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はらり  作者: 瀬ノ木鮎香
1/2

前編


きもちいい………



ふわふわと夢見心地で。

ぼんやりとした頭で私は水の中を漂うような感覚でいた。

身体から心だけが切り離されている感じ。

なににも縛られずただ漂う。


ふわりと足元から一つの球体が現れる。

それはキラキラと虹色に淡く光を放ちながら。

シャボン玉…

それは私の目の高さまで来るとプルンと揺れる。

まるで怯えているみたいに。


おいで


手を差し伸べてみた。

するとまるで意志でもあるみたいにそのシャボン玉は私の手に寄ってきた。


きれい


小さなシャボン玉は私に懐くように手の上で揺れる。

そっとその輪郭を壊さないように撫でてみた。

そっとそっと優しく。

まるで喜ぶみたいにふるふると身体をふるわす。

ふと下に目を移す。

ぼんやりとした中にはっきりと見える情景があった。

大きな車がひしゃげている。

曲がったガードレール。

遠巻きに見守る人だかり。

その中で。

小さな男の事を抱きしめる女の人。

男の子の周りには血が広がっていた。

女の人は激しく泣き叫んで男の子を揺り動かしている。


ああ事故だ、と一目で分かった。

あの女の人はきっとあの男の子のお母さんなんだろう。


プルン、とシャボン玉が揺れる。

還りたいの?

心で問いかければ頷いたような気がした。

「―――じゃあ、行こうか。」

そっとシャボン玉が割れないように両手で守りながら。

私はゆっくりと下に降りた。




「ゆうくん、優っ、目を開けて!!」

両手で抱きあげる血だらけの我が子。

ほんの一瞬の出来事だった。

ほんの少し駆け出した息子の身体に大きなトラックが突っ込んだのだ。

自分の目の前で。

一瞬何が起こったのか分からなくて。

悲鳴なんて出なかった。

小さな身体はいとも簡単に弾かれて。

まるでスローモーションのように地に落ちた。

「―――っ」

ひっと喉の奥がひきつって。

「きゃあああああああっっ」

叫びながら必死にもたつく足で息子の元に駆け寄った。

辿りついた時にはもうすでに彼の周りに血が広がっていた。

「優!!」

必死に呼びかける。

でも反応がない。

心のどこかで声がした。

―――もう駄目だ、と。

「いや、優っ、ゆうくん!」

心に浮かんだ声を否定するように叫んだ。

まだたったの5歳なのに。

まだ何もしてあげていないのに。

「誰か、助けてーーーっっ」

私の命をこの子にあげて。

その為に何でもするからっ

祈りを込めて天を仰いだ。

その先に。

「……てん、し…」

一人の女の子がゆっくりと目の前に降り立った。

ゆっくりゆっくり。

まるで羽根でも生えているみたいに。

けれどその背には何もない。

地に降り立つと、そのまま流れるように膝を折る。

そして…。

「ダメっ」

子供に触れようとした手から。

守るように抱きしめる。

ダメ、連れて逝かないで。

まだ、何もしてない。

「連れて逝かないで!!」

ギッと精一杯睨みつける。

渡さない、絶対に。

けれど、目の前の彼女はきょとんとした眼を向ける。

意味がわからないと言いたげに。

言葉が通じない?

ぎゅっと強く強く抱きしめた。

「連れていくのなら私の魂をあげるからっ、この子は助けて!!」

まだたったの5歳なのっ

楽しいことも嬉しいことも全然足りないのに!!

やっぱり彼女はきょとんとして。

何かを持っているみたいに両手を差し出した。

魂を差し出せというのだろうか?

思わずその両手と彼女とを見比べる。

視線を受けて彼女はゆっくりと微笑んだ。

「さぁ、還って。」

そうしてそのまま子供へとその両手を近づけて。

まるで大事な何かを渡すみたいに子供に触れた。

「っ!!」

連れて逝かれる!!そう思って。

その両手から必死に遠ざけた。

けれど。

「う…」

小さく漏れ出た声が腕の中から聞こえて。

はっとして子供に視線を移す。

「…優?」

苦しそうに眉根を寄せて。

何度か目蓋をふるわせた後、その瞳を見せた。

「―――っ」

弱弱しい、でもしっかりと笑う。

生き返った―――!?

「優っ、優っ」

何度も何度も名前を呼ぶと、優はそっと私の濡れた頬に手を寄せた。

小さくて温かい。

命の通っている手を。

そして。

その手を今度は目の前の少女へと伸ばす。

「…めがみさま?」

「ううん、違うよ。私の名前はね、つむぎっていうの。」

伸ばされた小さな手をしっかりと受けて彼女は名前を告げて。

そのまま意識を失うように倒れた。

その手はしっかりと優と繋いだままで。








「あれ?」

目を覚ました私はまるで知らない天井にきょとんとした。

どこだろう、ここは。

ゆっくりと身体を起こす。

白い天井、白い壁。独特の匂いのするここは…。

「病院?」

「あ、目が覚めました?」

呟くのと同時にドアが開いて一人の女性が入ってくる。

「どこか痛いところは?」

その手に花瓶を抱えて。

活けてある花は柔らかなピンク色の花。

「いえ…大丈夫みたいですけど」

とりあえず自分の身体に意識を向ければどこも何ともない。

でも何故病院なんかにいるのかさっぱり分からなくて首を傾げた。

ベッドの側の椅子に腰かけると彼女はふんわりと微笑んだ。

「そう。それはよかったわ。紬さん、でお名前は合っているのかしら?」

「え、はい…。」

何故私の名前を知っているのだろう?

どう考えても私とこの女性とは初対面だ。

なのに、なぜ?

首をひねる私を女性は不思議に思ったらしい。

「もしかして…覚えていないの?」

その問いかけは、覚えていて当たり前だと言いたげで。

私はますます首をひねる。

それが答えだと彼女には分かったみたいで。

考えるように顎に手を当てる。

同じように私も自分の行動を思い出した。

確か昨日は…。

普通に仕事に行って、特にこれといった特別なこともなく家に帰って。

明日は休みだからいっかと思って。

ビールをかっくらって寝た。

ああ、そう言えばなんかすごくいい気持だった。

まるで空を漂っているような、ふわふわとしたいい気持ち。

で、目を開けたら、ここにいた。

―――あれぇ。おかしな所が見当たらないんですが…。

でも現実はおかしなところだらけだ。

「紬さん?」

「はい…。」

なんだか私は心細くなって

妙に情けない顔になってしまった。

彼女はそんな私をみて安心させるように笑う。

「息子に逢ってくれないかしら?」

「…は?」

「この隣の病室にいるの。あの子はまだちょっと歩けないから。」

「歩けない?」

病室にいる、ってことは入院しているってことだよね。

歩けないって言うのは病気だからってこと?

「そう―――やっぱり憶えていないのね。」

「?」

「もしかしたら何か分かるかもしれないから。」

意味深に微笑んで私の手をとった。




「優?」

隣の病室。

そこのベッドにいたのは小さな男の子だった。

「ママ…?紬ちゃんっ!!」

「へ?」

男の子は私を見つけると嬉しそうに私の名前を呼んだ。

その頭に包帯を巻いて。

手には点滴をしている。

ベッドサイドには機械がピッピッと規則的に音を出している。

これって、結構重症なんじゃないの…?

「優、ほらじっとしてないと。」

男の子は身体を起こそうとする。

「だって…」

ぐずるように顔をしかめると私へと視線を向ける。

その瞳がまるで子犬みたいで。

か、可愛い…。

「紬ちゃん。」

仕方なくベッドに横になって私に向かって手を伸ばした。

思わず私は側に行ってその手をとる。

それだけですっごく嬉しそうに笑った。

見てるこっちまで思わず微笑んでしまう。

「え、っと…優くん?」

確かそう呼ばれていたと思いだして。

「うんっ」

きゅっと手を握る力が強くなった。

「え、と。痛いところはある?」

何と会話していいのか分からなくて。

だってやっぱり私はこの男の子を知らないのだ。

なのに私の名前を知っているし…。

「ううん。紬ちゃんがなおしてくれたから大丈夫!」

「へ…私?」

お医者さんじゃなくて?

「紬ちゃんがぼくをなでてくれたら痛いの消えちゃったの!」

「そ、そう…それは、よかった、というか…。」

ますます混乱するばかりだ。

一体何の事を言っているのか全然わからない。

けれども優くんは迷いのないまっすぐな目を私に向けてくれる。

「さぁ、おしゃべりはここまでにしましょう。紬ちゃんも疲れてしまうでしょう?」

「―――うん。」

布団を掛けなおしながら母親が言うと。

優くんはしぶしぶ頷く。

でもまだ離れたくないというように私の手を離さない。

「紬ちゃん…まだ帰ったりしない?」

「え?」

「ぼく、がんばってげんきになるから。まだお空に帰ったりしないで?」

お空、に?

