マスタープラン
俺さ、思うわけよ。この世の中にはさ、悪の組織って言うか、世界を裏側から牛耳っている奴らがいて、そいつらが俺らを動かしてる。けれどそんな事、俺らに分かるはずがない。俺たちは奴らの末端なんだよ。でかいシステムの中の小さな歯車さ。なくなっても大して困りやしない。だったらさ、俺たちにできることって、今を最高に幸せに生きることなんじゃねえかなって。
「え!? なんて!?」
金髪がメガネに向かって叫ぶ。
「窓閉めろや! 窓! 窓開けてるから聞こえないんだよ!」
そう言われて金髪は助手席の窓を閉めた。
「よくあるだろ、世界を裏側から操ってる奴ら。うわさには聞くじゃん。イルミナティだとか三百人委員会だとかロスチャイルド家だとか。アニメでもさ、ゼーレとかセルンだとかが陰謀を企てて世界を再構成しようとするじゃん。知ってるか? 日本のヲタク文化ってフリーメイソンが日本の古来文化の破壊と愚民化を狙って低俗な文化を流布した結果って言われてるんだぜ?」
メガネが片手を振り回して熱く語る。
「よく分かんねえよ。とりあえずちゃんと前見ろって」
金髪にそう言われてメガネは放していた手をハンドルに戻した。
「まあ俺もそこらへんは眉唾だとは思うけどさ、けど冷静に考えるとそうじゃん? だって誰が自分が死ぬことを予知できる? 自分の命なのに、自分がいつ死ぬのか決められない、予測できない。命ってのがもはやでっかいシステムなんだよな。俺たちはそれを変えられない、知ることができない。だとしたらさ、俺たちはそのシステムにいつ切り捨てられるか分からないんだから、今この時の一瞬一瞬を最高にハッピーに暮らしていくしかないでしょ」
「だからぁ、何言ってんのか分かんねえよ。とりあえず前ちゃんと見ろって」
メガネはがっかりしたように肩を落とした。そして後ろを振り向いて私の姿を見ながら言った。
「なあ、お前は俺の言ってること、わかるよな」
両手と両足を縛られて寝転がされていた私は、なんとか首をあげてメガネの顔を睨みながら言った。
「死ね」
一日目
裕福な家庭に生まれた。その時点で不幸だと思った。安全な環境、快適な家庭、健康な生活、つまりそれは自分の人生が平凡なものに終わることを意味していた。快適な人生を送ることと、立ち入ってはいけない場所を増やすことは同義だ。より安全に生きようと思えば、より通ってはいけない道が増える。贅沢な悩みだとは思ってはいたが、自分が裕福な家庭に生まれたという事実に気付いたとき、自らの人生に希望はないと悟ってしまった。
だからなのだろうか。神様はそんな私に罰を与えたようだ。いや、こいつらの話を借りるとしたら目に見えない陰謀だろうか。どっちでもいい。
学校からの帰り道、下ばかり向いて歩いていたら、突然黒塗りのハイエースが私の隣で停まった。あれ、と思う間もなくスライドドアから伸びてきた腕につかまれて身動きできないまま車内に乗せられ手足を縛られた。
そのまま車は急発進。高速道路に乗ってどこかへと向かった。私誘拐されちゃってんのか、マジで、超ウケる。だなんて初めは思っていた私もだんだんと風景が見知らぬものへと変わっていくうちに焦り始めた。
しかし、なんだろう、こいつらは。
二人とも若くて、痩せている。メガネをかけた方はさっきの話からすこしヲタクっぽい。ときどきハンドルから手を離して振り回しながら何かを熱く語る。金髪の方は少しダルそうに座席に深く腰掛けながら相槌を打つ。そして時折二人とも腹を抱えて笑いだす。
「お、おま、乳輪に生クリームってどういうこと?」
「知らねえよ! けどそうなってたんだからそうなんだよ!」
「意味わからん! くっそウケる!」
ウケねえよ。
決して私が不可解に思ってるのはこいつらが乳輪の話で三十分間ずっと笑いっぱなしになることや、青色発光ダイオードの発明者のことを思って涙を流してたことなんかじゃない。
私を誘拐してからもうかなりの時間経ってる。私をこの車に無理やり押し込んだのがお昼ぐらい、外はとっくに日が暮れて街灯が道をオレンジ色に照らしている。それなのにこいつらはさっきから運転以外の行為を何もしてない。身代金を要求したり、仲間に連絡をしたり、そんなことを一切やってない。ただ高速道路を走り抜けるだけ。今はウィル・スミスの僧帽筋のことで盛り上がってる。
「やっぱり黒人はすげえよ。懸垂中のウィル・スミスの僧帽筋見た瞬間、やっぱり黒人はパーフェクトだと実感したね」
「三角筋は? 三角筋はどうよ?」
「三角筋は……見てなかった」
「見ろよ! 三角筋も! ちゃんと見ろよ!」
そう言ってどははと笑う。
私は僧帽筋や三角筋が人間のどこの部分の筋肉か知らないし、知りたくもない。私が知りたいのは一体これから私はどうなってしまうのか。ただそれだけだった。
やがて車は高速を降りて一般道路に入った。
