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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第2章 日常の形

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第7話 通夜の夜の、軽い約束

 通夜が終わると、家の中の時間は少しだけ緩む。


 終わった、と言っても、何もかもが片づくわけではない。

 読経の余韻みたいなものはまだ家のあちこちに残っているし、帰る人間と残る人間の挨拶もある。玄関では小さな声で「今日はありがとうない」「明日またね」と言い合うのが続き、台所では使った湯呑みや皿が重ねられていく。線香の匂いもまだ濃いままだし、居間には正座の名残みたいな疲れた空気が残っていた。


 それでも、通夜の最中とは違う。


 人の数が少し減る。

 声の張り方が少しだけ戻る。

 皆がほんの少しだけ、自分の身体の重さを思い出す。


 俺は居間の隅の座布団から立ち上がって、何となく廊下へ出た。

 足が痺れていたわけではない。ただ、同じ場所に座り続けていると、自分の身体の輪郭までぼやけていくような気がした。


 廊下の先、玄関のたたきにはまだ何足も靴が残っている。さっきまでよりは減ったが、それでも見知らぬ靴が多い。家の中には人が大勢いて、でも外へ出るともう夜で、寒くて、静かで、その落差が妙に大きかった。


 勝手口のほうから真帆が戻ってきた。

 手には空になったやかんを持っている。


「何してんの」

「別に」

「別にって顔してない」

「じゃあ、ちょっと息抜き」

「そんな大げさな場でもないべ」


 そう言いながら、真帆はやかんを台所へ置き、またすぐ戻ってきた。

 通夜が終わったあとの家の中で、彼女も彼女なりにちょうどいい場所を探しているのかもしれなかった。台所の手伝いに入れば働き手になるし、居間へ戻れば親類の一人になる。でもそのどっちでもない場所に数分だけ立ちたい、みたいな時間がある。


 玄関の脇の壁にもたれて、真帆が小さく息を吐いた。


「疲れた」

「おつかれ」

「恒一くんも座ってるだけで疲れたでしょ」

「それはちょっとある」

「でしょ」

「何もしてないのに疲れるの、不思議だよな」

「人多いからだよ。あと気ぃ使うし」

「お前も使うんだ」

「使うわ」


 そう返した真帆の声が少しだけ素に近くて、俺はそれで少し楽になった。


 通夜の家には独特の疲れがある。

 泣いたから疲れる、という単純なものではない。姿勢を正して座ること、普段より少し丁寧に喋ること、目上の人に気を遣うこと、悲しんでいる人の前で笑いすぎないこと。そういう小さな力の入り方が、夕方から夜にかけてじわじわ身体へ残っていく。


 勝手口の向こうは暗かった。

 ガラスの向こうで、風に何かが擦れる音がする。雪はもうほとんど見えないが、空気の冷たさだけは昼のまま残っているようだった。


 真帆が何気ない口調で言った。


「お盆、また来るっしょ?」


 俺は少しだけ考えてから頷いた。


「たぶん」

「たぶんって」

「いや、新盆なら来るんじゃないの。うちの母親とかそういうの外さないし」

「だよね」

「たぶん俺も来ると思う」

「そっか」


 そこで真帆は、いかにも何でもないことみたいに続けた。


「じゃあ、そのときハワイアンズ行こうよ」


 俺は一瞬、聞き間違えたのかと思った。


「……なんでそんな急に」

「急じゃないよ。前からちょっと行きたかったし」

「今この流れで出る話か?」

「出るでしょ」

「法事のついでにプールってどうなんだよ」

「法事の最中に行くわけじゃないって。終わったあとならいいべ」

「雑だなあ」


 そう言うと、真帆は少しだけ笑った。

 自分でも雑だと思っている顔だった。


 でも、その雑さがかえってよかった。


 通夜の家の中では、皆が慎重に言葉を選ぶ。

 大人たちは特にそうだ。亡くなった人の話、残された家族の話、明日の段取り、遠くから来た親類への挨拶。どの言葉も間違ってはいけないような顔で交わされている。そこへ「じゃあハワイアンズ行こうよ」なんて話が混ざると、一瞬だけ部屋の空気が別の方向へ開く。


