第8話 糸口
「ねぇねぇ、ドラゴンになった時ってどんな感じなの?」
「うーん……なんというか、ドラゴンって感じかな?」
「ごめん、全っっっっ然わかんない」
そんな会話をしながら、彼らは美咲の家に戻った。
「うーん……まだ帰ってこないか」
誰もいないリビングを見て、美咲が呟く。
「え、誰が?」
「お父さんよ。もうすぐ帰ってくるって言ってたんだけど」
「えぇ!?」
梵は慌てた。美咲はいいとしても、彼女の父親まで怪物に寛容とは限らない。それに、知らない人間と話すのはどうも苦手だった。
「大丈夫だって! お父さん基本的に優しいから!」
すぐにその場を去ろうとする梵を、美咲が必死になだめた。
「そうだ! シャワーでも浴びれば? 着替えは私のがあるから!」
「いや…流石に女の子用は……」
「大丈夫大丈夫!Tシャツとジャージなら男の子でも着られるでしょ!」
「いや……」
美咲の半ば強引な引き止めに屈し、梵はバスルームの中にいた。シャワーから注がれるお湯が、細い身体を濡らしている。
ふと横を見ると、そこには大きめの鏡があった。そこには、自分自身の姿が映し出されている。
同年代の少年と比べても小柄な梵の身体には、いくつもの痛々しい傷が刻まれている。どれもいじめや虐待によりついたものだ。
脳裏に浮かびかけた凄惨な過去を洗い流すように、梵は頭からシャワーを浴びた。
そういえば、自分とまともに話してくれたのは美咲が初めてかもしれない。
これで初めて"友達"というものが出来たのだとしたら、危険を冒して彼女を助けたことは間違っていなかったのだろう。
「ヒーローの真似事」と言われればそれまでだ。だが、それでも……。
梵は水が目に入らないように、ゆっくりと目を閉じた。
風呂から上がると、美咲が言った通りTシャツと短パンが用意されていた。
「おいおいマジか」
その服を見て梵は思わず声を漏らした。確かに男が着てもギリギリ問題ないだろうが、ところどころにピンクのデザインが含まれているため、下手をすれば女子と間違われてしまうだろう。華奢な体の梵ならば尚更だ。
しかし、服を提供してもらっている以上文句など言えるわけはない。
梵は渋々その服を着ることにした。
「あはははは!結構似合ってるじゃない!」
リビングに戻ると、美咲が馬鹿にしたような笑い声で出迎えた。窓に切り取られた横浜の夜景は、つい見とれてしまうほど美しい。
「君……こうなるって分かっててこの服を選んだよね?」
「まあね。女子中学生たるもの、コーディネートくらい出来て当然よ」
「あのな」と言おうと思ったが、面倒だったのでそこで口をつぐんだ。そのまま体を休めるように、ソファーに腰掛ける。
「そんなことより、あなた長野県のドラゴン伝説を知ってる?」
「え? 何?」
不意な美咲の言葉に、思わず目を見開いた。どこから持ってきたのか、美咲の手には最新型のタブレットが握られている。
「ドラゴン……だって?」
「そう。何年か前の話だけど、長野県にドラゴンが出たっていう噂が日本中でニュースになったの。目撃証言だけじゃなくて、写真や動画まであったのよ。それもいくつも。政府は『デタラメだ』って言ってたけど、あれは絶対本物よ!」
そう熱弁しながら、タブレットで動画を再生し始めた。
そこに写っていたのは、空を見上げる大勢の人々。彼らは空を指差しながら、口々に「怪物だ」「ドラゴンだ」「神様だ」などと叫んでいた。
カメラが空に向けられると、そこには巨大な翼をはためかせ、天空を我が物顔で滑空する"何か"がいた。逆光で体色はよく分からなかったが、梵はその姿をよく知っていた。
「本物だ」
梵は一瞬で確信した。"それ"は梵のドラゴン姿と瓜二つだった。作り物の映像ならば、ここまで似ることはあり得ない。
ドラゴンは上空を2、3回旋回したのち、雲の中へと消えていった。動画はそこで終わっていた。
「このドラゴン、あなたと同じ能力を持った人間じゃない?」
「うーん、何とも言えないかな」
梵はテーブルに頬杖をついた。
確かに、このドラゴンが味方になってくれれば心強い。しかし……。
「行くあてがないなら、長野に行ってみるのはどうかな? ドラゴンが協力してくれれば……」
「うん。でも問題は、協力してくれなかった時だ。もし敵だったら?」
梵の真剣な眼差しに、美咲は一瞬口言葉に詰まるが、程なくして再び梵の瞳を見つめ返した。
「確かにそれはそうだけど…このまま何もしないわけにもいかないでしょ? 駄目そうなら、すぐに逃げればいいのよ」
「まあ、確かに」
現状、美咲の提案よりいいアイデアは思いつかなかった。危険な賭けだが、やってみる価値はある。