「腹減ったな」
「な」
二人はそう言った。
「あ、あそこ、コンビニあった」
「マジか。じゃあなんか買ってきてよ」
「なんでよ。コンビニの駐車場入って一緒に買いに行けばいいじゃんよ」
「おバカ。こいつ乗せたままそんな人の多いところ近付けるわけないだろ」
「確かに」
金髪が後ろを振り向いて聞いた。
「お前、何が食べたい?」
正直何も食べる気はしなかったけど、今日のお昼はパスタにしようと思ってたんだった。
「パスタ。種類は何でもいい」
「じゃあ俺もそれで」
「はいよ」
メガネが扉を閉めてコンビニへと向かっていった。金髪はジーンズのポケットから煙草を取り出して吸いはじめた。ヤニ臭い煙が周囲に広がる。煙草を吸うやつなんかクズばかりだ。まともな奴なんていない。金髪はそのまま携帯を取り出した。そうだ、携帯。縛られた腕で制服のスカートのポケットをまさぐろうとしたが今日の朝家に忘れてきてたことを思い出した。ファッキンシット。
「ねえ」
私は金髪に向かって呼びかけた。
「あんたたちって」
けど私がそう言い終わらないうちにメガネが運転席の扉を開けて戻ってきた。
「すまん、パスタ売り切れてた。焼きそばとビーフンしかなかったけど、それでいいか?」
「いいよ。俺、今この瞬間にビーフンしか食べられない体質になったから」
どういうことよ。
金髪はビーフンを受け取るとじれったさそうに包装を剥ぎ取り箸を取り出して食べ始めた。
「ほい、お前の分。焼きそばだけど別にいいよな」
「いいけど、これほどいてよ。手縛られたままじゃ食べられない」
「あ、そっか。なあこれ解いていいのかな」
「いいんじゃない。けど足は縛ったままにしておけよ。逃げられたら困るし」
そう言われてメガネは私の手を縛った結束バンドを外して、焼きそばとお箸を投げ渡した。焼きそばなんて、と思ってたけど蓋をはがしてソースの匂いが立ち込めると食欲がわいてきた。箸を使って一口運ぶ。おいしい。
メガネは運転席に戻って自分のペペロンチーノを食べ始めた。
ってそれパスタじゃん。
食べ終わると私の腕はまた結束バンドで縛られ、メガネと金髪は運転を交代して走り出した。
「ねえ、あんたたちって」
「え? なに?」
「あんたたちって何が目的なのよ。私をどうするつもりなの?」
「何が目的ってなあ……、さあな? ははっ」
「なんで俺に聞くんだよ。ははは!」
くそ。何も分からない。今ココ一体どこなのよ。
「あ~疲れた。もう今日はここで休もう」
「そうっすっか……。明日は何時に起きる?」
「適当でいいだろ。日が昇ってくりゃ暑くて起きるだろうし」
金髪はあくびを噛み殺しながら車を路肩に止めた。何車線もあるかなり広い道路だが、今は車が一台も走っていない。
「じゃ、寝るか」
「おい、ちょっと待てって。後ろのあいつどうすんの」
「どうするって、何がよ」
「だから縛っておくとかして身動き取れないようにしておかないとまずいだろ。手足縛ってるとはいえ、抜け出されて人に見つかったらやばいだろ」
「それもそうだな。確かにトランクに縄があったはずだからそれと扉の上にある手すりで縛れば移動できないでしょ」
「あいよ。トランクな」
今日はここの車内で一泊するつもりらしい。ふと運転席の横の時計を見た。緑の発光ダイオードで光ってるデジタル時計は深夜三時を示してる。私が誘拐されて既に十二時間以上経っているんだ。もうお母さんたちは私が誘拐されたって気づいてるんだろうかな。多分気づいていると思う。こんな時になって普通の安全な家庭に生まれていたことを感謝する。都合のいい奴だと情けなくなるけど。
「おい、縄ってこれで良かったの」
「おおそれそれ」
「あいよ、じゃあ適当に結んどくわ」
「適当じゃなくてちゃんと結べよ」
メガネがドアの手すりに縄を通す。金髪は煙草を取り出して火をつけた。ドアに縄を通し終えたメガネは私に馬乗りになって腕を縛り始めた。運転席から紫色の煙が漂ってくる。
「なんか、こう、制服姿の女子高生を縛ってるのって、クルものがあるな」
「うは、お前そう言う趣味あったのかよ」
気持ち悪い。
「なあ、これ、手出しちゃまずいのかな」
……マズい。
「別にいいんじゃない。やりたきゃやっちまえば」
私は急いで体を動かした。けど一足遅く腕の縄は縛りきっていたようで移動できない。両腕と両足は結束バンドで縛られていて自由に動かせない。
「やめて! やめろって!」
両手両足を縛られて動かせるのは胴体だけで、それでもなんとか跳ね上がってる姿は浜に上げられた魚のようだ。これほど俎上の鯉って比喩がぴったりな状況、なかなかないだろう。
「やめて! ほんとに! お願い!」
ハイエースの車内がバタバタと音を出して揺れる。外から見たら何か変だと気づきそうだが、あいにくこの時間に道路を通る人なんていない。くそ、くそ、くそ、死ね、死ね、死ね!