「うん。優くんが元気になるまでここにいるから大丈夫。」

いろいろ分からないことばっかりだけど。

あまりにも切ない顔をするから思わず頷いてしまった。

「やくそくだよ?」

「約束。」

繋いでいた手を離して小指をからませる。

そうして彼はやっと目を閉じた。

しばらくして寝息が聞こえ始める。

それを確認して、私達はそっと部屋を抜けた。




「何か思い出しましたか?」

「いえ…なにも。」

「そう。」

彼女は優くんの母親で可南子さんて言うらしい。

「あの、何が何だか私には全然わからないんですけど…とりあえずここはどこですか?」

まずは状況把握だ。

あまり考えたくないけど、私夢遊病じゃないよね…!!

「昨日は確かに私自分のアパートに帰って寝たんです。」

「自分の、アパート…?」

可南子さんはきょとんとする。

まるで聞いたことない言葉だと言いたげに。

「え、と。昨日は会社で仕事して…ちょっと買い物して帰って。夕飯食べてお風呂入って…特別なことと言えばビールを飲んだくら…い…?」

昨日の行動を話すうちに、可南子さんの目はますます大きくなる。

え、え…なにその反応?

「会社…?仕事…?ビール…?」

え、何、ここってその言葉通じないの?

「え、っと。会社っていうのは…。」

「学校、じゃなくて?」

「―――は?」

学校?

「だって、紬さん。あなたまだ高校生くらい?でしょう?」

「はぁ!?」

いやいやいや。いくら童顔かな〜と思ってはいてもさすがに高校生には…っ

「ち、違います!!私もうとっくに成人してて…っ」

「だって、どう見ても10代にしか見えないわよ?」

「え…」

なんだか私は不安になって。

部屋の中にある鏡に自分の姿を映した。

瞬間。

「――――っ!?」

驚きに息をのむ。

そこに映っているのは確かに私だ。

私なんだけど、今までの馴染んだ顔立ちじゃない。

確かにこれは10代後半…高校生くらいだ。

思わず自分の頬を両手で挟み込む。

この肌の感触、弾力…。

「う…そぉ〜〜〜っ」

びたっと鏡に張り付くようにして見入る。

あり得ない、あり得ないでしょ。これって若返り!?

「何がどうなって、こうなっているのか、誰か説明してよ〜〜〜!!!」

叫んだけど、聞き届けてくれたのは看護師さんの『静かにしてください』という言葉だけだった…。





「この部屋を使ってね。足りないものがあったら言ってくれれば準備できると思うから。」

「―――はい、すみません。お世話になります。」

私はぺこりと可南子さんに頭を下げる。

可南子さんは気にしないで、と笑って部屋を出る。

「はぁ〜〜〜。」

誰もいなくなった部屋の中で私は盛大に溜息をついてベッドへと座り込んだ。

結局。

怪我でも病気でもない私はそうそうに退院することになるんだけど。

やっぱりというかなんというか。

帰る場所がない。

私が住んでいたアパートはこの世界ではない番地だったし。

実家も不通になっていた。

途方にくれた私に可南子さんは『一緒に住まない?』と提案してくれたのだ。

どこにも寄る辺のなかった私はありがたくその言葉を受けた。

「いったい、どうなっているの〜?」

なにコレ、タイムスリップとかそういうもん?

それにしては突拍子すぎやしないか?

「しかも…天使って…。」

はは、と乾いた笑いしか出ない。


「優が交通事故にあって。もう駄目だと思った時にあなたが空から降りてきたの。」

あれから可南子さんは話してくれた。

「まるで羽根でも生えているみたいにふわりと降りてきて。優を連れていく天使かと思ったの。でも違った。あなたは優を助けてくれたのよ。」

そう言ってその時の事を思い出したのか涙ぐむ。

「あなたが優の魂を運んできてくれたのね…本当に、ありがとう…。」

可南子さんは私に深々と頭を下げた。

対して私は慌てる。

そんなことまるで憶えていない。

お礼を言われることも。頭を下げられることも。

ましてや人の命を救ったことなんて…。

「あなたは命の恩人ですもの。いつまでだってこの家にいていいのよ。」

可南子さんはそう言ってくれる。

この家には今可南子さんと優くんしか住んでいないらしい。

ご主人は単身赴任でいないのだそうだ。

なんでも結構立派な会社に勤めているらしく、私が一人増えた所でそれほど困ることはないらしい。

ご主人にも今回の事故を伝えて私を住まわせることを相談したらしい。

どうやら私が気を失っている間に来て、再び帰って行ったのだそうだ。

「優の命の恩人じゃないか!ぜひうちに来てもらうといい。」

なんて大賛成したらしい、けど。

本当にいいのか?

「っていうか、私いつ帰れるんだろう?」

はぁ〜ともう一度ため息ついた。



「紬ちゃん?」

「ん?なに優くん?」

私は毎日のように優くんの病室に通う。

あれから驚く速さで回復をして、機械も点滴も包帯もすっかりとれた。

予想外の早さにお医者さんも驚いているみたいだけど。

「紬ちゃんがなおしてくれたんだもんね。」

なんて相変わらず全幅の信頼を私に預ける。

後は退院を待つばかり。

「どうしたの?なんだか…え、と…ツカレテいるみたい…?」

なれない言葉を使って私を心配する。

その様子に私は思わず笑ってしまう。

「大丈夫だよ。なんともないから。」

「ほんとう?」

「うん。」

安心させるように強く頷くと優くんはほっとしたように笑う。

優くんは5歳児だ。そしてもうすぐ6歳になるという。

でもとても気がついて気を回す子供だ。

しかも結構可愛い。

これは将来有望だ。

「はやくおうちに帰りたいなぁ。おうちに帰ったら紬ちゃん一緒に寝てくれる?」

きゅるんと窺うように大きな黒目がちの瞳で見上げてくる。

くぅ〜、可愛いなぁ、もう!!

「どうしようかな〜。優くん寝相悪そうだし…」

「!?わるくないよ、ぼくちゃんといい子でねれるよ!」

「でもおねしょとか…」

「し、しないよ!!だいじょうぶだもん!」

「本当かな〜?」

「ほ、ほんとう…だもん。」

どうやらあんまり自信がないらしい。

しゅんと肩を落として俯いてしまう。

「ごめ」

「ちゃんといい子にするから。紬ちゃんのことだいじにするから…ぼくとけっこんしてくれる?」

「は?」

ちょっとからかいすぎたかな、と思ってたら。

なんだかとんでもない方へ話が飛んだ。

「ぼく紬ちゃんとずっといっしょにいたいんだ。パパが言ってた、「おとこならすきなおんなはつかまえておくもんだぞ」って…だから…」

「――――――。」

思わず額を押さえる。

…どんな教育してんだ…。

まだ見たことも会ったこともない父親に説教したくなった。

「あのね、結婚て言うのはね、大人にならないとできないのよ?」

「おとな?」

「優くんが大きくなって、大人になって。それでその時にまだ私の事が好きで大切にしたいと思ったら、もう一度プロポーズして?」

「ぷろぽーず?」

「そうだなぁ…指輪を持って、私に「結婚してください」って言ってくれるだけでいいわ。」

「ゆびわ…。ぷろぽーず…。」

うーん、と優くんは考え込んでしまった。

まぁ実際これくらいの子供は気に入った人は全部「結婚」何だろうな。

結婚というものが何なのか知らない、でもずっと一緒にいる約束みたいな扱いなんだろう。

あ、そう言えば。

私こうしてプロポーズされたの始めてかも。

ううーん、初プロポーズの相手が5歳児かぁ…(苦笑)

