白日
僕はドアノブに手を掛けた。手前に向けて力を込めると、その堅固である筈の扉は呆気なく開いてしまった‥。
部屋の中は、閉じられたカーテンにより一切の光が遮断されていた。唯一、機械のモニターから照射されている明かりが限定された範囲の景色をうっすらと浮かび上がらせていた。
ただ、その時点で僕は既に違和感を感じていた。モニターの数、光の量が明らかに僕のイメージするトレーディングルームのそれより少ないのだ‥。ウイン、ウインと機械の稼働音こそするが、モニターの数はせいぜい3台程度といったところだろう。
僕は、部屋の中に足を踏み入れた。
途端に、先程とは別の違和感が‥いや、違和感という類では無く、独特の匂いに包まれたのだった。そして僕は、この香りと似た匂いを知っていた。それは、仕事帰りの早紀から発せられていたものと同種の匂い、消毒液の匂いだった。
カーテンを開けようと、部屋の奥へ進んだが、直後、腰の辺りを手すりのような物体にぶつけてしまった。前のめりに倒れ掛かった僕の手の先が触れたのは、間違いなく布団の一部だった。
体を起こした僕は、その手すり状の物体をよけて進み、ようやく窓に辿り着いた。そして、一気にカーテンを端に払い除けた。途端に、外からの光が差し込んだ。
直後、振り向いた僕が目にしたのは、この部屋に入ってから予感はした‥、しかし、やはり驚くべき光景だった。
そこあったのは、明らかに医療設備だった。トレーディング機器等は一切無かった。然しながら、最も驚いたのはそこに医療ベットがあり、1人の男性が仰向けになって寝ていた事だった。
その男性の口には酸素吸入器がセットしてあった。また、体のあちこちに貼り付けられたパッチから配線を経由して、心電図がモニターに表示されていた。その人物が医療設備の管理下で生かされているという事は、医学の素人である僕にも解った。
彼は誰なんだろうか?
一幸と彼は、どういった間柄なんだろうか?
なぜ、一幸は彼の存在を隠していたんだろうか?
次々と疑問が涌いてきた。
ただ、僕は目の前のその人物に見覚えがある‥ような気がした。
改めて部屋全体を見ると、部屋の一画にはタンスがあり、その上には写真立てが置いてあるのに気付いた。近くに行って見てみると、それは40代位の夫婦と思われる男女の写真だった。
一幸の家には昔よく遊びに行っていたので、御両親の顔はよく覚えていたが、そこに写っているのは違う人物だった。
もっとよく見ようと、僕はその写真立てを手に取った。そして、その下に1冊のノートが敷かれていた事に気付いた。
僕はそれを手に取り、読んでみた。
そして、数行読んだところで、それがある男性が自分の息子に宛てた告白文である事を知った。
『俺は、今日決心をした。もう、戸塚の奴の部下として生きて行くのはまっぴらだ。過剰な運転業務を強要され、もう、体力的にも、精神的にも限界だ。
あいつを告発してやりたいが、あいつは社長のお気に入りだ。俺の話など潰され、今まで以上のいじめが待っているだけだ。
再就職先を探してやり直すという選択もあるのかもしれない。だが、俺はもう疲れ果ててしまった。何より、俺をここまで追い込んだあいつに思い知らせなければいけない。聞けば、俺の息子まで、学校で奴の息子からいじめを受けているというではないか。そして、なんてことだ。先週家内の癌が見つかった。医者の話では、もって1ヶ月という事だ。もう、ためらいはない。
決行は来週末だ。』
告白文は、日を改めて続いていた‥。
『いよいよ、明日決行する。
悟、もしお前がこれを読んでいるとしたら、それはお前が助かったという事になる。どうか、そうなる事を願っている。明日、俺たち家族と戸塚一家は一緒にマイクロバスで、山梨にブドウ狩りに出掛ける事になっている筈だ。だが、残念ながらブドウ狩り農園まで辿り着く事はない。
悟、おまえだけを置いて行けないかも考えた。でも、そんな事をしたら、用心深い戸塚は、俺の提案に乗ってブドウ狩りに行ったりはしない筈だ。俺はある意味賭けをしている。悟、お前だけが奇跡的に助かるという、僅かな可能性に賭けている。
お前の座席の周囲には、さり気なくエアクッションを幾つか置いておく。シートベルトも必ずしっかり締めさせる。心配するな。生きてさえいてくれれば,俺たちが死んでもお金には一生困らないだけの俺には分不相応の高額な生命保険にも加入してある。
戸塚の子供には多少同情するが、恨むなら父親を恨め。
どうか、悟、弱い父を許してくれ。そして、おまえだけは、必ず生き残ってくれ。』
ノートの告白文は、ここで終わっていた‥。
僕は、これまでに経験のない、異様な寒気を感じていた‥。
頭の中は混乱していた。
この告白文は、一幸に或いは僕に、なんらかの関わりがあるというのか?この告白文を書いた人物が何をしたのか、その結果どうなったのか。それを知る事が、その解答への近道であるのは間違い無かった。
幸いというべきか、今の時代、スマートフォンがあればインターネット検索で過去にニュースで取り上げられた事件、事故の殆どは見つけ出す事が出来る。
「戸塚」「マイクロバス」「家族」「事故」、僕はキーワードを入力し、検索ボタンをタップした。
数秒の検索時間を経て、その事故情報は僕の眼前に晒された。