メガネは私の両足を縛る結束バンドを切ると素早く両足の間に体を潜り込ませた。制服のスカートを剥ぎ取る。
「終わったら言ってくれよ。俺もやりたくなってきた」
「うは。鬼畜。って言うか俺たち穴兄弟かよ」
こいつらの言った通りかもしれない。私みたいな世の中の末端の奴なんかにこれからどうなるかなんてわからないんだって。何があったっておかしくない。いつ切り捨てられたって不思議じゃない。安全な場所でぬくぬくと育てられて、私は、今までそんな事さえ分かってなかったんだ。
二日目
あいつらが目覚めたのは午前十時ごろだった。金髪が大きく欠伸をしながら熱そうにシャツの襟をはためかせた。私は昨日の傷が痛くて全く寝つけなかったけど。
「おい、起きろ。朝だぞ」
「んが……?」
金髪がメガネを軽くはたいて起こした。
「ん……今何時よ」
「十時ぐらい。飯でも食うか」金髪は煙草を一本取り出して吸いはじめた。
「そうだな……」
メガネはエンジンを入れて車を車道へと移動させた。
「何食べるの」
「別に適当でいいだろ。なんかドライブスルーとかでさ」
「あ、じゃああそこマックあるからあそこでいいか?」
「あいよ」
車をファーストフード店の中へ入れてメガネは窓を開けて注文を始めた。
「俺、チーズバーガー、ダブルで」
「あー、チーズバーガーダブルと、フィレオフィッシュ、あとコーラを二つ。なあ、お前はどうする?」
メガネは後ろを振り返って私に聞いたけど、私は何も食べたくなかったし、何もしゃべりたくなかった。
「適当になんか頼んでおいてやれ」
「ん。じゃあハンバーガー一つと、コーラひとつ追加で」
メガネは注文を終えると車のオーディオをいじって音楽を流し始めた。
「なに、この曲?」と金髪が煙草を揉み消しながら言う。
「ダムドのニート・ニート・ニート」
「古臭い曲。ヒップホップ流せよ」
「古臭くねえよ、今聴いても新鮮だろうが。ヒップホップだかボブサップだか知らねえけど、あんなもんは糞だ」
「……いや、そんなドヤ顔で言われても全然うまくないからね?」
くだらない。
なんで私はこんな馬鹿どもにつかまってしまったんだろう。自分に腹が立ってきて情けなくて、また泣き出しそうになってきた。
「ほい、お前の分」
運転席の眼鏡が私の顔の前にハンバーガーとコーラが入った紙袋を置いた。私はそれを睨みつけた。絶対に食べるもんか。こうなったらこれから何も食べずに餓死してやろう。私が死んだらこいつらも困るだろう。こいつらが何やろうとしているかは知らないけど、誘拐だなんてリスクの高いことをするんだ、それほど私が重要なのだろう。それを全部水の泡にしてやろう。そう思った。
それにしても。こいつらは私の両手が縛られてどうやってハンバーガーを食べられると思っているのだろう。馬鹿だ。鼻先で笑ったけど、私はその馬鹿に捕まったそれ以下の馬鹿だと思い出して悲しくなった。
車は今日は高速道路を使わないようでずっと下道を通っていた。どこに向かっているのか全く分からない。何がしたいのかも全く分かっていない。時間がたてばこいつらもどこかに電話を掛けたり、目的地に到着すると思っていたのだけど、そのそぶりも全く見せない。目的も明かさずこいつらは二人で何のためにもならないくだらない話をして馬鹿みたいに笑う。ただそれだけ。何度目的を聞いても笑ってはぐらかされるばかりだった。
何もない田舎の方へと進んでいく。昼にまたコンビニでお昼ご飯を買ってきた。金髪とメガネはカップ麺を食べていた。私にはパスタを買ってきたようだったけど、私は手を付けなかった。仰向けになって車の天井を見つめる。空腹は感じるけど、まだ死ぬには程遠い。自分の意志で死ぬ時も決められないだなんて、ほんと、バカみたい。
「お、あれなんだ?」
車はどんどんと町から離れて緑が多い道を進んでいた。お昼を過ぎて太陽は柔らかい日差しを注いでいた。車のバックミラーに映る景色の中に青い湖が佇んでいて、助手席の窓から柔らかい匂いと共に涼しい風が立ち入ってきた。そんなとき運転をしていたメガネがいきなり声を上げた。
「なんだよ、なんかあったのか」
「ほら、あれ」
「だからなんだよ、って、もしかして、あれって……」
金髪の声の中に今までと違った驚きの色が混じっていた。何かあったのだろうか。もしかして警察が助けに来てくれたとか。私は縛られて身動きの取れない体を何とか動かした。
「やべえなアレは……」
なんとか体勢を整えて、私は窓からこいつらの視線の先にあるものを見つめた。
『無人 貸しボート、あり〼』
小さな小屋の屋根に、そんな看板が立てられてた。
「おい、お前行かないの」
メガネは私に向かってそう言った。私は返事をせず俯いていた。
「いんじゃない? この時期なら車の中で熱中症ってこともないだろうし」
金髪は早く行きたくて仕方なさそうだ。
「そか。よっしゃ行くぞー!」
メガネは車の扉を閉めて叫んだ。
馬鹿みたいだ。こんなときにボートがなんだって騒ぐなんてありえない。女の子を一人誘拐しているんだぞ。なのになんで。そんなに私ってこいつらにとってどうでもいいのか。
