乙女の純情、大人の奮闘
「海へ行きたい」
突然彼女は振り返ってそう言った。
「急だな」
苦笑いを浮かべると、彼女は怒っているのかと思うぐらい真剣な顔で歩み寄ってきた。
「連れて行って」
彼女らしくない強い要求に驚いたが、滅多にない彼女の頼みなら聞いてやりたいと、俺はうなずいた。
「いつ行く?」
「今すぐ」
たたみかけるように彼女が答えて、詰め寄ってくる。見上げてくる視線が挑むように俺をとらえる。
「もうすぐ九時だ」
今から海へ行くとなると、着くのは十時前だろうか。つまり夜中だ。まず海を見て楽しめる時間ではないし、とにかく寒い。言外に断ると、彼女が俺の服をつかむ。
「連れて行って。お願い」
「どうした、突然」
こわばったようにも見える彼女の真剣な顔をまじまじと見つめると、彼女は目をそらすようにうつむいて、黙り込んだ。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
甘いなぁ。
そう、心の中でつぶやいた。
一ヶ月前、彼女は十八になった。十も年下の、しかも女子高校生とか、どう考えても子供なのに。「好き」と言われて、潤んだ目を隠し、まるで睨み付けるように見つめられて、あのとき俺は彼女を抱きしめたい衝動と戦う羽目になった。
彼女を子供と割り切れない自分を自覚した。
惚れた弱みというやつか。
「家に連絡したら、な」
驚いたように顔を上げた彼女に、俺は苦笑する。
彼女が喜ぶのなら叶えてやりたいと思うとか、どんだけ溺愛しているのかと。
このくそ寒い冬の夜の海とか、馬鹿じゃないかと思うのに、彼女が喜ぶ顔を想像したら、あほみたいに浮かれて行く気になるとか。
見上げてきた彼女の表情がほころんだ。
甘いなぁ……。
しみじみと己を自覚する。かわいくてたまらないと思ってしまう自分に、もう笑うしかない。
「今日はお父さんとお母さん、二人で旅行に出かけてるから大丈夫」
うれしそうに言った彼女に、俺は自虐的に考える。
おい、これは何のフラグだ。
それとも俺の理性を試すための試練か。
車の助手席に彼女を乗せて、海へ向けて出発をする。
あのとき、「付き合って」と続けた彼女に、「高校卒業してから出直してこい」と、とりあえず大人の理性で踏みとどまった。さすがにダメだろう、三十を目前にして女子高校生とか。
せめて女子大生だ。
それでなくても妹のクラスメートとか、手を出すのに踏みとどまりたくなる条件がそろいすぎている。
運転の合間にちらりと隣に目をやると、うれしそうにこちらを見ていた彼女と目があった。
不安はある。俺が彼女の年齢を子供だと思うように、彼女からすると俺は完全におっさんだろう。ほんの二ヶ月が待ち遠しい。とりあえず、大学入学を彼女をくどく解禁日に予定してある。どうか心変わりしてくれるな、とか願う。彼女の周りにいる、彼女にふさわしい年齢のくそガキどもにつかまってくれるな、と。
この年になると生活が単調になりがちで、数ヶ月でプライベートが変化する事は少ない。けれど、十代の子にとっての一ヶ月は、俺の一ヶ月とはずいぶん違う。ましてや年度替わり前後の季節、たったの一ヶ月がプライベートを大きく変化させる事は少なくない。
車から降りると、周りを見渡す。真っ暗だった。誰もいない。線のような月の明かりを頼りに彼女と堤防沿いを歩く。
「手、繋いで良い?」
彼女の手が、とんと俺の手に触れてくる。
「ん」
うなずいてそのまま握る。彼女の手は思ったより小さかった。
「暗くて、怖いから、それに、寒いし」
手を繋いだとたん、言い訳するように、彼女が早口でつぶやいた。
その様子がおかしくて、彼女の顔をうかがうが、暗くて表情はわからなかった。いつものように真っ赤になっているのだろうか。
空いた手で、彼女のほほに触れると、「ひゃっ」と、小さな悲鳴が上がる。暖かかった。
そのまま黙り込んでなされるがままになっている彼女に「行こう」と促す。彼女の手を引き、浜辺へと足を進めた。そうしないと、別の事をしたくなりそうで。
「寒いな」
冬の海風はそれでなくても寒いのに、更に夜ともなると、何の拷問かと思うほどに寒かった。
彼女は、黙って隣にいる。
俺は立ち止まって、彼女の様子を観察した。
