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「ストーリー芸術」の成り立ちと現在

作者: 豆ケ浦

「ストーリー芸術」というのは私がさっき思いついた言葉である。

すでに存在するのであれば、それとは別のものだ。


小説を中心として発展してきた創作表現を指すものとして勝手に名付けてみた。

そういう次第なので、まずは小説についての話から始める。


なお、私は文学部出身などではないので、定義は適当だし引用文献も参照もない。

そういう意味で、これは一人のファンのたわごとである。





小説とはなんであろうか。


私は、小説は二つの「目的」をもつ芸術だと思う

一つは「ストーリーの呈示」であり、一つは「伝達の手法の開発」だ。


なお、ここでいうストーリーというのは「お話の筋」という意味ではない。

「人を導く何か」である。

それは、たった一つの台詞かもしれないし、一場面の情景かもしれない。

大事なのは、物語が背景にあって初めて輝くものだということである。



さて、一方の「目的」である、「伝達の手法の開発」にふれておく。

これのみを目的とするのが、純文学や一部の詩の世界である。

あたらしい文体の確立や達意の手法を磨くために存在し、深化をつづけているものだ。

生来の性質として前衛であり、日々、社会のありように合わせて変転し、場所を変えて大量に生まれつづけ、多くが生まれた瞬間に死んでいく。

今の主戦場はネット上のSNSや、それを引き写したライトノベルの中かもしれない。

少なくとも古びた文芸雑誌の中ではないだろう。

誰かが開発した手法で自分の近況を語るためにある芸術ではないからである。


一方の「ストーリーの呈示」。

これこそが、小説が近代になって一世を風靡した理由と私は考える。

それを述べるのが、この論の主題である。




長く続いた近代以前の農耕社会では、「成長してどのように生き、どのように死ぬのか」ということは、その社会の中で子供時代を過ごせば自然と身についた。

「どのように物事を行えばいいのか」「物事をどう解釈すればいいのか」ということを若い者に教育する儀式やしきたりや宗教も、共同体の長い時間の中で十分すぎるほどに整えられ、型通りの一生を人は迷うことなく生きることができた。


しかし、市民社会の誕生と進展が人々を社会から自由にし、科学技術の発展が工業を成立させて人々を大量消費と知識労働へと駆り立てると、そのような社会は崩壊した。

「どのように生きるのか」「どう納得するのか」「次に何をしたらいいのか」を誰も知らない、という世界が日々更新されていく時代が到来したのである。


しかも更新の速度は次第にはやまって行った。思い悩む先の「次の時」は最初のうち「百年先」であったかもしれない。

けれど、次第に「三十年」「十年」「五年」と縮まっていく。

今や「来年」や「明日」、「今日これから」をすぐに判断することを求められる時代となった。



人々は考えなくてはならない。しかし、考えるという作業は人にとって苦痛を伴う。

自分の責任で判断して行動し、その中で犯す間違いを受け入れ、そして反省する、というのは気の重い作業だからだ。不安もつのる。

やはり、誰かの作った「型」に嵌ってその通りに行動する方が、簡単だ。

しかも、それが自分の信頼する人が呈示し、仲間も従っている「型」であれば、とりあえずの安心も手に入る。

だが、「型」は誰が作りどう提供する?


そこにストーリーが登場する。


市民社会が到来すると同時に、物語にストーリーを見出す人々が現れた。

これまで経験をしたことのない事態に次々と見舞われる中で人々は、物語の中で提示される「作品世界のためのストーリー」から、直接・間接を問わず生きるためのヒントをつかみ取ろうとしたのである。


しかし、かつてあった物語は、幼い子供に道徳を語り掛ける説話などが主であったし、物語や芝居は農耕社会から浮き上がった存在である一部の貴族や町人に、伝聞や昔語りなどの形をとって、何かを切り取って見せるものであった。

つまりは限られた世界に向けての「おとぎ話」である。


突如、そこに大衆がストーリーを求めて殺到したのだ。

しかし、新しい社会の中で自分の存在の位置づけに失敗した人々の要請に応えるだけのものは、当然そこに用意されているわけもない。



ストーリーを呈示する小説はそういう時代の要請に応えるものとして登場した。

昔ながらの物語や芝居に飽き足らない人々の前に現れた、当世風の洞察や分析を含む味わい深い作品群の登場は、過去の作品をごぼう抜きにするほどの成功を収め、小説という新たな分野を一息に確立してしまうほどの成長を果たした。