もしかして、私はあいつらにとって必要じゃないのかもしれない。誘拐したのだってその場のきまぐれだったのかも。だとしたら私が今餓死しようとしているのだって全く無駄じゃないか。
窓から金髪の叫び声とメガネの笑い声が聞こえる。
「全然進んでねえじゃん!」
「うるせえよ! 思ったよりも難しいんだよこれ!」
「いいからちゃんとオール持てって! 落ちる落ちる!」
「わはははははは!」
車の窓から黄色い日差しが入ってくる。けど私にはそれは届かずに足の先で止まってる。少し薄暗くて車特有の匂いが広がる車内。あいつらはこの日差しを全身で浴びて馬鹿みたいに笑ってる。
「そんなにいうんだったらお前が漕いでみろよ!」
「いいよ、いいよ? 見せてやるよ。俺のあだ名知ってるか? 水上の貴公子だ」
「なんでそんなボートレース選手みたいなあだ名付けられてんだ。お前の人生に一体何があったんだよ。いいから漕いでみろって」
「ちょっと待てよ、そんなに急いで移動すると」
「もっとお前左寄れって」
「無理無理無理無理! 落ちる落ちる落ちる!」
「だから左寄れって!」
「え、左ってどっち?」
「馬鹿かお前は! お前から見て左だよ!」
「だからそんな暴れたら、おい待て待て!」
「落ちる落ちる落ちる落ちる!」
あ。
ボートが完全に裏返って、あいつらがでかい水柱二つと共に水の中に消えていった。
「寒い! 寒いって!」
「だから書いてたじゃん! 途中で漕ぎ手を交代するのは危ないからやめてくださいって書いてたじゃん!」
そう叫びながら金髪はTシャツを絞り、メガネは車のドアを開けた。
「ズボンもパンツの中までびしょびしょだ……」
「まあ暖かいし、日差しにあたってれば乾くだろ」
そう言って金髪は車の天井に飛び乗った。
「なんかそうやって車の上で寝転んでるの、昔アニメで見たよ」
「一種の夢だよな、こういうのって」
メガネがコーラを片手に上を見上げてて、金髪の笑い声が天井から振動として伝わってくる。午後の日差しの中であいつらの姿がやけに眩しく見えた。
「晩飯どうする?」
「別になぁんでも……、あ、あそこ弁当屋あった。あそこにしよ」
「はいよ」
メガネがスピードを落として弁当屋の駐車場に車を止めた。
「俺からあげ弁当がいい」
「たまにはお前が行けよ」
「確かに」
「俺もからあげ弁当」
「なあお前は?」
金髪が後ろを振り返って聞いてきた。
「っていうか、お前朝飯も昼飯も手付けてねえじゃん。腹痛いのか」
私は黙ってうつむいた。
「具合悪いのか?」
メガネも私を見て聞いた。
「とりあえず、何か買ってくるわ。調子悪いんだったら余計何か食っとかなきゃまずいだろ」
「そうだな、頼む」
そう言って金髪は店内に向かって歩いて行った。
「調子悪かったらちゃんと言えよ」メガネは後ろを振り向かずにそう私に言った。
「ほい、弁当。とりあえず同じもん買ってきた」
「おお、さんきゅ。ほい、お前も、ここ置いとくからな」
メガネは弁当を置くと、早速食べ始めた。金髪はすぐには手を付けずに煙草を一本取り出して火をつけた。
「ねえ、あんたたちってさ」
私は体を起こして聞いた。
「何が目的なの? 私を一体どうしようとしてるの?」
金髪は笑いながら煙草の煙を吐いた。
「さあな」
教えるつもりはないってことね。
「ねえ、じゃああんたちのこと教えてよ。どこで生まれたの? 今まで何をしてきたの?」
「それどっちに言ってんの?」
「どっちでもいいわよ。じゃあ金髪、あんたは?」
「出身は福岡」
「家族は?」
「じいちゃんと知恵おくれの父親と俺が十歳の時に死んだオカン。兄弟は俺含めて六人」
「え? あんた今何歳?」
「二十チョイ」
「それで、あんた今までどうやって生きてきたの」
「どうやってって……。まあ、親父が知恵おくれだからさ、じいちゃんがずっと働いてたよ。昼間はドカタで働いて、夜はブロイラーの鶏捕まえて出荷するバイトして。けどそれでも子供が六人もいるからさ、中学生の頃から俺も働いてって感じかな」
「それって、めちゃくちゃ大変じゃないの」
「そうでもないぜ? まあじいちゃんもなかなか寝る時間がなかったり、親父が突然いなくなったりとかしたり、飯も出ない日とかあったけど、それでも毎日最高だったよ」
「……じゃあメガネ、あんたはどうなの?」
「出身は東京。年はこいつとほぼ同じ」
「あんたも、こんな暮らししてきたの?」
「いや? 別に親父もいるし、母親もいるよ」
「じゃあなんでこんな誘拐だなんてしてるのよ……」
「親に勘当されてさ。奨学金借りて大学行ってたんだけど、留年して、それで嫌になって自分で退学したら親にめちゃくちゃ怒られて縁切られた。それで今まで路上で生活してたって感じかな」
「路上で生活って、それホームレスじゃないの。それって、めちゃくちゃ大変じゃないの」
「いや? 毎朝起きた瞬間、天井も何もない空から落ちてくる日差しとか見れるし、毎日最高に幸せだったよ。その日の夜にはどうなってるか分からないからさ」
次元が違う。
「やっぱり、あんたたちからしたら、私みたいな普通の生活送ってる奴らってムカついたりするの……? だからそれで……」
