第7話 少女と竜
式条憲一中佐は、とある民家を訪れていた。
諸田家。海成梵の里親に当たる夫妻だ。
式条がこの家に来た理由は他でもない、海成梵の身辺調査のためである。式条は夫妻と向かい合い、簡単な自己紹介を終えると早速本題に入った。
「まず、梵くんはどんな子でしたか?」
「どう……と言われましてもね……」
2人の表情には、動揺や困惑は全く見られない。式条には、それがなんだか不可解に思えた。
実子ではないとはいえ、海成梵は紛れもなくこの2人の家族であるはずだ。それなのに、彼を案じる様子は一切ない。
「何を考えてるのか分からない、不気味な子でしたね」
妻がそういうと、夫もそれに同調する。
「美月の言う通りですね。殆ど感情も見せないし、はっきり言って気持ち悪かったです。いつか何かしでかすんじゃないか、なんてずっと思ってましたよ」
「そう……ですか」
式条は確信した。この2人は動揺を隠しているのではない。初めから里子に一切の関心が無いのだ。
「梵くんは、何か変わったところはありましたか?」
「さあ。さっきも言ったでしょう? 彼については何も分からないって。まあ、学校でも酷いいじめに遭ってたみたいですし、普通ではなかっんじゃないですか?」
夫がスラスラと答えた。まるで他人事だ。
「そうですか。ご協力ありがとうございました」
式条は立ち上がり、適当に一礼をした。普段ならばこんな無礼は絶対にしないが、相手によっては例外もある。
これ以上は時間の無駄でしかない。
「あ……あの!」
不意に、妻の方が式条を呼び止めた。
「協力できることがあれば何でもします。ですからその……謝礼金などは……」
此の期に及んで金の話か。
式条は眼前の女を睨みつけた。立場上怒鳴りつけてやることは叶わなかったが。
「家には梵の経歴が書かれた資料もあります。だからお願いしますよ」
夫もそれに便乗した。式条はもはや我慢の限界だった。
「あんた達……海成梵を里子にしたのは、大方里親手当てに目が眩んだからなんでしょう?」
「バレちゃいましたか? はははは!」
夫婦は揃って笑い出した。しかし式条は表情を崩さず、さらに凄みを利かせた。
式条の怒りにようやく気付いたのか、夫婦の表情から笑顔が消え、そして徐々に青ざめていった。
徒歩やバスでようやく美咲の家に到着した時には、既に陽は沈み始めていた。
「さ、着いたよ」
と言って美咲が指差したのは、高さ150m以上はあろうかというタワーマンションだった。
「えっ…ここが家なの?」
「そうだよ」
周囲に殆ど一軒家しか無い中で、このマンションはかなり目立つ。だから梵も存在自体は知っていた。だが、こんなに間近で見るのは初めてだった。
「美咲ちゃんの家って裕福なの?」
「うーん……お父さんがすごい立場らしくて」
美咲の言い方は、自分の親について話しているとは思えない、かなりよそよそしいものだった。
「それって……どういうこと?」
「お父さんの仕事は秘密が多くて、殆ど何も話してくれないのよ。そもそも全っっ然家にいないし!」
「へ、へぇ……」
タワーマンションに足を踏み入れると、そこはさながらホテルのエントランスだった。透き通るような白で塗られており、何やら芸術的な装飾がそこら中に見られる。梵はその豪華さにすっかり目を奪われ、目を輝かせていた。
「この部屋だよ。さ、入って」
エレベーターから降りた後、美咲は洒落た木造の玄関ドアを開けた。
内装は主に白と茶色を基調としたもので、落ち着いた雰囲気を醸し出している。リビングの窓からは横浜の街が一望でき、40階から見る光景は美しいの一言だった。
「喉乾いてるでしょ? これ飲んで」
そう言って、美咲がコップ一杯の水を差し出した。
「あ……ありがとう」
梵はソファーに腰掛けると、その水を一気に飲み干した。冷たい感覚が、喉から胃に落ちていく。昨日からまともに飲食などしていなかったので、それはただひたすらに嬉しいものだった。
「それで……ソヨ君」
不意に美咲が梵の前に座り、目を合わせた。その表情は真剣だ。
「そろそろ本当のことを言って」
「えっ……本当のことって?」
梵はしどろもどろに答えた。
何かを隠している――――美咲はそれを確信していた。
「どうやって私を助けたの?」
「だから……さっきも言っただろ? たまたま目の前で車が事故を起こして……」
「そこにたまたま貴方がいて、中にいた私を助けてくれた……なんて話、信じられると思う?」
梵の思う以上に、美咲は鋭かった。もしかして、美咲はドラゴンの姿を見たのではないか、そう思えた。もうなんの言い訳も思いつかない。こうなっては、観念するしかない。
「じゃあ、本当のことを教えようか?」
美咲はゆっくりと首を縦に振った。
「屋上じゃなきゃ秘密を明かさないってどういうことよ?」
2人がマンションの屋上に出た時、太陽はほとんど沈んでいた。冷たい風が、これから訪れる夜を告げているようだ。
「"百聞は一見にしかず"って言うでしょ?」
屋上はかなり広く、"秘密"を明かすのには十分だった。
「きっと驚くよ」
梵は決意した。
もし警察に通報されるようなことがあっても、さっさと飛んでいけばいい。
「じゃあ、目を閉じてて」
美咲はそれに従い、ゆっくりと瞼を閉じる。
その刹那、目の前から突き飛ばされるような強い風が吹き付けた。危うくバランスを崩しそうになったが、その場で踏ん張って耐えきった。
「もう開けていいよ」
その声は、それまでの梵の声とは違い、低く、よく通るものだった。
目を閉じていたのは、ほんの数秒間だった。その間に美咲の眼前に現れた光景は、彼女の想像を遥かに超えていた。
「ドラゴン……」
彼女は思わずそう呟いた。
20m近い巨体、巨大な翼、大きく裂けた口に、びっしりと生え揃った牙。宝石のような青い鱗は、空の輝きを反射して煌びやかな光を放っていた。
「ソヨ君……なの?」
「うん」
宝石のような黒と青の瞳が、美咲を見下ろしている。その容姿は威圧的なものだったが、不思議と恐怖は感じない。
黄昏の空の下で、少女とドラゴンはしばし見つめ合っていた。
「驚かないの?」
梵が、数十秒に及ぶ沈黙を打ち破った。
「ううん、すっごく驚いた」
「怖くないの?」
「貴方は私の命を助けてくれた。だから貴方は私を襲ったりしない」
「君を食い殺すためにわざと助けたのかも」
「これから私を殺そうとしてる怪物が、そんな悲しそうな瞳をしてるわけないもの」
美咲は、容姿に合わぬ哀愁を纏わせたドラゴンに、小さく微笑みかけた。
梵は、何も言うことができなかった。
「そろそろ帰らない? 誰かに見つかっちゃったら大変だよ」
「……そうだね」
ドラゴンは眩い光に包まれると、徐々にその形が崩れていき、数秒経った頃には少年の姿に戻っていた。
「ねえソヨ君、今度……背中に乗せてね」
「うーん……もうちょっと飛ぶのが上手くなったらね」
「わかった。ところで今日泊まっていくよね?」
「えっ……いいの?」
「だって行くところ無いんでしょ?」
「……ありがとう」
彼女は、信用しても大丈夫だ。梵はなんだかそう思えた。
世界にただ1つであろう秘密を共有した少年と少女は、静かにその場から去っていった。