人々は、期待に応えられなかった「おとぎ話」を踏みにじって、小説を賞賛した。

「おとぎ話」に罪はないのにもかかわらず。



もちろん、すべての人が自分で、作品からストーリーを見出せるわけではない。

一部の人がストーリーを探索し、解釈して伝え、多くの人がそれを「型」として受け取って、嵌まる。

そうした流れが自然と形作られた。

そのための装置として、評論やエッセイ、自己啓発本、講演会、セミナーといったものも整えられた。

新興宗教(あるいは既存宗教の改変流布)というのも、この流れの脇のあだ花である。



日本においては明治期以降、毎年のように起こる歴史的な社会変化に何とかついて行こうとする人々によって小説がもてはやされた。

小説の成功に平行して、同様にストーリーを呈示する芸術である演劇や映画も人気を獲得した。


戦時色が濃くなるにつれてこれらの表現が規制されたのは、人々を一群のストーリーに押し込めるために、他のストーリーが邪魔だったからといえるだろう。


戦後になると、高度経済成長、バブル、バブル崩壊、暗鬱とした時代、ネット社会の到来と、ますます変転する社会の中で、消費されるストーリーは、細分化する小説や、ドラマ、歌、マンガ、アニメなどへと広がり、加速度的に増え続けている。



例えば、少女小説という分野の興亡はそうした流れの一つとみることができる。

この分野は女性の生き方の大きな変化を受けて勃興した。

農作業の手伝いや商家の下働きに忙しかった少女たちの中に、大正期ごろ「嫁入り前の数年間を女学校などで過ごす」層が突然生まれた。

それまでの女学校に人生をかけて通っていた層とも違う彼女たちには、今までの社会になかった存在の自身を規定するためにストーリーが必要になる。

そうした新しい読者の存在を偶然発見した出版社が書き手を求め、書籍が発行されるようになった。

少女小説の誕生である。

戦後になると、大多数の少女が賃金を稼いで家族の生活を支援するために高校へ通うようになり、さらには身につけた知識・技能で自分の人生を手に入れるために大学教育と職場を求めるようになった。

教養を身につけ、前提がない思考をする時間を手に入れて、人生に戸惑いを感じる彼女たちの内面には、自己の存在を表現するためのストーリーが何よりも必要となる。それは強烈な飢餓感であり、あふれほとばしる力となった。

当初の少女向け小説は、文壇と呼ばれる場所から流れてきた男性作家が、生活のため雑誌の求めに応じて、戸惑いながら書いていたようなものであった。部外者が妄想をたくましくして書いたものであり、旧世代の理想の女性像を押しつけるようなものも多かった。

自分たちの現実に合わない作品ばかりが供給される状況に苛立った少女たちは自ら声を上げ、ペンを執った。

少女たちが自らの目でとらえた世界と思い描く理想。それらを描いた作品群は、当然のように爆発的な人気を博した。

少女小説が分野として確立した瞬間であった。

同時期に少女マンガが成立したのも同じ理由であっただろう。

しかし、当時あった「女性」という生き方のある種の特殊性は時代の変化で徐々に失われていく。

「女性の生き方」は、そのわきで迷走を重ねた「男性の生き方」といつしか重なる部分が多くなり、「人間の生き方」というテーマへと集約される。

「少女向け」と「少年向け」という分野の境目は薄くなり、少女マンガ同様に、少女小説の存在感は低下していったのである。


ちなみに、現在でも「女性向け」「男性向け」という分野が隆盛を誇っているが、今のそれらは現実には存在しない異性をつかって妄想を膨らませるためのものである。

そしてそれはもちろん、そこに別の強烈な飢餓感があることを示している。



さて、現在も人々は大量のストーリーを消費している。

しかし、少女小説の例でみたように、一時期ストーリーをマスに発信し続けた歌や映画、ドラマ、「少年向け」「少女向け」のマンガや小説に、もはや昔日の勢いはない。



いま、ストーリーはどこにいるのであろうか。


むろん、残念ながら、小説ではない。

人々の体験する世界は複雑に進化するのに、小説はそれに合った作品世界とストーリー、それらにあう文体を提示出来ていないようである。



なにより、人々は、商業作品から遠ざかっているように見える。


ある時期、ストーリーを消費する人々の姿をみた広告業界が「物語で売れ」とばかりに国家や産業界に方法論を売りこんで、次々とストーリーを量産し、使い捨てのストーリーをばらまいた。


愚かなことだった。

求められるストーリーは人生の何分の一という大きな時間を費やすに値するものでなくてはならないが、凡人が会議を重ねたくらいではそれに足る重みを作り出すことはできない。

人々は商業主義の振りまく安易なストーリーに辟易した。


もちろん凡人だって有能だ。だが凡人である。

有能でなくては仕事は出来ないが、創り出すというのはそれとは別の能力の成果だ。

それがわからない凡人が創作の現場にまで進出してくれば、どの作品も凡人が会議を重ねた程度のものになってしまう。結果として、あふれる商業作品のほとんどがそうなってしまった。