「いや? 関係ないしな」
メガネは食べ終わった弁当をビニール袋にしまいながら言った。
「そうそう、関係ないんだよ。分かってるのは俺たちは幸せだって、ただそれだけ」
金髪は煙草を灰皿に入れて、弁当箱の箱を開けた。
「ていうか、お前飯食わないの? 食わないんだったら欲しいんだけど」
「……あんた眼見えてないの? 両手縛られてたら食べられないでしょ」
「あ、そっか。ていうかそれで今日何も食ってねえの? 早く言えばいいのによ」
「……いつ気付くのかって試してたのよ」
両腕が解かれて私は弁当箱を取り出して蓋を開けた。その途端湯気が立ちあがり、いい匂いが広がる。お箸を割って私はご飯を口に運んで、噛んだ。甘い。噛めば、噛むほど、米の甘さが口の中で広がった。
「よっしゃ! そろそろ行くか!」
メガネが車のギアを入れ替えて車道へと躍り出た。オーディオの再生ボタンを押して音楽をかける。真っ暗な道をヘッドライトが照らしていく。
「くそ最高だよ! マジで幸せだ!」
メガネがそう叫んだ。金髪が笑う。私はそれを見ながらご飯を口に運んだ。おいしい。
三日目
へらへらと笑うその顔が嫌いで嫌いで仕方がなかった。周りの人たちが何も考えずにぼんやりと毎日を浪費するように過ごすのを見ると嫌悪感で吐き気がした。
あの子は私の何が気に入ったのか、休み時間によく私に話しかけてきた。
「駅前にね、クレープ屋さんできたの知ってた?」
どうでもいい。
「親戚のおじさんの家で子犬が生まれたらしいんだ。今日は学校終わったらおじさんの家に行って犬見てこようって思ってるんだけど、よかったら岬ちゃんも行く?」
「行かない」
「そっかぁ、何か用事があるの?」
「ない。けどいかない」
「犬嫌いなの?」
「別にそんなんじゃない。いいから放っておいて」
どうしようもない日常だ。なにが子犬だ。世の中ではもっと面白い日々を送っている人たちがいる。十代でデビューしたミュージシャンや、処女作で芥川賞とった作家、国民みんなが知っているアイドル。私はこんなどこにでもあるような公立高校で毎日を浪費している。周りはそのことに何も疑問を抱いていない。あの子の顔にお昼に食べたもの全部ぶちまけてしまえば、彼女もようやく気づくだろうか。気づかないだろうな。多分、怒るか、泣くか、それでも笑ってるか、どれかだろう。窓から外を見ると青く晴れ渡った景色、太陽の光が万人に注がれるスポットライトだとしたら、私はそんなものに価値はないと思う。
「うおわっ!」
その叫び声が聞こえた瞬間、私は目を覚ました。辺りを見渡すと灰色の景色、少し毛羽立った車内のマット、車特有の吐き気をもよおさせる匂いが鼻を突いた。
「おいおいおい、マジかよ!」
「どうしたの」
私は運転席のメガネに聞いた。
「……パンクした」
金髪はお腹を抱えて笑っていた。
「お前ちゃんと押せよ!」
「押してるっつの! お前もハンドルちゃんと握れよ! 左に寄せろっつってんの!」
「え? 左?」
「左だよ! ハンドル回せって!」
「左ってどっち!」
「お前から見て左っつってんの! 君馬鹿なの? 中卒だからなの?」
「中卒関係ないやろ! 高校がそんなに偉いのか!」
なんとか車は車道の左に寄った。メガネはスペアのタイヤを取り出すと、ジャッキを車の間に差し込んだ。金髪は車の天井に登ってタバコに火をつけた。
「おい、中卒!」
金髪は不思議そうな顔をしてきょろきょろと周りを見渡した。
「お前だよ! お前! 何自分は関係ないですみたいな顔してるんだよ! 今ジャッキで車上げてんだろ! 上乗るなや!」
「じゃあ俺はどこに乗ればいいんだよ」
「なんで乗ること前提になってんだよ? 少なくとも調子には乗ってるよお前!」
「てへへ」
「褒めてねえ!」
馬鹿らしい。車通りの少ない道で、私たち以外には誰も通りかけなかった。私は両手は縛られたまま車から降ろされた。折角車から降りられたのに、誰も通らないから助けてくれない。歩道の柵によじ登ってぶらぶらと足を揺らせた。今日も昨日と同じ、雲ひとつない青空だった。
「おい、お前危ないぞ。両手縛られてるんだから落ちたら受身取れないだろ」
私はそれを無視して足をぶらぶら揺らせ続けた。
何してんだろ、私。こんなどことも分からない場所で何をされるのかもどこに連れて行かれるのかも分からず、ただただ立ち尽くしている。馬鹿らしい。こんな時間を無駄に費やすようなこと、やってられない。
そう思うと、私はここで座っていることに居心地の悪さを感じた。腰掛けていた柵から飛び降りると私は道路から離れて歩きだした。
「おい、どこ行くんだ?」
メガネがそう言うのが聞こえたけど、私は聞こえないふりをして歩き続けた。
「おい、お前頼む」メガネが金髪に言った。
「ふぇ~」
「何かわいこぶってんだ気持ちわりい。いいから追いかけろ」
「ふぇ~」
「お前、それもう一回言ってみろ。役所行ってお前の苗字、中卒にするからな」
「ごめんなさい」
青い芝のようなものがずっと続いていた。遠くには小さく海が見える。風が少し強く吹いていた。