彼女が来たいと言った海だ。何かあるのかと思ってみるが、特に何かをする様子もない。いったい何をしに来たんだか。
だんだんと闇になれてきた。不思議に思いながら彼女を見ていると、視線に気付いたのか、俺を見上げて「寒いね」と笑った。
いったい誰のせいだ、と思う。俺が寒いのが苦手な事は、彼女も知っているはずなのに。
手を繋いで寒そうに海を見る彼女を見ていると、ふといたずら心がわいてきた。
「責任をとってもらおうか」
身をかがめると、わざと彼女の耳元でささやいた。
「な、なに?」
彼女がびくっと体を震わせて、耳を押さえて俺を見る。
「責任をとってくれって言ってるんだ」
「責任って、何の……」
にやにやと笑いながら彼女を見る。
困ったような彼女の表情に、俺は繋いだ手を離して言った。
「カイロになれ」
「……え?」
意味がわからないという風に首をかしげた彼女の肩に両手を置き、くるっと向こう向ける。
「え?」
戸惑う彼女をコートで包むようにして後ろから抱きしめた。
にやにやと笑いながら、彼女の反応をうかがう。腕の中でおもしろいぐらいに硬直しているのがわかる。
これなら、あと二ヶ月は大丈夫かもしれない。ほっとしながら、けれど大人の余裕でもって、彼女に追い打ちをかけた。
「何で、こんな時間に、海?」
「内緒です!」
硬直している彼女から悲鳴のような返事が返ってきた。
「そりゃないだろう、人巻き込んどいて」
そう笑うと、困ったように彼女がうつむく。もう一押しか。
「寒いなぁ。何で俺、こんな目に遭ってるのかなぁ?」
コートの中の彼女を抱きしめる腕に力を込めて、からかいを込めて追い打ちをかける。
沈黙が訪れる。見つめている先で、腕の中の彼女がわずかに震えた。
「……手を」
風の音に消えてしまうような小さな声が、腕の中から漏れてくる。
「手?」
彼女がどこか恥ずかしそうに小さくうなずいた。
ややあった沈黙の後に、ようやく続きが小さく紡がれる。
「……つなげるかな、って」
つながらない。なんで海で、手をつなぐという発想になるのか。海に来なければいけない理由が見つからない。
「君の考えていることが分からないのは、俺がおじさんだからだろうか」
ため息をつくと、彼女が振り返って俺を見上げてくる。その顔が今にも泣きそうに見えて、苦笑する。
何で、こんなにかわいいかな。
「で、何で海?」
「寒かったら、手をつないでもらえるかなって……ごめんなさい」
泣きそうな声で、見上げてくる視線がそらされた。
「……くっ」
笑うところではないのは分かっていたが、思わず吹き出してしまった。
その発想は、ジェネレーションギャップか、それとも経験の差か、何にせよ飛躍しすぎだろう。
「意味わかんねぇ。そんな事のために、俺は、このくそ寒い海にまで連れてこられたのか?」
そう思うと、耐えきれずに笑い出してしまう。
他の誰かがやれば、間違いなくいらだっている。なのに、これがかわいいとか思うのは、重傷過ぎるだろう。手をつなぎたくて無茶ぶりとか、そんなに俺を好きなのかと思うとうれしいと思うのは、あんまりだろう。手をつなぎたいと言われたことがこんなに幸せとか、どんだけこの子が好きなんだよ。
考えれば考えるほどおかしくて笑いがこみ上げてくる。
彼女を好きな自分が滑稽で、たまらなく心地良い。
こんなにかわいいとか、卑怯だろう。
こんな子供に振り回されて、俺、バカだろう?
「何でそんな事考えた?」
不安そうな顔で見上げてくる彼女に尋ねる。
彼女の目に、俺はどう映っているのだろう。言ってる内容は責めながら、なのに笑っている俺に戸惑っているようだった。俺の言葉が彼女の不安をさらに強めているらしいのは感じるが、それをぬぐってやる気にはなれなかった。俺ばっかりはずるいだろう? お前も悩め。
こんな子供に振り回されて、というプライド、子供じみた意地悪心だった。
「だ、だから、手を……」
「そうじゃなくて。何がきっかけ? そんな事考えたのはなんで?」
のぞき込むように見つめると、情けない顔をした彼女が困っていた。
「……言わないと、ダメ?」
「ダメ」
即答すると、彼女はうつむいて言葉をなくす。
「この前……女の人と歩いてたの、見て」
ようやく出てきた言葉が、思いがけない内容で一瞬ひるむ。そんな事あったっけ?