「横浜駅から長野までの電車があるから、それに乗るといいわ。お金は私が出すから」
「いいよ、飛んでいくから」
「バカね。空軍のレーダーに見つかっちゃうでしょ!?」
「あ、そっか……」
「とにかく、私に任せて。あと、はいこれ」
美咲の手には、ドーナツの入った袋が握られていた。何の変哲もないものだったが、空腹と疲労の溜まった梵にとってはこの上ないプレゼントだ。
「あ……ありがとう!」
梵は袋からドーナツを取り出すと、かぶりつくそうにそれを食べた。喉が詰まりそうになるのもお構い無しだ。
「そんな急いで食べなくても誰も取らないってば!」
美咲が慌てて水を持って来る頃には、ドーナツは跡形もなく消えていた。
それからどのくらい時間が経っただろうか。あの後、疲れからかソファーで寝てしまったいた。ぼんやりとする視界で時計を見ると、深夜0時を回っていた。
「あ、目覚めた? 今ちょうどお父さんが帰ってきたの。今エレベーターにいるわ」
そう言って、美咲は玄関の方に消えていく。
梵はゆっくりと体を起こした。まだまだ寝足りなかったが、美咲の親に挨拶をしないわけにもいかない。ソファーに座ったまま、彼女の父が入って来るのを待っていた。
ガチャっという音が奥から聞こえる。玄関ドアが開かれた音だろう。姿は見えないが、美咲は父と何やら話しているようだ。
本来の親子とは、ああいうものなのだろう。そして美咲に連れられ、その父親がリビングに入ってきた。
「え……」
梵は言葉を思わず言葉を失った。
美咲が隣に来て、父親に自分のことを紹介しているようだが、その声は殆ど耳に入ってこない。
しばらく、頭を強く殴られたような感覚の中にいた。
美咲の父親――――この男を、梵は知っていた。
式条憲一はただ目を見開いていた。
娘が楽しげに紹介する少年は、国防軍が血眼になって探す、海成梵そのものだった。
勿論、娘はそのことなど知る由もない。つまり脅威に気付いているのは自分だけだ。そして娘の美咲は、今まさに海成梵の隣にいる。
――――娘の身が危ない。
その思いが、式条の体を動かしていた。
「そいつから離れろ!!」
式条の叫びが部屋中に響く。美咲が状況を把握できずにいる中、梵は立ち上がって警戒心を露わにしていた。
「あんた……あの廃工場で会った……」
梵の額から冷や汗が流れる。
逃げる手段を探し、辺りを見回す。ここから外への出口は、ただ1つだ。
「ちょっとお父さん……どういうことなの!?」
美咲は困惑していた。父の行動の意味が全く理解できなかった。しかし梵や父の表情で、ただならぬ事態であることは予想がつく。
「美咲…そいつは国防軍が追ってる怪物だ。人間じゃない! 早くこっちに来なさい!」
「知ってるわよ。彼がドラゴンになるところをこの目で見たもの。その力で私を助けてくれた!」
「違う! お前は騙されてるんだ!! そいつは人殺しだ!」
「そんなはずない! お父さんは軍の報告しか聞いてないから……」
「お前の命が危ないんだぞ!!」
美咲は少しずつ後ずさりながら、梵の横に着いた。そしてこっそりと梵に耳打ちをする。
「ソヨ君……こうなったら駅まで飛ぼう。私が案内するわ」
「うん……え? 案内って?」
「あなたの背中に乗せて」
「いやそれは危ないって……」
「さっき約束したでしょ? それがちょっと早まっただけよ」
2人が一歩下がるたびに、式条が一歩近づいてくる。手には台所から持ち出したらしい包丁が握られていた。
「美咲……お前が大切なんだ。だからそいつから離れてくれ」
3人の呼吸が荒くなる。リビングの中には、ただならぬ緊迫感が漂っていた。
「いい? 3つ数えたら、変身しながらそこの窓から飛び出して。私はそこに飛び乗るから」
心臓の鼓動が速くなる。式条の瞳からは、何としても娘を救って梵を捕らえようという強い意志が感じられた。
「1、2……」
梵が身構える。ここからの数秒が、運命の分かれ道だ。
「3!!」
その声と同時に、2人は窓へと走り出す。梵の体は、青い光をまとっている。
窓ガラスは、いとも簡単に粉々になった。強化ガラスであっても、ドラゴンの硬質の前には無力だ。
バルコニーを飛び越えると同時に、その全身はドラゴンのものへと変化していく。
「待て!!!」
式条は叫ぶが、それ以外には何もできなかった。目の前で、巨大な翼が羽ばたく。
瞬く間に遠ざかる青いドラゴンの背には、愛娘の姿もあった。
「そ……そんな……」
式条は跪き、絶望にかられた。
たった1人の、守ると誓った家族を、得体の知れない化け物に奪われてしまった。
ドラゴンはなおも翼を羽ばたかせながら、月光煌めく闇夜にその姿を消した。