「おぉい、どこ行くんだ。あんまりうろちょろすんなよ」
金髪が煙草を吸いながらそう叫んだ。
「どこか人のいるところ」
「おいおいおい、そら困る。ってかそこまで歩くつもりかよ。ここらへん車も通らないし、町だって全然ないんだぜ」
「……そういうあんたたちはどこ行くつもりなのよ」
「え? てへへ」
褒めてない。なんでこいつはいきなり文脈関係なくはにかむんだ。意味わからない。
「ねえ、あんたはどうするつもりなのよ。何がしたいの?」
「てへへ」
だめだ、話にならない。私は前を向いて歩き続ける。
「おぉい、もう戻ろうぜ。帰るのめんどくさくなるからよ。大体、人のいるところ行ってどうするんだよ」
「助けてもらう」
「私誘拐されてるんです。助けてくださいってか? そんなに上手くいくかねえ」
「いくに決まってるでしょ。両手縛られてるんだから」
「無視されるって結局。どうせその結束バンド外してくれるだけだよ。どうやって帰んの。お前金持ってんの。いいじゃん、今のままで。別に不自由ないだろ?」
「……人のこと犯しておいて、よくそんなこと言えるわね」
「てへへ」
私は苛立って言った。
「あんた達、こんな生き方でいいの? こんな人から見られないように逃げながら生きて、誰からも無視されて認められずに生きて、言い聞かせるように幸せだって言って、あんた達、ほんとに幸せなの?」
そう私が叫ぶと金髪は苦笑いを浮かべて、がしがしと頭をかきながら言った。
「いや? 別に俺は今あのメガネと一緒にいるし、あいつとは会話が弾むし、まあ、目に見える不満とかは」
「けど、あんた達今まで辛い人生送ってきたじゃない。それを見返してやろうとか、みんなに見せつけてやろうとか思わないの?」
私には不幸自慢できる不幸すらないのに。
「それやって、何か幸せになるのかよ。多分、そうやって俺が得られるのなんて全く知らない奴からの安っぽい同情だろ? めんどくせえよ、人から大変だったねとか言われて。自分からずっと過去のこと引きずり出して。それよりは釣りとかしたいな、俺。むかし瀬戸内海行ったときに釣りしたんだけどさ」
「分からない、あんたの言ってることもわからないし、私が言いたいこともわかってない!」
「そりゃわかんねえよ」
金髪は煙草を地面に落として靴の裏で揉み消しながら言った。
「俺はお前が今まで何をしてきて、何があったのかとか知らねえし。けど俺はお前が生まれてから今までのこと根ほり葉ほり聞くのはすごく退屈だし、お前だってめんどくせえだろ? な、とりあえず戻ろうぜ。俺もう疲れちまったよ」
私は目の前を見た。見渡す限り、山と草原と、向こうかすかに見える海だけで、人が住んでる気配は全く感じられない。もし歩いて人に助けを求めるとして、私はここからどれだけ歩けばいいのだろう。
「……分かったわよ」
私は金髪の方へ向かって歩き出した。金髪と一緒に車まで向かって歩いているとき、金髪が後ろを振り返りながら言った。
「それにしても綺麗な景色だよなあ。もし将来年取るまで生きられるのなら、俺はこんなところに住んでみたいよ」
金髪の言葉には諦めというか、無念感というか、そんなものが少し混じってるように思えた。今までで初めて感傷的なことを言ったので、私は少し驚いた。振り返ってみると確かに今までで見たこともないような綺麗な景色だった。
「あんた達だったらありえるわね。今まで見た中でも飛び抜けて能天気だもの、あんた達」
「マジでか。ショックだ」
そう言いながらも金髪はてへへとはにかんだ。
おせえんだよてめえら、いつまで散歩してんだ、手伝う気ゼロかふざけんな、俺もう知らない、お前ら二人とも死んじゃえばいいんだ、と遠くからメガネが叫んでいた。
「晩飯、どうするよ」
金髪がそう言った。
「そうさなあ、なあお前何食いたい?」
メガネは後ろを振り返って私にそう言った。いつのまにか太陽は西の地平線に沈んでいたようで、あたりは真っ暗で車のヘッドライトだけが景色を明らかにしていた。
「それよりも、あんた達臭いんだけど。何日体洗ってないのよ」
私は気だるくそう返事した。車の中は車特有の臭いと金髪の吸うタバコのヤニの臭いの上に汗のすえた臭いが混じっていた。
「お前もだよ、近くに寄ると結構わかる」
「最低。普通女の子にそんなこと言う?」
「お前が言い出したんだろ。何自分だけ棚に上げてるんだ。降りてこい」
「もういいわよ、とにかく私も体洗いたい。どこかで体洗えないの?」
「つったってなあ、今の状況で人前に行くわけにはいかないし」
「私は願ったり叶ったりなんだけど。お風呂にも入れるし、助けてもらえるし、あんた達は捕まって牢屋に入れられるだろうし」
「刑務所かあ。入ったことねえなあ。だが断る!」
話に全く生産性がない。私は呆れて聞こえるように大きくため息をついた。
「あるよ、体洗えるところ」
メガネが急にそんなことを言い出したから私は驚いた。
「つまり水浴びできるくらいいっぱい水があればいいってことだろ?」
「まあ……、そういうことね」
「だったらすぐに行ける。一生分くらいの水を見せてやるよ」
