第21話 情勢
アメリカ合衆国領グアム島
日本から2500kmの距離にあるマリアナ諸島の島……ここにはまだ、ドラゴンの魔の手は伸びていなかった。インフラが完備されており、島内には米軍基地もある……日本側がこの島を避難地に選んだのは、それが理由だった。
軍港には他に、米海軍第7艦隊の空母打撃群も停泊していた。マリアナ諸島付近を航行中に戦争が勃発し、グアム島に緊急着港したのだ。米軍も指揮系統が崩壊しているため、未だに軍事行動を起こせないという状態であった。
アメリカ海軍が管理するアプラ港には日本の空母が多数着港し、避難民たちを続々と島へ上陸させている。日本を発ってからまだ2日であったが、避難民たちの頬はこけ、目はやつれ切っていた。もう日本へは二度と帰れない……それが、大半の人間の共通認識だった。
米海軍基地 作戦司令室
薄暗い室内では今、日米の軍高官たちが円卓を囲んでいた。人類存亡の危機というだけあり、彼らの表情は一様に重い。
式条もまた、会議に参加する軍人の1人だった。だが参加しているからといって、決して妙案が浮かんでいるわけではない。それは他のメンバーも同じのようで、皆何かを熟考するように眉間にしわを寄せている。
「さてと、ここらで日本の友人たちとも情報を共有しましょうか」
息の詰まるような空気を打ち破って、米海軍の軍服を着た男が立ち上がる。階級章は大佐を表すエンブレムであり、胸元のネームプレートには「バーネット」と書かれていた。
バーネットはタブレット端末を弄り、スクリーンに世界地図を表示させる。そして軽妙な語り口で続けた。
「ご承知の通り、我々は9回裏ツーアウトという状況だ。各国政府は崩壊。国連も今や機能不全。およそ1時間前には、印パ国境付近で強力な電磁パルスが観測されました。おそらく核爆発でしょう。どっちの国が使用したのかは不明ですがね」
「偵察衛星は生きてるので?」
式条が聞くと、バーネットは芝居掛かった笑みを見せた。
「流石の奴らも、衛星までは破壊できないようでね。イーラの位置も手に取るように分かりますよ。さぁスクリーンにご注目」
バーネットは再びタブレットを操作する。すると画面が変わり、偵察衛星からのLIVE映像が映し出された。場所は東京。イーラは多くのドラゴンと共に、どこかの広場で羽を休めているようだ。
「こうして見ると可愛いもんでしょう? 動物園のパンダみたいだ」
バーネットのジョークを笑う者は誰もいなかった。
式条はスクリーンを眺めながら、怒りともどかしさを募らせる。この黒いドラゴン……こいつさえ……こいつさえ仕留めれば、全てが終わるというのに。人間の力では、奴にかすり傷1つ負わせられない。現実とは時に恐ろしく残酷で、無慈悲だ。
「アメリカの状況はどうなんです?」
今度は吉村陸軍幕僚長が質問する。
「状況ですか? 他国と大して変わりませんよ。東海岸の都市は軒並み陥落。首都を含めてね。軍はシカゴやメンフィスを拠点とした防衛ラインを構築して、ドラゴンとの総力戦に備えています。何せ、現有戦力の約7割を投入してますからねぇ。まさしくアメリカ最後の戦いですよ」
日本側の軍人たちはさらに顔を曇らせた。世界最強の国家、アメリカ……それが今、破滅の瀬戸際にある。その事実は、人類の敗北が目前に迫っているという紛れもない証左だった。
「ちなみに中国は北京を放棄、ロシアはモスクワに軍を集結させ最後の抵抗を試みています。残念ながら幸運の女神は、どの国にも微笑みそうにありませんね。ハハハ」
バーネットは微かに笑う。それは諦念とも取れる、乾いた空っぽの笑いだった。
「もういいバーネット。下がれ」
そう威厳ある声で言ったのは、整った黒い軍服を着た、老年というには少々早い男性軍人だった。胸には無数の勲章がぶら下げられ、熟年者らしい落ち着いた雰囲気を醸し出している。
式条はその老兵の顔に見覚えがあった。ハンク・リースマン中将……第7艦隊の現在の司令官だ。
「今重要なのは、我々が今後どう動くかだ。ここに留まるか、それともハワイへ逃れるか。それに……」