「俺?」
彼女がうなずいた。
「腕、くんでて、綺麗な人で……」
その言葉に、そういえば、と思い当たる。
「……妬いた?」
彼女から見えないのを良い事ににやにやと笑いながら耳元でささやく。嫉妬されてうれしいとか、頭わいてるよな。女の嫉妬とかって、うっとうしいと思っていたのに。
「……あの人、誰?」
「たぶん……高校時代の同級生。久しぶりに会ったんだよ。人妻で、男女関係なく誰にでも腕にぶら下がるのが趣味」
「……そんな趣味の人、いるの?」
「世の中は、広いんだよ」
不審そうな声に、俺は笑う。
俺もあいつ以外に、そんな事するヤツは知らないけどな。
「まあ、それに対抗して、冬の夜の海にまで引っ張り出して手をつなぐ事を画策する女子高校生とか、想像つかない事するヤツもいるわけだから。……世の中、広いだろ? いろんな人間がいるんだよ」
矛先が自分に向いて腕の中で彼女が一瞬固まる。「うー」とくぐもったうなり声が響く。
「ごめんなさいっ」
「気にすんな?」
さんざんからかって、ようやく満足がいく。
「おこってる?」
「いや?」
「じゃあ……あきれてる?」
「それなりに」
「……いやだった?」
「寒いのは。でも、それ以外は別に」
不安そうに詰め寄ってくる彼女に、俺は笑いながら答える。そのたびに彼女の表情がほぐれていく。
「だいすき」
腕の中で彼女がつぶやいた。
不意打ち過ぎる。このタイミングで言うのか。
このままキスしてやろうか、コラ、とか、手を服の中に突っ込んでしまおうかとか、いろんな煩悩が脳裏を駆け巡るが、奇跡的な忍耐力でこらえる。その代わり、俺の無反応に彼女の体がこわばっている。
「……帰るか」
何とか葛藤を隠して、ごまかす事にする。
帰りの車の中は、ひたすらに沈黙が続いていた。
会話がほぐれたと思ったとたん、突然の俺の沈黙に、彼女は戸惑っているようだった。時折、彼女がなにか物言いたげにこちらを窺うのに気付いていたが、あえて何も言わなかった。口を開けば、このまま口説いてしまいそうだった。口説くだけならまだしも。その先は考えたくもない。
彼女の家の前に車を着ける。
真っ暗な家をちらりと見て、彼女がためらいがちに言う。
「良かったら、コーヒーでも」
「遠慮しとくわ」
俺は即答した。答えると、妙な疲労感でため息までこぼれる。
今日は、彼女に試され通しだった気がする。こんな時間に、彼女一人しかいないと分かっている家に通されて何もせずに帰るとか、そこまで自分を信用してない。
分かっているのか、分かっていないのか。
分かっていないのだろうな、と思うと、なおのこと疲れが襲う。
いっそ分かっていて、わざと誘っているのならそれに乗っかるのも悪くないのに。彼女が、そこまで覚悟決めているとは思えない。雰囲気に流してしまえば流されてくれるかも知れないが、相手がまだ女子高校生だと思うと三十手前の大人としては、つけ込んでおいしくいただいてしまうというのは理性と常識が邪魔して踏ん切りがつかない。
据え膳前にして、最低すぎる。
彼女がどこか悲しそうに、うつむいて車のドアを開けた。
「今日は、ありがとう」
ちいさい声でつぶやき、彼女が車を降りた。
寂しげに見えるその背を向けた姿に、耐えきれなくなる。
甘いのか、それとも、振り回されているのか。
「おい、忘れ物」
彼女の背中に向けて声をかけた。
「え?」
振り返った彼女に、俺はおいでと手招きをする。
招かれるままに助手席のシートに膝をついて体を乗り出してきた彼女へ手を伸ばし、ぐっと頭を引き寄せる。
「……ひゃっ」
彼女の小さな悲鳴を、口でふさぐ。
短いキスの後、彼女の唇の感触だけを堪能して体を離す。
「……え?」
突然のキスに呆然としている彼女に、にやりと笑う。おっさんも、余裕ぶっこくのはそろそろ限界なんだよ。このくらいのいたずらは許してもらおうか。
「さっさと、卒業しやがれ」
真っ赤になった彼女を見て笑う。
「え? ……え?」
「ちゃんと戸締まりしろよ」
そう言って追い払うように手を振ると、呆然としている彼女が、呆然としたままうなずく。そしてぎこちなく車を降りて、ふらふら~と玄関の鍵を開けた。家に入る前に振り返った彼女に手を振ると、彼女がようやくぎこちない笑顔を浮かべて手を振り返してきた。俺のした事がよく分かっていない様子の彼女に満足する。これから二ヶ月、悩みやがれ。俺の事ばかり考えてろ。ドアが閉まるのを確認してから、俺は車を出発させる。
そして運転しながら気がついた。
しまった。
頭をがしがしとかきむしった。
いつの間にか、大学入学してからの予定が、高校卒業後に早まっていた。
気付いてみると、おかしさがこみ上げて声を上げて笑う。そんな失態が訳もなくただおかしく思えた。そしておかしいぐらい浮かれながら運転している自分に、一種のあきらめを覚える。
まあ、いいか。
彼女を思い浮かべると、我慢しているのさえばからしく思える。
何もかもどうでも良いと感じるほど、気分が良かった。何とかなるだろうと思えるほどの楽観さでもって。
さて、どうやって口説くかな。
バカみたいに浮かれながらカーステレオから流れる歌を口ずさむ。ほんの少し未来を期待して、情けないぐらい顔がにやけていた。
年齢差恋愛は、きっと、大人の方が大変ですよね。(大人の方に、まともな常識と理性があるなら)