「あら、じゃあ私のこと『お義母さん』て呼んでもらおうかしら。」

「―――可南子さん…。」

振り向くと可南子さんが荷物を持って入ってくる。

「優のお嫁さんが紬ちゃんなんて私は大賛成なんだけど?」

「もぉ、からかわないでくださいよ。」

思わず苦笑する。

「年の差がありすぎでしょう?」

「そう?愛の前に年の差なんて関係ないじゃない!!」

しまった…。

可南子さん年の差恋愛に賛成派だった。

「でもいくらなんでも…」

優くんは5歳だ。最低でも18にならないと結婚は認められない。

となるとあと13年かかるわけじゃない。

その頃の私って………考えるの止めよ。

「それとも、もう将来を誓い合った相手でもいるの?」

キラリと可南子さんの目が好奇心に輝いた気がした。

いくら年齢を重ねても、女性っていうのは恋の話が大好きだ。

「いえ…それはいないけど…。」

「気になる人は?お付き合いしている男性は?好みのタイプは?年下なんてどう?」

「か、可南子さん…。」

勢いに思わずたじろぐ。

「紬ちゃん…ぼくのこときらいなの?」

「まさか。大好きよ。」

心配そうに見上げる瞳は大きくてうるうるとしていて。

その可愛さに思わずぎゅっと抱きしめる。

「うん。よかった。」

きゅっと小さな手が私の袖を掴んで。

嬉しそうに屈託なく笑う。

くぅ、かわいいなぁ。

「ぼくも紬ちゃん、だ―いすき。」

まっすぐな好意に。

私は素直に微笑んだ。




それからしばらくして。

優くんは無事に退院した。

予定より随分と早くに退院できたみたいで。

お医者さまも驚異の回復力に首をひねっていた。

「特に後遺症もなくて本当によかったわ。」

優くんと手を繋いで可南子さんは安心したように呟く。

「よかったねー」

「ねー?」

ぶらぶらと手を揺らしながら。

優くんの身体にはまだ包帯が巻かれてはいるけれども。

それも、後2〜3日でとれるだろうし。

さて、こうなってくると。

「―――私はいつ戻れるんだろうなぁ」

はぁと小さくため息をついた。

まだ一向にその気配がない。

もしかして優くんが退院したら、とか思ってたけど、どうやらそれも違うみたい。

「…紬ちゃん、帰っちゃうの?」

私の小さな独り言をすかさず優くんが聞きとめる。

空いていた手を私に伸ばすときゅっと手を握りしめてくる。

心配そうにじっと私を見上げてくるまっすぐな瞳。

「う、うーん…まぁ、いつかはねぇ。」

う…この瞳に弱い。

動物の子供って、可愛いと思うじゃない。

それが小さければ小さいほどなおさらに。

あれって生きていくための防衛手段なんだって聞いたことある。

相手に愛着を持たせて殺されないためなんだって。

だからどんな動物でも子供はかわいい。

もちろん、人でも。

こんな時に実感するのもどうかと思うけど。

なんていうか、この手を振り払えなくなるのよね。

まいったなぁ。

「ねー?」

「??ねー?」

優くんに同意を求めるように言えば、優くんもわからないなりに同じように返してくれる。

これは別れが来た時大変だ。

優くんだけじゃなく、私も。

いつその時が来るのか分からないけど、きっととても悲しい。

―――あまり情を移さないようにしないと。

なんて。

もう手遅れだとは思うんだけどね。




「ゆうくん。げんきになったんだ。」

「あ、ヒロくん。」

ぴんぽーん、とドアチャイムが鳴って。

現れたのは小さな男の子。

優くんとおなじくらいの年かな?

あどけない表情に不釣り合いなものを首から下げている。

カメラ…?しかもプロが使うっぽい立派なヤツ。一眼レフっていうの…?(あまり詳しくないからわからないけど)

「紬ちゃん、紬ちゃん。ヒロくんだよ。」

「つむぎちゃん…?」

きょとんとした大きな目で私を見上げてくる。

私は膝を折ってヒロくんと呼ばれた男の子に目線を合わせた。

「初めまして。ヒロくん、て呼んでいいのかな?」

にっこりと笑顔を浮かべたつもり、なんだけど。

ヒロくんはびっくりして2〜3歩後ずさると優くんの後ろに隠れてしまった。

「紬ちゃんだよ。こわくないよ?ぼくのことたすけてくれためがみさまだよ。」

「めがみさま…?」

「違う違う。」

すぐさま否定。

優くんまだそんな風に思っていたんだ…。

子供は思いこみが激しいからなぁ。

でも優くんは変わらずキラキラした眼で私を見てくる。

それをみたヒロくんも次第にキラキラ…。

「ま、待って…、ほんとうに私違うから…っ」

ヤバい、このままだと私が女神さまだと定着してしまう…っ

「あら、私はあながち外れてもいないと思うけど?」

おやつを御盆に載せた可南子さんが部屋の入口に立っている。

「可南子さんまで…。」

「でも私にはどちらかと言えば天使に見えたんだけど…。」

「てんし…さま?」

「違う違う。ヒロくん、本気にしないで…、可南子さんっ!」

たしなめるつもりで可南子さんの名前を呼ぶ。

くすくすと笑いながらテーブルにジュースとお菓子を並べていく。

オレンジジュース二つと、私には…コーラ。なんでコーラ?

それから可南子さんと一緒に作ったクッキーだ。

「ちがうよ。めがみさま、だよ?」

じっと、優くんは私を見つめる。

その瞳は無垢で真剣だった。

「―――どうして、そう思うの?」

そう言えば聞いたことなかったけど。

「…だって、紬ちゃんがぼくのことよしよしってなでてくれたからいたくなくなったんだもん。」

「え?」

「すごく、すごくいたかったのに。紬ちゃんがこっちにおいでって手を出してくれて。それでぼく、いっしょうけんめい紬ちゃんのとこに飛んでいったの。でもね。ぼくの足うまくうごかなくて、でもいっしょうけんめいお空を飛んで。紬ちゃんがぼくのこといい子いい子ってしてくれたら、ぜんぜんいたくなくなったんだよ?」

にこにこと笑って話してくれる。

「すごいね。紬ちゃん、めがみさまだ。」

「ね?ヒロくんとまえによんだ絵本とおなじでしょ?」

「絵本?」

「うん!!」

そう言って優くんはバタバタと駆けていく。

しばらくしてその手に一冊の絵本を抱えて戻ってきた。

「あら、それ5歳の誕生日にパパからもらったプレゼント?」

「うん、そう!これ!!」

嬉しそうに頷くのを見てから、私はその絵本を開く。

これは優しいタッチの水性の絵の具で描かれた温かい女神様のイラスト。



めがみさまは傷ついている人をそっとなでていきました。

するとどうでしょう。傷がたちどころにふさがっていくのです。

「さぁ、これで大丈夫。」

めがみさまはにっこりとほほ笑みます。

「いつまでも忘れないで。あなた達の優しい心を。」

そう言ってめがみさまは遠いお空へと帰って行きました。




「傷を癒す…?それで女神様?」

「うん。」

なるほど。

「そう…あの時、そんなことがあったの…。」

可南子さんが呟く。

「お空の上で紬ちゃんに会ったの?」

「うん。ふわふわしててきれいだった。」

「ふわふわ、綺麗…?」

なんだか合わない言葉だ。

「ぼくすぐにわかったよ。めがみさまだって。傷をなおしに来てくれたんだって。だからぼくいたくなくなったんだよね!!」

疑うことのない顔で優くんは私にすり寄ってくる。

「紬ちゃん…すごい。」

「………」

キラキラした眼が二人分。

そして。

「そうね。本当に女神様ね。」

優しく目を細める母親が一人。

ああ、もう駄目だ。

この人たち、もう私のこと女神様だって決めつけちゃった。

もうきっと否定しても聴いてもらえない。

はぁ、と私は脱力して。

仕方ないと腹をくくった。

―――もちろん、その後とんでもないことが起こるんだけど。

そんなこと気づかないままで。




「ヒロくんのパパはかめらまんなんだよ。」

「カメラマン?ああ、それでカメラを持っているのね。」

夕食のハンバーグを食べながら。

優くんは一生懸命私に話をしてくれる。

「ヒロくんのパパ、あんまり家にいないんだ。しゅ…しゅざ…りょこ…?」

「もしかして、取材旅行?」

「うん、それ。えと、しゅざい、りょこおにいっててね。今はおうちにいないんだよ。」

「ふーん、そうなんだ。」

「結構有名な方なのよ。でもその分忙しいんでしょうね。あちこちに写真を取りに行ってしまうんですって。ヒロくんのあのカメラ、お父様から誕生日にもらったみたいなの。」

そう言って教えてくれた名前。

うーん、…ん?あれ?何やら聞き憶えがあるような…?

まぁ、有名な方だって言ってたからそのせいか。

でも。そうか、それは寂しいね。

まだ5歳なんて、親に甘えたい盛りだろうに。

ぐっと我慢してるんだろうなぁ。

そう言えば優くんだって。

今この家の父親は単身赴任中だ。

「優くんは…?パパがいなくて寂しくないの?」

こっそり尋ねてみた。

優くんは「ごちそうさまでした」と手を合わせる。

「…でも、紬ちゃんがいるから。」

「え?」

「紬ちゃんがいてくれるから。ぼくもうさびしくないよ?」

「…そっか。」

「うん。」

私はきゅっと優くんを抱きしめて。

「よし、じゃあ今日は紬ちゃんと一緒に寝ようか?」

「え。いいの?」

「ちゃんといい子に寝れる?」

「う、うんっ、ぼくいい子でねれるよ!!」

ぱああと顔を輝かせて喜ぶ。

よしよしと頭を撫でてやるとくすぐったそうに目を細めた。

『もう』寂しくない。

それは今まで寂しかったということ。

私なんかが父親の代わりになれるはずもないけど。

それでもここにいる間くらいは優くんの寂しさを埋められるといいなとそう思った。




私がここにきて、早三ヶ月が過ぎた。

三か月…あっという間なようで長いような、

けれどもやはりというか一向に戻る気配がない。

何かしないといけないのかな。どっかに探しに行くとか?

でも探しに行くとしても何を探せばいいのやら…

心霊スポット?…違うよね、なんか。あっ、パワースポット!?