メガネはそう言いながらハンドルを左に切った。
「うおおおおおお!」
「わああああああ!」
駐車するとメガネと金髪は叫びながら走っていった。私は呆れて物も言えずにただぼんやりと二人を眺めていた。
「ぎゃあああああ!」
「いええええええ!」
二人は手前まで走って止まると、両腕を振り上げて叫んだ。
「海だああああああああああああ!」
そう言って二人はTシャツとズボンを脱ぎ捨てると海の中へと入っていった。
私は車のトランクに腰掛けてうなだれるとため息をついた。
分かってる。こいつらにまともな計画を期待した私が馬鹿だった。
「しょっぱい! 何かしょっぱいぞ!」
「塩味が効いてる! シェフを呼べ! 褒めて遣わす!」
夜の海には私たちしかいなくて、明かりのない景色はただ絵の具で真っ黒に何層にもがむしゃらに塗りたくったような暗闇で、その中からあいつらの嬌声が聞こえてくるだけだった。
あいつらは本当に無邪気だな、何も考えずに今まで暮らしてきたんだろう。金髪は中卒だし、メガネも大学入ったものの中退だし。きっと自分というものに対して考えたことがないんだろうな。幸せな奴ら。何も気づかないで生きていければ私もあんなふうに生きられたのかな。気づいてしまった今、もうそっち側には戻れないんだろうけど。
そんなことを考えながら、肘を付いていると、メガネがパンツを絞りながら戻ってきた。
「あれ? お前入らないの?」
そう言いながら肩まで伸びた髪を絞った。磯臭い。
「あんたたちは、ほんと、幸せそうね」
「お前は幸せじゃないのか?」
「私は違うもの。気づいちゃったのよ」
「何に?」
何に?
「まあ、なんというか、人が生きるってことに対してっていうの?」
「どゆこと?」
「生きていくってことがそんなに大事かどうかってことよ。あんたたちだって今は幸せかもしれないけど、そんな時間、すぐに過ぎて行っちゃうじゃない」
「ふんふん」
「今が一番幸せってことは、残りの人生はそれ以下ってことでしょ? だったらそんなの、残ったそのあとの生活はただただ時間を消費しているだけじゃない。そう分かっちゃうと、生きるって気力もなくなってくるわよ」
「……はあ、お前難しいこと考えてるんだなあ」
メガネは首を振って髪の水沫を飛ばしながら言った。
「けどさ、今が一番幸せだとして、その今をずっと続けていけば一生幸せだぜ?」
「は?」
そんなことできるわけないだろう。人生なんてそんなに上手くいかない。そんなことこいつでもわかってるはずだ。いや、ホームレスになったこいつなら余計にわかるはずだろう。とりあえずこいつのドヤ顔がうっとおしい。
「ま、俺はよくわかんないよ。難しいことはさ。あいつは中卒だから俺より馬鹿だけど、俺だって三流の、名前書けば受かるような大学でさえ中退してるんだ。お前よりかは遥かに馬鹿だろうなあ。だから難しいことは考えられない。だから考えない。お前は頭いいからそういうことどんどん考えていけばいいと思うよ。けど折角難しいこと考えてるんだったらもっと幸せになれるんじゃねえの?」
そんな簡単に行くものか。気づいてしまったからこそ、抜けられない穴があることをこいつは知らない。私は無意識のうちに顔をしかめていたようで、メガネはそれを見てごまかすように言った。
「あれ? 俺またなんか馬鹿みたいなこと言ったか?」
「そうね、すごく」
「いやまあ、そっか。けどさ、若いうちはそうやって難しいこといっぱい考えて落ち込むのも幸せだと思うんだよな。俺は馬鹿だからできないから」
メガネは湿ったパンツをパンパンと叩きながら言った。
「若い頃はさ、小さいことを掘り返して自分を不幸だって思っていいと思うんだよ。だって短い人生の中で起こった数少ない不幸なんだから。大事にしていけばいいと俺は思う。けどさ、歳取ったらいちいちそんなもの掘り返してちゃキリないよ」
私は言い返した。
「あんただって、十分に若いじゃない」
「マジか。けどそうだよな。それもそうだ。ま、俺もホームレスの時に色んな人と会ってきたけど、大体俺より幸せそうに行きてる奴は俺より何倍も辛い経験してきてるもんだったよ。その時に知り合った人でさ、ギターを弾くのがすごいうまいホームレスのおっちゃんがいて、ブルースとかロックの曲をアコギですごく上手く弾くんだよ。けどさ、そのおっちゃん事故で顔が半分潰れててさ。眼ん玉なくなってるし、顔も左側が歪んでんの。すぐに医者に行けばまだなんとかマシになったんだろうけど、お金もなくて数ヶ月ずっと痛みに耐えてたらしいんだわ。それで顔が潰れてるからどこも雇ってくれなくて、ギターもすごく上手いのにステージには立てないし。けどそのおっちゃんが酔ったときに叫んだんだよ。『俺はな! 顔がこんなふうに潰れとるけん、誰もが俺から目をそらす! 女も全然寄ってこん! 金もないから風俗にも行けん! 俺は今までの人生で女のまんこの感触を知らん! けどそのおかげで俺は毎日女のまんこについて考える! どんな感触なのか! どれくらいの温度なのか! まだ知らないまんこについて想像できる! 知ってしまったらそれはできん! 俺は幸せだ!』って。俺腹抱えて笑ったよ。そこかよ!って。もっと他に言うとこあるだろ!って」
