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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第2章 日常の形

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第6話 祖父の話ではなく、海の記憶

 人が多い家には、人が多い家なりの静けさがある。


 誰も喋っていないわけではない。

 むしろ声はあちこちから聞こえる。台所からは食器の触れ合う音がして、廊下の向こうでは誰かが小さく咳払いをし、居間では湯呑みを置く音や襖の開け閉めが絶えない。それでも、通夜の前の少し落ち着いた時間帯になると、家全体の空気が不思議とひとつ低いところへ沈んでいく。


 泣くほどではない。

 笑うほどでもない。

 ただ、皆が少しだけ声の高さを落としている。


 俺は居間の隅の座布団に座ったまま、湯呑みを両手で包んでいた。ストーブの熱は十分に届いているはずなのに、指先だけはなかなか温まりきらない。たぶん寒いのは手だけじゃなくて、知らない家に長くいるせいで、身体のどこかがずっと少し固いままなのだろう。


 卓上の菓子皿からは、また一つ柏屋薄皮饅頭が減っていた。

 いつのまにか補充されたままどおるの袋も、半分近く空いている。誰かが勧め、誰かが遠慮し、結局誰かが一つ取る。そういうやりとりが、この家の中ではずっと繰り返されていた。


 居間の中央寄りには、年長の親類たちが自然に集まっていた。

 湯呑みを手にしたまま、少し前かがみになって話す人。座布団をもう一枚折って尻の下へ敷いている人。誰かが口を開くと、ほかの人がすぐに大きく相槌を打つわけではなく、「んだない」「そうだっぺ」と低く返す。それだけで会話が先へ進んでいく。


 俺は最初、その内容をちゃんと聞いていなかった。


 親類の集まりで年長者たちがしている話というのは、天気か、体調か、近所の誰それの話か、そのあたりだと思っていたし、実際、最初のうちはそんな感じだった。どこの家の梅がどうだとか、今年は寒さが長引くとか、誰々の膝がまだよくならないとか。話題はあっちこっちへ飛びながら、けれど不思議と切れはしない。


 そのうち、窓の外で風がひとつ強く鳴った。


「今日みたいな風の日は、港のほうやだない」


 年長の女性の一人がそう言った。

 たぶん母方の大伯母か、そのくらいの人だ。顔は知っていても正確な続柄までは分からない。ただ、この家の中で話し方に妙な遠慮がない人なので、昔から近くにいる側の親類なのだろうと思う。


「港は寒えしな」

 向かいの男性が頷いた。

「今日なんか、波も立ってたべ」

「立ってた立ってた。魚屋も早かったって言ってたない」

「そりゃそうだ。あんだけ風吹げば」


 その会話の中に、俺の知らない土地の生活がそのまま入っていた。


 港。

 魚屋。

 波。

 風。


 どれも観光の話じゃない。

 この町の人たちにとっては、その日の洗濯物や買い物の時間と同じくらい、生活の手前にある話なのだ。


「昔はもっとすごい日あったっぺ」

 別の女性が言った。

「台風のときなんか、水すぐ上がってきて」

「あったない」

「あのへんの道路、ぐしゃぐしゃになってさ」

「店の前まで波しぶき来たこともある」

「そうそう」


 俺はそのへんでようやく、話の輪郭を少し意識し始めた。


 大げさな災害談ではない。

 自慢話でも、怖がらせる昔話でもない。

 もっと地味で、もっと実感に近い話だ。昔の大きい波。台風のときの水。港が荒れた日。そういう、生活の延長にある「海の機嫌の悪さ」の記憶を、みんながそれぞれ持っている。


「海は静かでも、急に顔変えっからね」


 年長の男性が、茶をひと口飲んでからそう言った。


 部屋の中が、その一言だけ少し静かになる。

 凍るほどではない。

 ただ、皆が一度だけ、その言葉の向こう側を見た感じがした。


「そうなんだよねえ」

 さっきの女性が頷く。

「朝なんでもなくても、午後には全然違うとかあるし」

「来るときゃ一気だっぺ」

「んだない」


 真帆が台所から湯呑みを持って戻ってきて、その会話の最後だけ聞いたらしく、少し呆れたように言った。


「またそういう話」


 年長の男性は笑いもしないで、ただ首を横に振った。


「そういう話、じゃなくて、近いと覚えておくもんだない」

「はいはい」

「はいはい、じゃねえべ」

「分かってるって」

「分がってる者ほど忘れんだ」


 そのやりとりに、居間の何人かが小さく笑った。

 真帆は「うるさいなあ」と言いながらも本気で嫌がっているわけではなく、湯呑みを年長者の前へ置いてから、俺の近くに戻ってきた。


「なんかずっと海の話してんね」

 小声で俺に言う。

「このへんの人って、そういうもん?」

「どうだろ」

「うちのばあちゃんたち、たまに急に始まるんだよね。台風のときどうだったとか、昔どこまで水来たとか」

「へえ」

「でも、また始まった、って感じ」


 また始まった。

 真帆にとってはそういうものなのだろう。小さい頃から耳にしてきた、半分は聞き流してもいい類の話。けれど俺にとっては、知らない町の大人たちが持っている、少しだけざらついた実感のように聞こえた。