…やっぱり違う気がする。

はぁ、とため息。

いつまでもここに居候するわけにもいかないしなぁ。

それにしても。

なんでか私の中に焦りが生まれない。

戻りたいな、って思うんだけど。どうしても今すぐに、という気持ちは湧いてこない。

これってどういうことなんだろう?

うーん、と首をひねっていると、隣で優くんが私のまねをしてうーんと首をひねる。

「どうかしたの?紬ちゃん?」

遊びに来ていたヒロくんが私をみてやっぱり首をひねる。

最初は人見知りしていたヒロくんとも仲良しになった。

っていうか、友達が5歳児しかいない私って…っ!!

そうだなぁ、バイトとかしてみようかなぁ。

食費とか生活費とか可南子さんはいいよって言ってくれるけど、いつまでここにいるかわかんないしなぁ。

「紬ちゃん?」

「ああ、ごめん。ちょっと考え事してただけ。」

心配そうに私を見つめる優くんに慌てて笑いかける。

でも、バイトか…いいかもしれない。




「…ってことでバイトしてみようかと思うんですが…。」

ガッッシャーン

「うわっ、可南子さん!?」

可南子さんは手に持っていたお皿を盛大に落とした。

私は慌てて優くんに近づかないように言ってからお皿の片付けに回る。

「そ、そんな…なにか不自由なことでもあるの!?そんな…バイトだなんて…っ」

ふるふるとまるで恐ろしいことだとでも言うように可南子さんは言う。

「は?いえ…不自由とかは…。」

なんだこのリアクションは?

もしかして、私の思っているバイトとこの世界でのバイトってまるで違うものなのか?

「あの、バイトっていうのは、契約社員で働いてお給料をもらうもので…。」

何とかバイトっていうものを説明しようとするんだけど、うわっなんて説明したらいいのかわかんない。

でも可南子さんはどうやら違うことで慄いていたようだった。

「女神様が…バイトだなんて…女神様なのに…バイトだなんて…っ!」

「は?」

「女神様を働かせてしまっていいの…!?そんなこと…はっ、もしかしてここを出ていくつもりがあるってこと!?」

「はぁ?」

「っ!?紬ちゃん、出ていっちゃうの!!??」

「わっ、優くんこっち来ちゃダメっ!危ないからっ!」

「だって」

「危ないっ」

駆け寄ってこようとする優くんの足元には陶器のかけら。

おまけに優くんは裸足でスリッパなんてものは履いていない。

慌てて手を伸ばして抱き上げる、けど。

慌てすぎたみたいでバランスを崩して手をついてしまった。

「っ、いった〜」

「紬ちゃん!!」

運悪く手をついた場所にお皿の欠片があったみたいで、鋭い痛みが掌から起こる。

優くんを安全な場所におろしてからそおっと手をみると。予想通りに血が出ていた。

「紬ちゃん!!ちがでてる!!」

「え!?」

優くんの悲鳴に可南子さんは我に返ると慌てて私の手を覗き込んだ。

そしてそのまま流しへ私を連れていくと水道で血を流してくれる。

「あまり深くはないようだけど…大丈夫?」

「ええ、平気です。」

あらかた傷を流し終えると、可南子さんはてきぱきと傷の処置をしてくれた。

何と、可南子さん、応急処置の心得があるらしく手際がいい。

消毒をして、ガーゼを当てて包帯を巻く。

あっという間に終了。

「ごめんなさい。私がお皿を落としたりしたから…。」

「いえ…気にしないでください。」

「…紬、ちゃん…」

「優くん?」

か細い声に振り向くと優くんが俯いたままぎゅっと服を握りしめている。

「ご、ごめんなさ…ぼ、ぼくが、うごいたから…」

「ちがうよ、優くんの所為じゃ…。」

「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!!」

必死になって謝り続けるその小さな姿が。

なんだかとても痛々しくて。

私は優くんの側に行くとそっと抱きしめた。

「大丈夫。もう平気。」

「で…でも…っ」

必死に涙をこらえようとしているのか、声が上ずっている。

「じゃあ優くんがよしよしって撫でてくれる?」

「…え?」

涙をためた大きな目が私を見上げる。

その前に私は手を差し出した。

包帯を巻いたばかりの手に。優くんはまるで自分が痛いみたいに顔をしかめる。

「優くんがなでてくれたら、きっと痛くなくなると思うんだ。」

「…で、でも、ぼく…めがみさまじゃないから…」

「女神様じゃなくても。優くんがそうしてくれたら私は痛くなくなるの。」

「―――ほんとう?」

「うん。お願い。」

そう言ってもう一度促せば。

優くんは恐る恐る手を持ち上げて、こわごわと私の包帯に触れる。

チョンと指先で触れて、私の顔を見て、私が痛がっていないことを確認して。

そおっとそおっと小さな指を滑らせていく。

「…いたくない?」

「もう少し撫でてくれたら痛くなくなるかな。」

そう言うと何度も何度も撫でてくれた。

「いたいの、いたいのとんでけ…。」

口で呟きながら。

「うん、もう痛くなくなった。」

「いたく、ない?」

「うん。痛くない。だから大丈夫。」

そう言ってにっこりと微笑むと。

我慢の限界に達したのか優くんが声をあげて泣き出した。

「紬ちゃ…ごめ、なさ…っ」

「びっくりさせちゃったね。怖かったね。でも大丈夫だよ。優くんがなでてくれたからね。」

ぎゅっと抱きしめて頭を撫でる。

「ごめ…っぼくの、こと…」

「ん?」

「きらいにならないでぇ…っ」

「うん。大好きだよ。」

ぎゅうっとしがみついてくる小さな身体を同じように抱きしめ返して。

何度も何度も背中を撫でてあやして。

ようやく静かになる頃には泣き疲れて優くんは眠っていた。

それでも、私の服を掴んだまま離さずに。

そして私も。

その頭をずっと撫でていた。




「紬ちゃん、ぼくがもつ!!」

「え?優くんが?」

一緒にお買いもの。

私が荷物を受け取ると優くんが小さな両手を私に差し出す。

「優くんじゃちょっと重すぎるかな。」

「だいじょうぶだもん、ぼくがもつ!!」

でもお醤油だよ?キャベツとかも丸ごとはいってるよ?

私でも、ちょっと重いなって思っちゃうんだよ?