言いながらメガネは笑いをこらえるようにくの字になってお腹を抱えた。
「おーい、何してんだよ。なんの話、なんの話?」
金髪が私たちの会話を聞いて不思議そうに寄ってきた。
「おまえちゃんと髪染めろよ。プッチンプリンみたいになってるぞ」
「やめて! そういうこと言うの! せめて、ふらの牛乳プリンって言って!」
馬鹿らしい。余りにも馬鹿らしい。馬鹿らしすぎて、私は思わず笑ってしまった。
「ねえ、結束バンド解いてよ、私も海入りたい」
「なんだよ、さっきまでバカにしてたのに」
「折角よ。夜の海に来ることなんてなかなかないんだから。大丈夫、逃げたりしない」
メガネが足のバンドを切ると、私は海に向かって走り始めた。だんだんと足が水の中に入っていって、私を濡らした。水面が腰の高さのところに来たとき、急な段差で私は足を踏み外した。どぼんという空気が水の中に入る音が耳元から聞こえ、つむじの先まで海水の中に潜った。
「おいおい、大丈夫か」
顔を上げると金髪がそう叫ぶのが聞こえた。
「なんかここ段差になってるんだけど! 足踏み外した!」
そう叫ぶとメガネと金髪が笑った。私も思わず笑った。真っ暗な夜の海に三人の声が響いた。
「よいしょっと」
金髪はブレーキを踏んでギアを動かして車を停めた。
「ここであってるはずなんだけどなあ」
メガネがペンライトで地図を取り出してそうつぶやく。
「ねえ、もういいでしょ。ここどこなの。あんた達、私を誘拐して結局どうするつもりなのよ」
私はタオルで髪を拭きながら言った。ヘッドライトで照らした景色からは、ここが何年も使われていない廃工場のように見えた。
「いやあ、それがオレらもわかんねえんだよ」
「は? どういうこと」
「いや、俺たちもお前を誘拐してここまで連れてくりゃ、まとまった金をやるって言われただけで、お前をこれからどうすればいいのかは俺たちは全く知らないんだよ」
なに、じゃあ私がこいつらにどうするかって聞いたときいつもはぐらかされたのは、知らばっくれてたわけじゃなくて、こいつらも本当に知らなかっただけなの。
「あんた達、よくそんなんで誘拐しようなんて思ったわね。っていうか知らないんだったら初めからそう言いなさいよ!」
「いやあ、だってそっちのほうがかっこいいじゃん!」
金髪がそう言いながら後ろを振り返ってムカツク顔でウインクをしながら親指を突き立てた。
その額に赤い斑点のようなものが光っていた。
なにこれ。
そう思った瞬間、金髪の額が割れた。
ぐらりと後ろに倒れる金髪、生ぬるいものが私の顔に張り付いた。頬へと垂れ落ちるそれを拭うと赤く光っていた。鉄の臭いがした。
金髪の体がハンドルに向かって倒れる。ずるずると軟体動物のように重力に沿って体が沈んでいくのが見えた。
「うわ、マジか。俺、人の頭が割れてるの初めて見たわ」
メガネがそう言って笑いながら手に持ったペンライトで金髪の頭を照らした。
そのメガネの側頭部にさっき金髪の額にあった赤い斑点が見えた。
あれってもしかして。
そう言葉にする間もなく、メガネの頭も跳ねた。アルミ製のフレームの眼鏡がフロントガラスに当たってかしゃんと音を立てた。右目のレンズが割れていた。首の上に乗っかった頭はそのまま体ごと引きずるようにハンドブレーキの上へと落ちていった。真っ黒い穴の中から溶岩のような血が流れ出すのが見えた。
黒塗りのハイエースが炎を上げて燃えていた。私は後ろからそれを見ていた。裸足のまま黒いアスファルトの上に立って。足の裏から感じるアスファルトは、昼の熱を溜め込んでいて、まだ少し温かかった。
私の横には黒いモッズスーツを着てサングラスをかけた男が立っていた。気難しい表情をした口元から見える皺からは四十代にも見えたけど、サングラスの隙間から見える目は二十代のものにも見えた。
「お前も大変だったよな、今まで。分かるぜ、俺にも」
ポケットに手を突っ込んでそいつは言った。
「けど安心しろよ、これからの方が大変だ。多分、何倍もな」
ポケットから手を取り出すと、その手の中には煙草が握られていた。銘柄も知らない、コンビニとかじゃ見たこともない煙草だった。
「神乃さん、死体、トラックに乗せました」
後ろから声がかけられて振り返ると、もう一人、今度は明らかに若いと分かる同じスーツ姿の男が立っていた。
「それにしても、気味の悪い死体でしたよ、あいつら。見ました? あいつらの死に顔。頭抜かれて殺されてるっていうのにあいつら……」
そう言いかけた男は私の顔を見て押し黙った。まるで気味がわるいとでも言うように男は顔をしかめた。
煙草から口を離して、気だるそうに真っ白な煙を吐きながら、神乃と呼ばれた男は私の顔を横目で見て言った。
「お前、なんでそんな顔してやがる」
私は男の方に顔を向けて、言った。
「だって私」
炎が私の顔を赤く照らしているのを感じた。
「今が一番幸せだもの」
黒塗りのハイエースが燃える夜の下、三人だけが満面で笑っていた。