 不謹慎だ、と切り捨てるほどでもない。

 けれど、少しだけ意外だ。


「せっかくいわき来るならさ」

 真帆が続ける。

「どうせ親戚いっぱい来ても、ずっと家ん中いると暇じゃん」

「それはそうかもしれないけど」

「新盆ってさ、終わったあとの時間、微妙じゃない?」

「微妙って」

「帰る人は帰るし、残る人は残るし、でもじゃあ何すんの、みたいな」

「ああ……」

「だったら行こうよ。ハワイアンズ」

「行こうよ、で行く場所じゃないだろ」

「なんで」

「なんでって」

「だって近いし」

「理由が薄い」

「温泉もあるよ」

「プールから温泉へ雑につなぐな」

「フラガールも見れるし」

「もう完全に観光じゃん」

「せっかくいわき来るなら、それくらいしたっていいべ」

「法事のあとに?」

「終わったあとならいいってば」

「雑だなあ」


 俺が二回目の同じ言葉を返すと、真帆は肩を揺らして笑った。


 その笑いを聞いて、少しだけ胸の奥がゆるんだ。


 未来の話だ、と思った。


 お盆。

 新盆。

 数か月先。

 今いるこの夜よりもずっと先の、夏の話。


 そこへ「行こうよ」と言えることが、妙に普通で、妙に安心できた。

 今ここにあるのは葬儀の家の空気で、線香の匂いで、親類たちの疲れた声だ。けれど時間はそこだけで止まるわけではなく、ちゃんと夏まで続いていく。その前提を、真帆はたぶん深く考えずに口にしたのだろう。


 でも人は、深く考えずに口にする未来にこそ、いちばん無防備なのかもしれない。


「まあ、予定合えば」

 俺は曖昧に答えた。

「またそれ」

「だってまだ先だし」

「でも来るんでしょ?」

「新盆ならたぶん」

「じゃあ決まり」

「何も決まってない」

「だいたい決まった」

「雑だなあ」

「それ好きだね、恒一くん」


 真帆は廊下の壁に肩をつけたまま、少し上を見た。

 通夜のあとの家の天井は、昼よりも低く見える。灯りが少し落ちているせいか、空気が静かなせいかは分からない。


 それから真帆が、さっきまでより少しだけ小さい声で言った。


「予定あるって思ってたほうが、ちょっと楽じゃん」


 俺は、そこで少しだけ黙った。


 その言葉は冗談みたいな顔で言われたのに、冗談だけでは終わらなかった。

 たしかにそうかもしれない、と一瞬思う。


 こういう場では、目の前のことばかりが大きくなる。今日の通夜、明日の告別式、来客、茶、座布団、車、時間。人が亡くなったことの前では、それ以外の時間が少しだけ後ろへ下がる。けれど本当は、その先にも日々は続いていて、夏が来て、お盆が来て、新盆が来る。そういう先の話を誰かが口にすると、止まりかけた時間が少しだけ前へ動き出す。


「……そうかも」

 俺はようやくそう言った。


 真帆は「でしょ」と満足そうに頷く。


「だからハワイアンズ」

「そこへ戻すの早いな」

「大事だから」

「お前が行きたいだけじゃん」

「それもある」


 その言い方が、あまりにあっさりしていて、俺は少し笑った。


 喪の場で笑ってしまうことに、まだ少しだけ抵抗はある。

 けれど本当に小さい笑いは、むしろこの家を保つために必要なのかもしれない。ずっと沈んだままだと、人はかえって何も手につかなくなる。


 台所のほうから母の声がした。


「真帆ちゃーん、お盆もう一枚取ってもらえる?」

「はーい」


 真帆は壁から背を離し、俺を見た。


「とりあえず、来るなら連絡してよ」

「何の」

「だから、お盆。新盆。あとハワイアンズ」

「全部まとめるなよ」

「いいじゃん、だいたい同じだし」

「全然違うだろ」

「私の中では近い」

「雑だなあ」

「また言った」


 真帆は笑いながら台所のほうへ戻っていった。

 その背中を見送ってから、俺は玄関のほうを向いた。


 外は相変わらず寒そうだった。

 ガラス越しの夜は黒く、風の音だけが細く続いている。


 新盆。

 ハワイアンズ。

 数か月先の、何でもない約束。


 そういうものは、その場では実現を疑わない。

 疑う理由がないからだ。夏はちゃんと来るし、そのころにはまたここへ来るのだろうし、真帆はきっと同じ調子で「ほら行くよ」と言うのだろう。そういうふうに、未来は何となく勝手にあるものだと思ってしまう。


 俺はそこで、少しだけ胸の奥が軽くなっていることに気づいた。


 救い、というほど大げさなものではない。

 ただ、今ここにある線香の匂いと、数か月先のプールの話が、同じひとつの時間の中に並んだことで、息がしやすくなっただけだ。


 何もかもが今ここで止まっているわけではない。


 そう思えたことが、少しだけありがたかった。


 けれど、そのありがたさが、あとになってどんな形へ変わるのかを、このときの俺はまだ知らない。

 人はたいてい、何でもない約束ほど、失う可能性を考えないまま口にする。

 だからこそ、それが消えたとき、思った以上に長く心へ残るのだ。

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