って躊躇する私に、けれど優くんは引かなかった。

両手を差し出してキリリと眉を吊り上げている。

あ〜これはダメだな。

優くんはその名の通り優しいんだけど、意外と頑固だ。

私は対応策を考える。

子供にもプライドがある。それを崩さないようにするには…

「じゃあ。これ持ってくれる?」

私は袋の中から大きなキャベツを取りだした。

それを袋に分けて優くんに渡す。

「これだけ?」

明らかに不満顔だ。

「それが一番重いの。優くんには無理かな?」

「むりじゃないもん、もてるよ!!」

そう言って両手にぎゅっと袋を持つ。

「ありがとう、助かっちゃった。うん、軽くなった。」

そう言って私は買い物袋を持ち上げて見せる。

「ほんとう?ぼく、紬ちゃんのやくにたってる?」

「うん。とーっても。」

私がそう言うと、へへっと誇らしげに笑う。

私が小さな切り傷を負ってからというもの。

優くんは私の周りから離れなくなって、何かにつけて私の手伝いを申し出るようになった。

物を持つのはもちろん、髪をとかしてくれたり、みかんを剥いてくれたり。

すっかり傷も癒えて後は小さな線となってしまっても。

「ぼくがやる」と言ってはしきりに私を助けようとする。

そんなに罪悪感を感じなくてもいいんだけどなぁ。

んしょ、んしょと言いながらキャベツの入った袋を運ぶ優くん。

結局私のバイトの話は流れてしまって、またあらためて優くんのいない所で可南子さんに話そうと思っているんだけど。

優くんがひっついて離れない。


「でも、もう大丈夫なのになぁ」

「罪悪感だけじゃないのかも。」

可南子さんのお手伝いをする私に。

「紬ちゃんに嫌われたくないんじゃない?」

「嫌う?」

優くんが一生懸命運んでくれたキャベツを切りながら私は首をかしげる。

優くんはさすがに疲れてお昼寝中だ。

「自分の所為で怪我をさせちゃったから嫌われると思っているのかもしれないわよ。」

「別に優くんの所為じゃないと思うんだけど。」

「でも優はそう思っていないんでしょ?だから少しでも紬ちゃんのお手伝いをして汚名返上しようとしているんじゃない?」

「汚名返上って…。」

苦笑する。

でもそうなのかな。

「紬ちゃんのやくにたってる?」って言った優くんの言葉を思い出す。

やっぱりそう言うことなんだろうか。

「でも、どうしたら優くんは汚名返上できたって思ってくれるのかな。」

どんなに私が大丈夫と言っても、小さくなった傷を見せても。

優くんは変わらなかった。

「さぁそれは…とにかく気の済むようにさせてあげたら?」

「うーん。そうするしかないか…。」

そしてその後。

「もとはと言えばお皿を落とした私が悪いのよね。」

ず―んと落ち込み始める可南子さんを取りなすのに苦労してしまった。




「優くん?」

優くんがじっと私の掌を見つめている。

それは先日怪我をした私の手。

今はもう何の痕も残っていない。

「紬ちゃん、痛くない?」

「もう全然痛くないよ。傷ないでしょう?」

それなのに、優くんはそおっとそおっと撫でてくれる。

まるで痛みを癒すように。

「―――ぼくのこと、おこってない?」

「怒ってないよ。大好きなままだよ?」

「―――どこにも行ったりしない?」

「ここにいるよ。」

「―――お空にかえったりしない?」

「それは…。」

思わず返答に詰まってしまった。

お空に帰るということは、私が元にいた世界に戻るということだ。

さすがにそれは安易に約束できない。

私自身ですらそれがいつになるのか分からないからだ。

「―――。」

そんな私をじっと見つめて優くんは返答を待つ。

こんな時、子供ってごまかせないと思ってしまう。

大人相手ならなんとでも口先だけでかわしてしまうけど。

子供だから、逆に誤魔化すことができない。

目の前に座る小さな身体を持ち上げると、私の膝の上に乗せる。

こうすると視線の高さが同じだ。その黒目がちの瞳をまっすぐに見つめて話す。

「それは…わからない。」

「っ、ぼくがわるいこだから…っ?」

「ちがうよ、そうじゃなくて…私のお家はここにはないから。」

「?」

「私の本当のお家はここじゃない所にあるから、いつか帰らなくちゃいけないの。」

理解できるように言葉を慎重に選んで。

「いつかって、いつ?」

「それは、私にもわからないな。でも、ここにいる間はずっと優くんの側にいるよ。」

よしよしと頭を撫でてもなかなか優くんの表情は晴れない。

困ったなぁ、と思っていると可南子さんが側に来た。

「こら、優。紬ちゃんを困らせちゃダメでしょう?『男の訓示その3。男なら』?」

そう言うと優くんははっと顔を上げる。

「『おとこならほれたおんなのえがおをまもってなんぼ!!』」

………はぁ?

「そうでしょ?紬ちゃんを笑顔にしてあげることが大切じゃないのかしら?」

「うん。」

力いっぱいうなづいて優くんは私をみた。

「ぼく、がんばって紬ちゃんのえがおをまもるからね!!」

「………うん、ありがと」

可南子さんは満足げにうんうんと頷いている。

―――――――――早くここのご主人に逢って教育方針を聞きたいものだわ。

そう心から思った。





そして事件は起こった。


「紬ちゃん!!たすけて!!」

夕ご飯を食べている最中に突然の来訪者。

転がるように玄関を開けたのはヒロくんだった。

「ヒロくん?どうしたの?」

はぁはぁと肩で息を切らせて。

立ってられないとその場に膝をつく。

慌てて駆け寄った私の服の袖をぎゅっと強く握りしめて。

まっすぐに私を見上げた。

「たすけて…っパパが…っお願い紬ちゃん!!」

ぎゅうぎゅうと私に縋りついて。けれども私はヒロくんの言わんとすることが理解できない。

「落ち着いて。ね?パパがどうかしたの?」

震えるその小さな背中を撫でて私はどうにかヒロくんを落ち着かせようとした。

「早く…っパパが…っパパが…!」

「紬ちゃん!来て!!」

リビングの方から可南子さんの焦った悲鳴が聞こえた。

え、なに、何が起こっているの?

私はヒロくんを抱き上げると、慌てて可南子さんの所に行く。

「可南子さん、どうしたんですか!?」

「これ…見て」

青ざめた顔で示されるのはテレビのニュース。

『……遭難したと思われるのはカメラマンの…』

「!?」

ひゅっと息をのむ。

テレビに映し出されるのは、吹雪いている雪の山。

白くけぶる画面、その周囲を旋回するように画面が変わる、多分ヘリコプターかなんかだろう。

『今だ行方がつかめず吹雪もますますひどくなり捜査は難航しています。』

現地のレポーターは淡々と状況について話す。

午前は晴れていた山の天気が突如として吹雪に変わり、また温かい日差しでゆるくなった雪が各所で小さな雪崩を起こしていると。

写真を取りに山に入った男性が一人。連絡が取れずにいるということ。

それがどうやらヒロくんのお父さんらしいということ。

「紬ちゃん!おねがい、パパを助けて!!」

呆然とテレビに見入った私の腕の中でヒロくんが声を上げた。

「ゆきが降ってきたって言ってた!もう帰るからって言ってたの!!でもそしたら電話切れちゃって…っ」

「ヒロくんパパと電話してたの?」

「うん…でも途中でなんかごごって音がして、パパが「ヒロっ」って言って電話が切れちゃったんだ」

それを聞いたとたん、私の頭にあり得ない映像が流れた。

登山家のように重装備で胸には大きなカメラ。

ふと空を見上げると先ほどまで明るかった空がすごい勢いで曇りだした。

何度も山に登った経験のある彼は、すぐに吹雪くと判断し、帰り支度を始めた。

その手にふと携帯電話が映る。

こうした取材旅行の時には必ず帰る前に連絡をしていたのだ。

手を休めないようにしながら片手で携帯を操る。

出たのは妻、それから息子。

今から帰ると報告して。

電話に集中していた彼は気付くのが遅かった。

ゴゴゴッという地鳴りに振り向いた時にはすでに目前まで雪の波が迫っていて。

避けることも避けることもできないままにその波に飲み込まれる。

「ヒロ…っ」

瞬間に叫んだのは息子の名前。


「紬ちゃん?」

はっと意識を戻した私の眼に映ったのは心配そうに私を見上げる優くんだった。

気づけば私は床に膝をついて座り込んでいたらしい。

心配そうに私を見つめる可南子さんと目があう。

今のは…

「ヒロくん…。」

もしあれが、ヒロくんのお父さんというなら。

じっとヒロくんを見つめる。

ヒロくんは私を不安そうに見上げる。

「―――私には、何もできない」

「っ、どうして!?」

「だって…」

言いかけて。

再び映像が頭に走る。

真っ暗な空。

白いものが目の前を勢いよく舞い散っている。

足元に目を移せばわずかに白く光を放つ大地。

その中に。

一人の男性が埋もれているのが見えた。

半身を雪に捕らえられてぐったりと雪に身体を預け。

その顔は周りの雪よりも白く一目で生気がないと感じられた。

目を閉じて投げ出されたその手に何かをしっかりと握っている。

あれは…

ふと周りをみると、ちらちらと人工の光が木々の合間から見える。

捜索隊だ。

空からの捜索は無理と判断し、足を使って山を探しているんだろう。

けれど吹雪と闇でここが見つけられないでいるようだ。

それなら…

「ヒロくん。携帯持ってる?」

捜索隊が引き返してしまう前に。

少しでも早く。

ヒロくんは弾かれたようにズボンのポケットから携帯を出した。

「お父さんの番号わかるよね?今からかけてみて。」

もしかしたら雪で携帯が壊れてしまっているかもしれないけど。

一か八か。

ヒロくんは私が言ったようにすぐに電話をかけ始めた。

そこから呼び出し音が鳴るのを確認して、私は目を閉じる。

意識を集中して頭に映像を浮かべる。

それはすぐに映し出された。

彼の手の中の携帯電話が光り出し、音を上げ出した。

良かった、なんとか機能はしているようだ。

静かな闇の中に不自然な光と響く電子音。

雪にかき消されることなくそれは音を上げる。

彼の居場所を知らせるように。

ヒロくんの代わりに必死に叫んでいた。

見つけて、お願い、早く!!

私は祈る気持ちで両手を組む。

しばらくすればそれは留守番電話に切り替わってしまって音が止んでしまう。

捜索隊はまだ気付かない。

私はヒロくんに何度でも掛けるように伝えた。

再び鳴り響く音。

お願いお願い、お願いどうか…っ


雪、止んで。

月、彼を照らして。

風、彼の音を運んで。

山、彼の元に彼らを導いて。


ここにいるの。見つけて。


お願い彼をこんな所で一人ぼっちにさせないで。

早く彼の家族の元に返してあげて。

待っている人がいるの。心配で泣く人たちがいるの。

命を奪ったのだから。

その身体を返してくれてもいいでしょう?