この中から求められるべき存在を探し当てるのは容易なことではない。

見つけたと思っても、それらはすぐ凡人の会議に振り回されて変質する。

人々は、その繰り返しに辟易したのだ。



分野を切り拓くのはつねに時代に愛された一個の才能であった。

マンガにおける手塚治虫に異議のある人はないだろうし、特撮における円谷英二にも異論は少ないだろう。

独断で言うなら、私は、小説では夏目漱石、少女小説においては氷室冴子にその姿をみる。

確かに他にも貢献の大きな人がいるが、先鞭をつけ世間に大きなうねりを創り出したのは彼らだと、私は思っている。


才能が才能である理由は、常人と異なる目で現実を切り取ってしまうということであり、それを表現してしまうことであり、その結果受け手に自分の現実に合うストーリーを与えてしまう、ということである。

つまりは本人の意図を超えて奇異な存在であり的確な表現者なのである。

狙って奇異であることや異常であることは容易だし、表現をすること自体も修練を積めば出来る。

しかし、それは才能ではない。

凡人が何を努力しても常人にしかなれない。常人が何人集まってもやはり凡人の仕事しかできない。

才能はそのように貴重な存在であり、それをできる限りそのまま呈示することこそがストーリー探しの世界では求められる。

才能をわかりやすく見せる工夫をすることは、才能の持ち主が有能でない場合には、凡人がするべき仕事となるが、凡人による多数決で落としどころを探って改変を重ねた結果からは、決して輝きが生まれることはない。


ちなみに、才能であっても、集まって会議をすると凡人以下になることが珍しくない。

才能は話し合わせるのではなく、競い合わせるべきである。



今、私たちの前でストーリーを呈示しつづけ、人々を引き付けているのは、集合知としてのネットの中の何かであるようであり、新たなストーリーを産むのはその中から出てくる誰かであるようだ。

集合知は、会議とは異なる。

無数の発言の中からたった一つの言葉が、これまた無数の人の手によって見つけ出される過程を集合知というからである。

集合知こそは、才能を見いだす仕組みそのものである。


私は、現れ出た才能の活躍する先が小説であればと、まだどこかで願っているが、才能のきらめきが目立つのは表現の世界で長い間周辺にあったアニメの世界のようである。


これは、「型」に嵌まって安心することを目指す人々が、最近までは押し寄せることが少なかったからかもしれない。



はじめの方で述べたように、「型」に嵌まることは生きる上で当然のことだ。

安心したいのは人の本性である。

しかし、一つの「型」に大勢で嵌まり、他の生き方を非難し、数を恃んで相手のストーリーを踏みにじるようなあり方は、一群のストーリーを強制した戦時下の国家の姿と何も変わらない。


数を恃む人々は、個々が自らストーリーをつかみ取ろうとしないだけでなく、自分の現実に合わせて選ぶという「考えるコスト」を払うことさえしない。

誰かに呈示された「型」に自分を当てはめようと無理をする。

作品をいわれたとおりにしか解釈せず、解釈された「型」に無理に合わせて自分が失敗すると「型」のもととなった作品を非難する。

作品を呈示した方からみれば、いわれのない非難であり、そんな非難を受けながら創作を続けられる人は少ない。


小説は長年、そうしたいわれのない非難を受け続けてきた。

いまの小説にきらめきが少ないのは、そんな不憫な場所には、もう何かを指し示すような才能があらわれることは難しいということだろう。

実際、小説は作品の価値ではなく、作者の知名度に依存する売り方をするようになって、久しい。


寂しいことだ。

私は新しい才能の誕生を目撃したいといつも願っている。

願いながら、不真面目な読者や視聴者として、ときにアマチュアの作者として、今日も広大な創作の周辺を好き勝手にさまようのを楽しみとしている。



もちろん、作品から獲得するストーリーは人によって様々である。

それが、この芸術の本来の姿であり、それこそが表現の自由であり、思想信条の自由へとつながる。

個々人が持つ膨大なストーリーの組み合わせこそが多様性を生み、それが変化し続ける時代において社会の強みとなる。


「型」に嵌って安心したい人々が一つの作品に殺到して、他人に同調を強要し、あるいはそれが「いいわけ」に使われるのは、社会やそこに暮らす人々に息苦しさをもたらすだけである。

各個人が自分に合ったストーリーを選び取る。そのためのわずかな「考えるコスト」だけでも、一人一人が自分で負担する。

そうした社会の姿を、困難なことであるけれど、新たな才能の登場を待ち望む身としては願ってやまない。



「私のためだけのストーリーがそこにある」という体験をすべての人に提供する不可能。

「この世界のすべてを説明するストーリーをいつか見つけ出す」という不可能。

それらを目指すことが小説を始めとするストーリーを呈示する芸術の存在意義なのだろう。

そして、すべての人が「自分だけのストーリーを胸に、他人のストーリーを尊重して生きる」ようになる社会の到来こそが、「ストーリー芸術」の目指す未来なのかもしれない。


《了》


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