃないかソヨギ……。俺はお前を友達だと思ってたのに」
耳元で囁いたのは、聞き覚えのある声だった。
「ブリー、ド……!?」
梵を貫いていた刃が、徐々に色付き始める。
それは鉤爪だった。通常よりも遥かに鋭い、鎌のような鉤爪……。
ブリードは擬態を解き、梵の背後にその姿を現す。闇に紛れて標的の死角に忍び寄る様は、まさしくアサシンのようだった。
「俺の能力も役立つって認めるか? イーラ」
「それで我に貢献したつもりか? 片腹痛い……獲物を横取りしたに過ぎないではないか」
梵の思考の糸は複雑に絡み合っていた。ただそんな中でも、一つだけハッキリしていることがある。
自分は、これから死ぬのだ。
「お別れだ、ソヨギ」
ブリードの鋭利な鉤爪が、青竜の首元に振り下ろされた。
飛び散った青紫の鮮血が、宙で扇を描く。刎ねられた首は血溜まりへと落ち、小さな飛沫をあげた。
胴体はもはや、ブリードの鉤爪により吊り下げられている状態だ。首の切断面からは、血液が絶えず噴き上がっている。
鉤爪が胴体から引き抜かれる。支えを失い、崩れ落ちる青い胴体を一瞥しながら、ブリードは低く呟いた。
「讃えよ……漆黒の王を」