「…雪が、止んだ?あんなに吹雪いていたのに?」

「月が出だしたぞ。何だ、光が?」

「おい、何か音が聞こえないか?」

「なんだ?道が…」


そうそのまま。

導かれて。進んで。

そう。見つけてあげて。

ここにいるの。待っているの。

―――早く、帰ってきて。




「…ヒロくん。」

目を開ける。

私の目の前には必死に携帯を鳴らし続けるヒロくん。

私はその手をぎゅっと握りしめる。

「お家に、帰ろう。」

「でも…っ」

「お母さんを一人にしてきちゃったんでしょう?きっと心配してるよ。」

そう言うとヒロくんは僅かに目を下げる。

「―――お父さんを、迎えに行かなきゃ。」

「パパ!?」

勢いよく上げた瞳はキラキラと期待に輝いていた。

「パパもどってくるの!?紬ちゃんが助けてくれたの!?」

喜色満面で私をみる。

私はその目を直視することなんてできなかった。

そっと目を外すと、その先で優くんが心配そうな顔のままで私の腕を掴んでいる。

「紬ちゃん」

大丈夫?とその瞳が心配する。

私は目を閉じた。

ヒロくんのお父さんはじきに帰ってくる。

でも、その身体はもう動くことはない。

目も開けない、口も開かない。

大切な人達の名前を呼ぶことはもうない。

何よりその身体は雪のように冷たくなっている。

それをこんな小さな子供が受け止めきれるんだろうか?

まだまだ5歳なのに。

親に甘えたい盛りなのに。

きっと父親だって。

もっと子供と一緒に居たいだろうに。

こんなかわいい子供を置いて逝くなんて不本意でしかないのに。

ぎゅっとヒロくんを抱きしめる。

「紬ちゃん…?」

私の行動に不安を感じたのか、ヒロくんの声が揺れる。

私は何も言えない。

ただただ小さな身体をぎゅっと抱きしめる。

どうかこの子が。

これから起こる悲劇に立ち向かい乗り越えられますように。

そう願うしか…。




私と優くんとでヒロくんをお家に送って行った。

「ヒロっ!?あなたいったいどこに…っ」

玄関を開けたヒロくんのお母さんは心配で憔悴しきっていた。

「だまって出て行ったりしてごめんなさい。」

しゅんと謝るヒロくんの身体をぎゅっと抱きしめる。

その背後で。

電話が鳴った。

びくり、と大きくヒロくんのお母さんの背中が揺れる。

電話の音なんてどれも変わらないものであるはずなのに。

私にはそれがまるで悲鳴に聞こえた。

きっと彼女も何か予感があったんだろう。

きゅっと唇を引いて、立ち上がる。

そしてそのまま奥に消えていく。

私はヒロくんに手をひかれて、そのままお邪魔した。

「…はい、そうですか…。そう、ですか…っ」

「ママ?」

受話器を耳に押し当てて私達に背を向けるようにして受け答えをしている。

凛と伸ばしたその背中が僅かに震えていて。

声に涙が混じっていた。

ああ、帰ってくるんだ。

ヒロくんは不安そうに彼女の横に立って母親を見上げている。

チン、と小さく音を鳴らしながら受話器を置いて。

「〜〜〜〜〜〜っ」

崩れるように膝を落として。

ヒロくんをきつくきつく抱きしめる。

「ママ…?」

「―――パパに…、会いに、行こう?」

「っ!パパが帰ってくるの!?」

「………うん、還って、来るのよ」

待ちに待った父親に会えるというのに。

ヒロくんは戸惑うような表情を隠せない。

当たり前だ。母親が泣いているのだから。

しかもそれは深い深い悲しみと絶望が交錯した慟哭で。

分からなくても感じているはずだ。

その視線が私に向けられる。

「っ」

私は息をのんで、目を逸らした。

まっすぐな視線を受け止められない。

私の胸にあるのは無力感と悲しみと怒り。

無心に助けを求められても何もできない無力感。

この先彼らを襲う悲しみ。

そして…。

「かえろ?紬ちゃん」

くいっと優くんが私の袖を引く。

「おうちにかえろ?ね、紬ちゃん」

その声は私をとても気遣っていて。

「―――うん、そうだね。」

ここにいた所で私は何もできない。

声をかけることも慰めることも。

いても意味がない。

もう一度ヒロくんに視線を戻して。

ヒロくんは不安の中にも何か悟っているのだろう。

小さな両手を伸ばして母親を抱きしめていた。

そして私達は何も言わずにそのまま帰途についた。




「どうして…っ!!」

もやもやとした気持ちのままに叫ぶ。

「私に何かできるわけないじゃない…!!ムリに決まってる!!」

あれからヒロくんのお父さんは私が『見た』通りに発見されて。

テレビで泣き崩れるヒロくんのお母さんと、取り囲む報道陣に怯えてぎゅっと母親のスカートを握りしめるヒロくんが映っていた。

その唇が。

『紬ちゃん…。』

そう呟いたのをみた。

私は居たたまれなくて。

もうすっかり夜になっているのもかまわずに家を飛び出した。

「できるわけない!!私にはなにもできないんだから!!」

闇くみもに走って。

誰もいない闇に向かって私は誰に言うでもなく弁解していた。

「なんでこんな所にいるの!?元の世界に返してよぉ!!」

空に向かって叫ぶ。

曇っているのか空には星も月もない。

どんよりとした灰色だけが広がる。

「どうしろって言うの!何ができるっていうの!!」

だって私は普通の人間だ。

優くんが言うような女神様じゃない。

人の命を救えるだなんて、そんなこと。

「……できるはず、ないじゃない―――っ。」

助けられるものなら、助けたかった。

まだたったの5歳なのに。

きっと彼だって家に帰ることを望んでいたはずなのに。

『見えた』だけで。もしかしたらそれすらもすごいことなんだけど。

結局助けられないなら、『見えた』って同じだ。

「いやだ、いやだ…いやだ―――………キライ」

口から出るのは嫌悪の言葉。

こんな自分は嫌い。

何もできない自分は嫌い。

こんな私、

「―――消えちゃえばいいのにっ」

「ダメっ!!」

零れた言葉に強い否定が入った。

はっと声のした方をみると、優くんがいる。

「優、くん…?」

「ダメ、きえちゃいやだ!」

もう一度叫んで、私に向かって走り込む。

「やだ、紬ちゃん!いっちゃ、やだ!!」

ぎゅうっと力任せに抱きつく。

その身体は熱くって。

息も弾ませていて。

「優くん…どうして…?」

月もない星もない闇の中。

私は闇雲に走って、しかも全速力だ。

5歳の男の子がやすやすと追いつくとは思えない。

それなら、探し回ったということなのだろうか。

この夜の中を?

小さな子供が?

私を、探して…?

「紬ちゃんっ!!やだよ、やだやだ!!」

はぁはぁと肩で息をしながら必死に私を見上げる。

「きえちゃやだ!!ぼくが、まもるから!!」

「え…」

「紬ちゃんが泣かないでもいいように、ぼくががんばるから!!」

小さな両手を必死に伸ばして。

私は思わず膝を折る。

「いっしょうけんめい、まもるからっ。どこにもいかないで…!」

背伸びをするように両手を伸ばして、私の頭を抱きしめる。

子供の身体で大きな身体の私を。

何からも守るように。

小さな胸から響くのは子供特有の早い心音。

それから、高い体温…?

高い…違う、熱い。

「優くん!?」

慌てて優くんの額に手を当てる。

「熱…」

そこは異常なほど熱くって。

認めた途端ふらっと優くんの身体が傾いだ。

「優っ!!」

慌てて抱きとめる。

私の腕の中でぐったりとして荒い息を吐き続ける優くんはすでに意識がないようだ。

「やだ…優くん!しっかりして!!」

優くんを抱き上げるとすぐに走りだす。

子供と言っても5歳児だ。

結構重くて何度も足が止まりそうになる。

でも止めることなんてできずに私は必死に走った。

「紬ちゃ…」

うわ言のように呟くのは私の名前。

朦朧とする意識の中で私の服を掴んで離さない。

「大丈夫。すぐに治るから。どこにも行かないから。そばにいるからね。」

答える言葉はまるで自分に言い聞かせるようで。

私は必死に祈る。

助けて。お願い、誰か。

助けて…っ!!