 海の近くに住む人は、海を怖がりながら暮らしているわけではない。

 毎日いちいち警戒しているわけでもない。

 でも、完全に油断しているわけでもない。


 その中間みたいな感覚が、あの会話の中にはあった。


 怖いから離れる、という単純な話ではないのだ。

 海が近い場所に家があり、仕事があり、買い物をする店があり、親類が住んでいる。だから近いことをやめられない。そのかわり、昔の波のことや、台風の夜のことや、港が荒れた日のことを、体のどこかで覚えている。


「でも離れられねえしな」


 さっきの年長の男性が、今度は少しだけ笑って言った。


「近いからって、みんな山さ行けるわけでもねえし」

「そりゃそうだ」

「港の近くで仕事してる人だっていっぺし」

「魚だって海にいっからな」


 それは冗談みたいな言い方だったが、部屋の中にはすんなり馴染んだ。

 誰も極端なことは言わない。海が怖いとも、平気だとも言い切らない。ただ、近いから覚えておく、という感じだけが残る。


 その話の流れで、誰かがふと思い出したみたいに言った。


「北茨城のほうはまだ高いとこ多いから、そっちは少し安心だべ」

「関南のへんとか?」

「そうそう、北高の上のほうとか」

「あっちはまだいいない」


 俺はその言葉に、少しだけ顔を上げた。


「関南の祖父ちゃん家、あのへんです」

 思わず口に出る。

「お、そうなのかい」

 年長の女性がこちらを見た。

「じゃあ、あっちは分がるっぺ」

「はい。北高の近くなんで」

「なら平気だない。あっちは高えもの」

「海近くても、あのへんならまだ安心だっぺ」

「そうなんだ」

 真帆が俺を見る。

「やっぱ詳しいんだね、そっち」

「まあ……泉町よりは」


 そう答えながら、俺は頭の中で二つの場所を並べていた。


 泉町。

 関南町。


 どちらも海のある側の町だ。

 でも同じではない。

 泉町の空気には、さっきからずっと海が混ざっている。風も匂いも、家の中に入ってくる人の服の気配も、全部が近い。対して関南の祖父母の家は、海の町ではあるけれど、北高の近くの高台で、少なくとも俺の感覚では「海そのものの近さ」とは少し距離がある。


 関南は安全寄り。

 泉町は海に近い。


 そんなふうに、頭の中でぼんやり整理した。


 もちろん、それはこの時点では防災の判断なんかではない。

 ただ、自分の知っている場所と知らない場所を、少しずつ比較しているだけだ。知らない土地にいると、人はそうやって自分の持っている地図を使って安心しようとする。


 台所から、味噌汁の匂いがまた濃く流れてきた。

 線香の匂いはまだ残っている。

 その二つが混ざると、さっきまでより少しだけこの家の空気が深くなる。


 真帆が卓上の菓子皿からじゃんがらを取って、半分に割った。


「食べる?」

「なんか今日ずっと勧められてるな」

「そりゃそうでしょ。来た人にはとりあえず出すんだから」

「じゃあ半分だけ」

「半分て」

「そんな腹減ってない」

「あとで絶対お腹空くって」


 真帆はそう言って、俺の前へ半分だけ置いた。

 その雑さが、今はありがたかった。


 年長者たちの会話は、また天気の話や親類の近況へ戻っていった。

 海の話は、いったんそれで終わったみたいに見えた。けれど完全に消えたわけではなく、部屋のどこかにそのまま残っている感じがした。線香や味噌汁の匂いみたいに、目には見えないのに、確かにある。


 俺はじゃんがらを口に入れながら、さっきの「海は静かでも、急に顔変えっからね」という言葉を思い返していた。


 まだ他人事に近い。

 正直に言えば、そうだった。


 海の近くに住んでいるわけでもない俺にとって、その警戒心は借りものみたいなものだ。聞いて、なるほどと思うことはできても、実感として腹の底へ落ちるほどではない。


 それでも、海が近い町に今自分がいる、ということだけは、少しずつ身体で分かり始めていた。


 風の匂い。

 外から戻る人の服の湿り気。

 年長者が昔の波の話をするときの、言葉にしすぎない調子。

 そして「離れられねえし」と笑う、その感じ。


 海は景色じゃない。

 この町では、もっと生活の近くにある。


 俺は湯呑みの茶を飲み干して、少し冷めた底の味を舌に残した。

 居間の中ではまた普通の会話が続いている。誰かが饅頭を取り、誰かがストーブの火を少し弱め、真帆が「お茶足す?」と訊く。


 その普通の中に、言葉になりきらない警戒心だけが、薄く混じっていた。

 俺はまだ、それを借りものみたいに聞いている。

 でもたぶん、その借りものの感覚も、知らない土地で過ごす時間が増えるたびに、少しずつ身体のほうへ近づいてくるのだろうと思った。

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