と言いかけた時、別の将校がリースマンに何かを耳打ちした。リースマンの表情が一気に硬くなる。
「テレビを入れろ、バーネット」
「えっ?」
「どのチャンネルでもいい。急げ」
「は、はあ……」
バーネットはあからさまに困惑しながら、タブレットに触れる。するとスクリーンに、アメリカのニュース番組が映った。放送されているのは、大統領による緊急演説の様子だった。
『アメリカ国民の皆さん……合衆国は今、建国以来最大の危機に見舞われています。死傷者数はもはや把握できていません。敵の侵攻を阻止すべく、陸軍・空軍・海兵隊による大規模作戦が展開されていますが、これが功を奏するとは限りません』
式条たちも今は会議を中断し、大統領の言葉に注目していた。ワシントンは既に占領されているため、どこかの秘密基地から放送されているのだろう。
『しかしアメリカは決して、凶悪なるドラゴンたちに屈しはしない。この身が朽ち果てようとも、最後まで戦い抜く覚悟です。よって私は先程、国内での核兵器使用を承認する大統領令に署名しました。住民の避難については、警察や州軍により随時行われる予定です。アメリカ合衆国に神のご加護を』
放送が終わり、画面がニュースキャスターに切り替わる。その彼も、唖然とした表情を見せていた。
この声明にショックを受けていたのは、何よりアメリカ側の軍人たちだった。ある者は額の汗を拭い、ある者は頭を抱え、ある者はただ沈黙していた。
「本土で核兵器が使用された場合、どの程度の被害が出る?」
「もし10発の戦術核が炸裂すれば、放射性物質により風下の地域は壊滅するでしょう。それが東部か西部か、カナダかメキシコかは分かりませんが」
部下と話していたリースマンは、腕を組んで大きなため息を吐く。
「諸君……すまないが会議を一旦中断させてくれ。私は司令部と話す」
そう言うと、リースマンはくたびれた様子で作戦司令室を後にした。彼の胸中にあるのは祖国の命運か、それとも家族の顔か……式条には知りようのないことだった。
司令室を出ると、廊下には大勢の民間人が溜まっていた。いつ来るとも知れぬドラゴンの影に怯え、基地内へ避難してきたのだろう。だがそれも無駄なことだ。ドラゴンに対抗しうる兵器など、この世には存在しないのだから。
式条は時折彼らに目をやりながら、重い足取りで廊下を歩く。
「主は私の羊飼い、私は……」
「ついに訪れたのだ。最後の審判が」
「ママ、世界は終わるの?」
「大丈夫。何も恐れることはないわ」
そんな話し声が、嫌でも耳に入ってくる。
ふと式条の目に、床に座り込む老婆の姿が映った。年齢は90歳近いだろうか。老婆は皺にまみれた手で、丁寧に本のページをめくっている。式条が興味を惹かれたのは、その本だった。
「それは何です?」
気がつくと、老婆にそう尋ねていた。
「私の祖先を救った、英雄たちの物語です」
老婆はゆっくりとした口調で答える。
本の表紙に描かれていたのは、2体のドラゴンであった。水彩画のようなタッチであり、端々から柔らかさが感じられる。タイトルは、全く聞き覚えのないものだった。
「その英雄とは、このドラゴンたちなのですか?」
「その通りです」
「皮肉なものですね。よもやこんなことになるなんて……」
本の黄ばみ具合からして、おそらく幼少期から愛読していたのだろう。そんな親しみある英雄たちによって、世界が脅かされている……その事実に、深い同情を覚えた。
「いいえ、彼らは実在した英雄です。多くの命が、彼らによって救われたのです」
老婆は一歩も引かなかった。
人々を救った2体のドラゴン……そう聞くと梵や雪也を連想したが、彼らの存在は日本でも最高機密だ。グアムに住むアメリカ人の老婆が知るはずはない。単なる偶然の一致だろう。ドラゴンが登場する御伽噺など、いくらでもある。
式条はその場を去ろうとした。その際、老婆のしゃがれた声が耳に入った。
「彼らは……再び現れます」
何はともあれ、信仰できるものを持つのは良いことだ。式条は老婆を否定することはせず、黙って歩き去った。