走って帰った私達を出迎えた可南子さんはすぐに救急車に連絡して。

搬送された病院で『肺炎』の診断を受けた。

明かりに照らされて初めて気づく。

優くんは傷だらけだった。

きっと暗闇の中を走って何度も転んだんだろう。

小さな膝小僧は擦り傷だらけで血が滲んで痛々しかった。

それなのに、私を探して走り続けて。

こうして肺を傷めてしまった。

「紬ちゃんが急に出て行ってしまって。すぐに優が追いかけて行ったの。」

可南子さんが止めるのも聞かずに。

『紬ちゃんがないてる!ぼく、いかなきゃ!!』

そう言って可南子さんの手を振り払ったらしい。

「―――どうして」

眠る優くんの顔を見つめる。

腕に点滴がなされて、熱に頬を赤く染めて。

「どうして、そんなに…」

なんて言っていいのか分からなかった。

優くんが私を大好きだっていうのはわかる。

子供の世界は好きと嫌いしかないのだ。

でも優くんの私に対する『好き』は。

子供が抱えるにしては随分と、重い。


「―――きっと、運命の人なのね。」


可南子さんは私を責めたりしない。

小さな頭をそっと撫でながら母親の顔で私を見る。

意識のない優くんをみて顔を真っ蒼にして、それでも冷静に救急車を呼んだ。

私の所為なのに。

私が何も考えずに飛び出したから。

ちょっと考えれば優くんが私の後を追うなんてことわかったはずなのに。

あの時私は自己嫌悪でいっぱいで。

他を考える余裕なんてなかった。

その結果が、これだ。

「優にとっての紬ちゃんは『運命の人』なのよ。」

「運命の、人…?」

私を見つめるその瞳にも欠片として責める色はない。

ただ優しい眼差しで私をみる。

それは優くんにとても似ていて、ああ親子だ、なんてぼんやりと思ってしまった。

「人にはね、たった一人必ず出逢う運命の人がいるのよ。年齢も性別も何も関係ないたった一人の運命の人。」

まるで恋を語るように可南子さんは言った。

「出逢い方はそれぞれ。街中でただすれ違うだけかもしれない、言葉を交わすかもしれない、友達になるかもしれない。恋人や家族になるかもしれない。けれども必ず出逢う運命にある人。」

「運命の、人…」

私が、優くんの?

「だから優は紬ちゃんを追いかけずにはいられないし、好きにならずにはいられないのよね。」

「……そんなの」

分かるわけない、そう言おうとして口をつぐんで。

「…じゃあ私の運命の人も優くんってことになるんですか?」

「さぁ?それは私じゃなくて紬ちゃんにしか分からないと思うわよ。」

「え…だって」

「運命の人の相手が、自分だとは決して限らないものなのよ。」

ただ一人の運命の相手。

必ず出逢うという人。

出逢わずにはいられない人。

そして出逢ってしまったなら愛さずにはいられない人。

「だから私は優があなたを追いかけていくのなら止められないと思っているの。」

可南子さんが私の頭を撫でる。

「紬ちゃんは優の魂を私の元に戻してくれたもの。誰がなんといおうとそれは事実だから。…だから紬ちゃんも自分を責めなくていいのよ?」

「…可南子さん…。」

「私にとっても紬ちゃんは大事な人だから。」

運命の人じゃなくてもね。

そう軽口にして言って。

母親の優しさと温かさで私を包む。

「どうして、私…この世界に来たのかなぁ…」

溢れる涙と震える声で呟けば。

可南子さんは当たり前のように言った。

「もちろん優に逢う為でしょう?」



優くんに出逢う為、と可南子さんは言った。

本当にそうなのかなぁ?

「紬ちゃん?どうしたの?」

うーんと唸っていると、優くんが眉をしかめながら私の服を引っ張る。

驚異的な回復力で優くんはあっという間に元気になった。

なんか、あの事故以来妙に回復力がいいらしい。

「だって紬ちゃんが側にいるから当たり前よね。」

相変わらず可南子さんは私を女神様扱いだ。

私は苦笑するしかない。

違うっていくら否定しても、聞き入れるつもりがないのだ、この人は。

私を見上げる優くん。

その視線に合わせるように膝を折って座った。

今私と優くんの視線の高さは同じ。ん?

「あれ?優くん、大きくなった?」

確か前はこうして膝を折ってもまだ私の方が高かったのに。

今こうして合わせれば私と優くんの視線がぴったり重なる。

うわぁ、子供の成長が早いって知っていたけど、これ程とは…。

驚いている私に、可南子さんは優くんを手招きすると柱に立たせる。

そこに刻まれているのは優くんの成長の記録。

「あらほんと。5cm大きくなったみたいね。」

「ほんと!?ぼく大きくなったの!?」

キラキラと瞳を輝かせると、ハッと何かを思いついたのか走って部屋を出ていく。

「?」

優くんの突然の行動に私と可南子さんは目を見合わせて首を傾げる。

数分もたたないうちにだだだ…っと走ってくる音。

優くんは私の元へと再び戻ってきた。

そして両手をぎゅっと握ると。

「ぼくとケッコンしてください!!」

「……は?」

そう言ってぎゅっと握った右手を差し出した。

反射的に私は手で受け皿をつくる。

緩められた小さな手。ぽとりと私の手に落ちたのは指輪。

キラキラのピンクの石がついたおもちゃの指輪。

「指輪…?」

「紬ちゃんいったよね?大きくなったらって。ぼく大きくなったよ、ケッコンしてくれるよね!!」

「―――あ〜。それはね…」

思わず目を逸らす。

しまった、そう来るか。

あらあらと可南子さんは面白そうにことの成行きを見守っている。

「あのね、優くんそれはね。」

さて、どう説明したもんかな。

「…紬ちゃん、ぼくとケッコンしてくれないの…?」

言葉にあぐねているとうりゅと大きな瞳が揺れ始めた。

さて、どうしたものか。

ここで法律が…とか言っても伝わらないし、誤魔化されてもくれないよなぁ。

ん?ということは私自身は優くんと結婚してもいいって思ってるってことか?

―――――――――…あれ、嫌じゃないぞ。

そりゃ勿論このままでは困るけど。

「優くんが大人になって。私の背よりもうんと大きくなって。それでもまだ私を好きでいてくれるなら、結婚、しようか。」

真剣に見つめる優くんに、私は静かに返す。

「いまは、だめなの?」

「うん。今はまだダメ。」

優くんは探るように私を見つめる。

ただの口先だけのものじゃないのか、子供だからと誤魔化そうとしていないか。

ひたすら私の中の本気を探る。

そして。

「うん。わかった。」

コクリと優くんは頷く。

それから小さな小指をピッと立たせると私へと差し出す。

「ゆびきりして。おおきくなったらぼくとケッコンしてくれるって、やくそく。」

「―――約束。」

小さな指を私の小指に必死にからませて。

「ゆびきりげんまん、ウソついたら…」

ありきたりなまじない歌を口に乗せて。

でも途中でピタリと止めた。

「優くん?」

「ウソ…つかないよね。紬ちゃん。」

「え?」

「紬ちゃんはウソつかないから。『ウソついたら』なんていらないよね?」

守ることが当たり前だから。もしもなんて存在しないから。

たとえ遊びでも口にすることはしないと。優くんは言うのだ。

「―――…うん。いらないね。」

頷いたら。

優くんはこれ以上ないほど満面の笑みを浮かべた。

「―――……可南子さん?」

「なぁに、紬ちゃん?」

「どうやって育てたらこんなかわいい子供が育つのか是非教えてください。」

今後の為に!!

