記念日
「じゃあ、行ってくるわね。」
「行ってらっしゃい。」
笑顔を浮かべる彼女を、僕は玄関で見送っていた。
早紀とは、今や半同棲をする仲になっていた。
彼女の翌日の勤務予定が遅番の時や、休みの時は僕の家に泊まる事が多かった。
彼女には、この前笹下先生に会った事は言っていなかった。今の、いい関係に少しの波風も立てたくなかったからだ。
「じゃあ、また明後日ね。」
「うん、明後日。ちゃんと布団で寝るのよ。ソファで寝ちゃ駄目だからね。」
「分かってるよ。」
中々口うるさい同居人だったが、これが僕には全然嫌では無く、むしろ心地よかった。
そうして、早紀は出掛けていった。
明日彼女は仕事休みだったが、久々に昔の友達に会うのだと言っていた。
僕も最近は、忙しい日が続いていた。アドバイザー契約をしている会社、個人が約100先あるのだから当然と言えば当然だ。
僕としては、早急に新たな仲間を加えるか、若しくは従業員を雇う事を検討すべきだと考えていたが、この点において、僕と一幸の考えは異なっていた。
「他人任せにしたら、仕事のクオリティが落ちるだろ。仲間に加えるなら、高いスキルを持っているのは大前提で、その上で間違いなく信頼できる人物じゃないと俺は嫌だな。それに、従業員を雇うというのは、その人の人生を背負うって事になるんだぞ。そんな重し背負ったら、思い切った事ができなくなる。結論を言うと、俺は時期尚早だと思う。」
と一幸は言う。
なる程、もっともらしい意見だとは思う。ただ、僕は少し不思議だった。一幸は人脈作りのために積極的に他人と交流を図るのだが、自分の身近に他人を置く事は極端に嫌がっていた。僕を除いてだが‥。
その日開催されたパーティーで、僕と一幸は壇上にいた。しかも、僕は赤、一幸は白のジャケットなどを着て、終始作り笑顔の維持に必死に努めていた。
今日は、僕と一幸の会社、株式会社ATクリエイトの設立一周年記念イベントだった。会場のあちこちには、僕らの夜の人脈作りの結晶(一流ホステス達)が配備され、有名シェフによる料理の数々がテーブルの上に所狭しと並んでいた。
オープニングの挨拶を済ませた僕たちは、壇上から降り、各テーブルのゲスト達をもてなすべく、飲み物を注いで回った。
「荒木社長、本日は誠におめでとうございます。」
「お若いのに、たいしたもんですな。」
「本当、社長と戸塚さんのアドバイスのお陰ですよ。」
行く先々のテーブルで、僕たちは、お祝いの言葉・称賛の言葉を頂いた。勿論、その言葉全てを額面通り受け取る程愚かではないが‥僕の中の『尊厳の欲求』は満たされて来ていた。
順番に、挨拶回りをこなしていると、その中でひときわ賑やかに盛り上がっているテーブルがあった。僕たちが、そこにたどり着いた時も、その状態は変わりなかった。成る程、そこは芸能事務所関係者のテーブルで、一人のお笑い芸人が持ちネタで周囲の笑いを誘っていたのだった。彼の芸名はワサビーン。最近地上波ではあまり見かけない、いわゆる一発屋芸人だが、眼鏡とでかっ鼻、チョビ髭をトレードマークにした(単に宴会用のチョビ髭付き眼鏡を着けているだけだが、)彼のキャラは、個人的には少し気に入っていた。
僕らが来たのに気付くと、彼はその小道具を外し、丁寧にお祝いの挨拶を述べてくれた。その際、僕の視線が外した小道具に送られていた事を察した彼は
「あっ、良かったらコレ付着けてみます?」
と言ってくれた。
「いいんですか。」
そう言って、そのチョビ髭付き眼鏡を受け取った僕は、早速装着してみた。
「どうかな?」
「おお、ワサビーン2号誕生だ!これからは2人のコンビで行きましょう!」
彼はそう言って持ち上げてくれたが、それが社交辞令である事は分かっていた。いまいち受けず、内心少し恥ずかしかった僕は、友人を巻き込む事にした。
「一幸も着けてみろよ。」
彼は嫌がったが、僕に押し切られ、仕方なくそれを装着して見せた。
期待通り(?)、周囲の反応は微妙な感じで、面白い何かが生まれる事もなかった。ただ、その眼鏡をかけた顔を何処かで見た事があるような気がした。
「誰かに似てるんだよな~。」
僕が、腕組みをしてそう言うと、
「何だよ、それ。」
そう言って、一幸はチョビ髭付き眼鏡を外してしまった。
僕が「ちょっと、もう一回着けて見せてくれよ。」と言っても、「もう、いいだろ!」とぶっきらぼうに拒否されてしまった。
(何だよ、大人げないな‥。)
僕はワサビーン達に「なんか、ご免なさいね。」と謝罪し、チョビ髭付き眼鏡を返してから、先に次のテーブルに向かってしまった一幸の後を追った‥。
その後、パーティーは滞りなく進行し、無事終了した。
僕と一幸は、招待客全員を見送った後、当日用意してあった控室でお茶をすすりながら一休みしていた。
「ところで、一幸。この前も言ったけど‥。」
僕は、従業員を雇う事について一幸に再提案を試みた。
「もし、僕達のどちらかが、怪我したり病気になったりしたら、どうする?やっぱり、スタッフは必要だとは思わないが?」
「別に。そうなったら、そうなったで何とかなるよ。」
「何なら、小林健介のとこで保険にでも入るか?」
「そういう事を言ってるんじゃないよ。」
「会社としての備えが必要だと、言ってるんだよ。」
「何だよ。すっかり守りに入りやがって。女でもできたか?」
「そんなんじゃないよ。」
僕は、未だに一幸に早紀との事を言っていなかった。そして、一幸の言っている事は、全くの的外れでも無かった。僕がイメージしている具体的な理想の未来像には、早紀がいる事が絶対条件になっていたのだったから‥。
「とにかく‥」
僕が、そう言いかけた、まさにその時だった。
ドンッ!
真下から、突き上げる震動を感じた。
そして、約五秒後‥
今度は、大きな横揺れが襲ってきた。
「地震だ。」
「大きいぞ!」
僕らは、部屋に備え付けてあった机の下に潜り込んだ‥。