限りなく真剣に可南子さんに聞いたら。

「うふふ、企業秘密。」

悪戯っ子のような笑顔で返されてしまった…。




それはある日突然だった。

こういうのを天啓っていうのかな。

晴れた空を見上げて。ああ今日も空が青いなぁなんて思ってみあげていたら。

ピキーン、と頭の中に光が突き抜けた。

「………ああ、そうか。」

それは不思議と納得できるもので。呟いた途端寂しさが訪れる。

ああ、そうか。そんな時間なんだ。

「ねぇ、優くん。」

「なぁに?紬ちゃん。」

横で同じように眩しそうに空を見上げた優くんが私に屈託のない笑顔を向ける。

「明日、お出かけしようか。ヒロくんも誘って。」

ヒロくんとはあれから会っていない。

何となく会い辛くって避けてしまっていた。

子供特有の無垢な瞳で責められるのが怖かったから。

あの事故は決して私のせいではない。

でも小さなヒロくんが助けを求めたのは私で。

どんなに真実を告げた所で、彼は納得できないだろう。

助けられなかった。それだけが彼の真実だから。

でも私は逃げちゃいけない。

ヒロくんが私に向けるのは、きっと哀しみだ。

それを私は受け止めなくてはいけない。そう思う。

どんなに、辛くても。

「……ヒロくんも?」

優くんは心配そうに私を見る。

子供らしい純真さで、優くんは私がヒロくんを怖がっているのを気付いている。

だから心配しているのだ。私がまた泣かないか、と。

「うん。ヒロくんも。」

にっこりと笑って私は頷く。大丈夫だよ、と。

優くんはしばらく私の眼を見つめて。

その中に怯えや悲しみがないのを悟ると、嬉しそうに頷いた。

「うんっ、僕楽しみ!!」

「いっぱい遊ぼうね。」

小指を差し出すと私よりも随分小さな指が絡まれる。

「約束。」

「うん、約束。」

お弁当をもって、たくさん笑って。

楽しい思い出にしよう。

ずっと、忘れられないくらいの…。



「うわぁ…。」

一面に広がる草原に思わず感嘆の声を上げる。

街からちょっと足を伸ばしただけの公園。

そこは少し小高い丘になっていて、今日はそこに優くんとヒロくんを連れてピクニックに来た。

公園があることは知っていたけどまさかこんな景色が広がっているとは思わなかった。

「僕ここ大好き。きもちいいよね。」

にこぉと頬を赤く高揚させて優くんは笑う。

いくら丘と言っても、小さな子供の足には立派な登山だ。

優くんもヒロくんも息を弾ませている。

「よし、ここでお弁当にしようか。」

ピクニックシートを出して草の上に広げる。

風が吹き抜けるたびに薫るのは青草の匂い。

「はいオシボリ。二人とも手をしっかりふくのよ。」

「はーい。」

元気に返事を返すのは優くん。

ヒロくんはまだ戸惑ったように下を向いたまま。

その首にはいつものカメラ。

今日会ってから、ヒロくんはまだ私と目を合わせようとしない。

それでも拒否することなく、今日この日について来てくれた。

差し出した手を戸惑いながらも繋いでくれた。

ヒロくんはヒロくんなりに、葛藤し決着をつけようとしている。

小さな身体の中の小さな心で。

私の事を嫌って憎んでしまえば簡単なのに。

それをしないということは、それなりに好かれていたということか。

「ヒロくん。」

呼びかければ、びくりと小さな肩を震わせる。

「見て。あそこ。」

私は手を伸ばす。

指で指し示すのは遠くに霞んで見える大きな影。

「あの山よ。」

「っ」

私のたった一言でヒロくんはなんの事か理解した。

今日この公園に来たのは、ここからなら見えると思ったからだ。

ヒロくんのお父さんが、命を失った場所が。

まだきっと父親の死を受け入れきれてはいない。

小さな子供にこんなことをするのは酷かと思ったけど。

私には時間がない。

ここにいられる時間が、もうない。

「お父さんはね。ずっとヒロくんのこと想ってくれていたよ。最期の最後まで…」

「でもっ、帰ってこなかった!」

私の言葉を遮って叫ぶ。

「帰ってくるって言ったのに!約束したのに!!」

身体全部で叫ぶ。

それがきっかけだった。

堰を切ったようにヒロくんが叫ぶ。

「たすけてって言ったのに!紬ちゃん女神様なんでしょ!?どうして助けてくれなかったの!!」

「うん…ごめんね。」

ぎゅうっと抱きしめた。

「ごめんね。助けられなくて…。女神様じゃなくて……。」

この悲鳴を私は受け止めなくてはいけない。

私を責めて、彼の中にある罪悪感を取り除かなくてはいけない。

お父さんを助けられなかったのは、私の所為。

お父さんの所為じゃない。

お父さんが悪いわけじゃないの。

「ごめんね。ごめんなさい…。」

全部私が悪いの。

だからあなたはお父さんを大好きなままでいて。

「っっ、わああああああっぁああ」

泣き叫ぶ。

可南子さんが言ってた。

「ヒロくん、泣かないんだって。」と。

偉いね、男の子だからね。

周りはそう評価したそうだ、けど。

違うよね。泣けなかったんだよね。

お父さんが大好きすぎて。いなくなったなんて信じられなくて。

こんな小さな身体で。処理できない感情をずっと抱え込んで。

哀しむお母さんを間近に見て、子供心にお母さんを守る為に。

哀しむこともできず、寂しいと泣くこともできず。

ずっと一人抱え込んで。小さな心にひびが入るまで。

私はそれを解放させてあげなきゃいけない。彼の父親を助けられなかった償いとして。

その感情を受け止めて、心を守ってあげなくちゃいけない。

それが私にできる最大の事だから。

「全部私が悪いの。お父さんの所為じゃない。私が…間に合わなかったから。」

「―――紬ちゃんのせいじゃ」

「私が悪いんだよ。」

見かねて私を助けようと優くんが口を挟む、けど。

敢えてそれを遮った。

本当はね、ヒロくんもわかってるんだよ。

誰も悪くないって。

お父さんも。私も。そしてヒロくんも。

誰も悪くないって。

でもこのままだと大好きなお父さんを憎んでしまいそうで心が壊れてしまうの。

心を壊さない為に、私を憎んでいいの。

だからこのままでいいの。

「ね。お父さんはヒロくんが大好きなの。本当にずっとずっと…すごく大切なの。あなたも、あなたのお母さんも。今までも、これからも、ずっと…それだけ忘れないでいて。」

「……ずっと…?」

「ええ、ずっと。」

泣きわめいて涙でぐちゃぐちゃの顔で。

「ずっと…僕の事、好き…?」

「もちろん。大好きに決まってる。」

力強く頷く。これは嘘じゃない。絶対の本当だ。

ヒロくんは私をじっと見つめる。

その中に嘘が潜んでいないのか、と。

「……一つだけ、私が使える魔法をヒロくんにあげるね。」

「魔法…?」

うん、と頷く。

そして私はヒロくんの首に下がっているカメラを両手に持った。

大事な大事なカメラを。

そっと撫でる。

「お父さんがこのカメラを通してヒロくんを見る事ができますように。ずっとずっと見ていてくれますように。」

子供だましなんて思っていない。

私は心の底から願う。

本当に魔法が使えればいいと切実に。

「これで、きっと…!?」

大丈夫、なんて言葉を繋げようとした時。

カメラのフラッシュが突然光った。

カシャリとシャッターの切れる音。

どうして?だって私シャッターボタン押してない。

もちろんヒロくんだって。

シャッターボタンのあるところには誰の指も添えられていない。

それなのに、勝手にシャッターが切られた。

まるで返事をするかのように…。

「よかったね、ヒロくん!お父さんが見ていてくれるって!!」

真っ先に喜びの声を上げたのは優くんだ。

私は驚きで声が出ない。まさか、本当に?

ヒロくんはじっとカメラを見つめて。

「パパ…」

両手でカメラを構えると。

ファインダー越しに呟いた。

小さな指が押したシャッターボタン。

カメラのレンズが向けられていたのは、大きな霞みがかった山。

「ありがとう、紬ちゃん。」

私を初めてまっすぐに見つめて。

真っ赤にはらした目で、ヒロくんは笑う。

子供らしい笑顔で。

これでもう大丈夫だ。

ヒロくんはきっとこの先を乗り越えていける。

大好きな父親を恨むことなく、自分の身を嘆くことなく。

この先まっすぐに進んでいける。



「紬ちゃん?どうしたの?」

たっぷりと遊んで、丘を下りた。

公園の出口、これから家へと帰る道。

ここから優くんの家までは子供の足で歩いても5分くらいだ。

そこで私は足を止める。

不思議そうに見上げる小さな目。

私はそっと繋いだ手を離した。

「私もお家に帰ろうかなって思ってね。」

「?お家に帰るんでしょ?だったら…。」

「ううん。私のお家、だよ。」

「紬ちゃんの、お家…」

反芻して、その目が驚きに大きく見開かれる。

「紬ちゃん、帰っちゃうの!?」

理解できた途端、小さな手が伸びてぎゅうっと私の服を掴む。

その顔は不安でいっぱいだ。

私は優しくその頭を撫でた。

「うん。ずいぶん長い間留守にしちゃったからね。もうそろそろ…帰らなきゃ」

「やだ!!」

「優くん…。」

さて、困った。

できれば笑顔でさよならがしたい。

膝を追って屈みこむと、優くんに視線を合わせる。

そっと頬を撫でる。とても柔らかい。

「ね、約束をしようか。」

「やくそく…?」

泣き出す一歩手前の顔で。それでも私の話を聞こうとしてくれる。

「うん。約束。また会う為の。」

「また、あうための?」

「そう、また会える為の、約束。」

にこりと微笑んで小指を差し出す。

優くんは私の顔と差し出された小指を交互に見る。

「また、あえる?」

「うん、きっと。」

頷いた。

それからポケットに入れておいた指輪を優くんに差し出す。

それは私にプロポーズした時にくれたおもちゃの指輪。

「優くん、つけてくれる?」

手を差し出した。

左手を。

「うん…」

小さな指で指輪を摘むと私の指に通す。

指の指定はしなかったのに、当たり前のように優くんは薬指に指輪を通す。

「これは約束のしるし。」

そうして私も優くんの指におもちゃの指輪をはめた。

こっそりと買っておいたものだ。

「ゆびわ?」

「また逢えるって言う約束のしるしの指輪よ。」

小さな手を握った。

私が贈った指輪は小さな優くんの指にはぶかぶかだ。

「またあえる?」

不安そうに尋ねるその声に。

「きっとまた逢える。」

しっかりと力強く頷いた。

だって確信がある。

私、またあなたに逢う日が来る。

「だからそれまで私を忘れないで。」

ぐらりと視界が揺れる。

「紬ちゃん!!」

「じゃあ、またね。優くん。ヒロくんも。」

泣きそうな顔の優くんに私は笑って手を振った。

これで終わりじゃないよ、と。

「……うん、またね。」

応えてくれたのはヒロくんだ。

彼は小さな両手にカメラを構えた。

そのレンズを私に向ける。

私は最高の笑顔で応えた。

カシャ、とシャッターの音。

「紬ちゃん!!絶対また逢おうね!」

重なる優くんの声と、笑顔。

うん。またね。

返す言葉は声にならなかった。








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