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君のいない春に、海は近すぎた  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️
第2章 日常の形

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第5話 線香と魚の匂い

 夜の親類の家というのは、静かになればなるほど、かえっていろいろな匂いが立つのだと、そのとき初めて知った。


 通夜を終えて人の出入りが少し落ち着いても、家の中にはまだ誰かの気配が残っている。玄関で脱がれた靴の湿り気、廊下を歩いた人の足音、襖の向こうで小さく続いている話し声。そういうものが一つずつ薄くなっていくのと同じ速さで、今度は匂いのほうが部屋の輪郭をはっきりさせていく。


 いちばん残っていたのは、線香の匂いだった。


 甘いような、乾いたような、少しだけ喉の奥に引っかかる匂い。仏間のほうから流れてきているのだろうが、家の中に人が多かったせいで、それはもう一部屋のものではなく、家全体に薄く染みついた匂いになっていた。居間に座っていても、廊下へ出ても、茶を飲んでいても、ふとした拍子にその匂いが先に鼻へ届く。


 それだけなら、葬儀の家の匂いだ、で済んだのかもしれない。


 けれどこの家には、同じくらいはっきりと、別の匂いもあった。


 台所から漂ってくる出汁の匂い。

 煮物の甘じょっぱい匂い。

 味噌汁の湯気の匂い。

 焼き魚の皮が少し焦げた匂い。

 漬物を出すときに立つ、酸っぱく乾いた匂い。


 そういう生活の匂いが、線香の匂いと同じ家の中に当たり前の顔で混ざっている。


 俺は居間の隅に座ったまま、湯呑みの湯気の向こうでそのことをぼんやり考えていた。


 人が亡くなった家なのに、台所は普通に動くんだな。


 そう思ってしまった自分が少しだけ気になった。

 不謹慎なのかもしれない、と一瞬思う。

 だが実際、台所は止まっていなかった。止まっていないどころか、むしろ普段より忙しそうだった。人が集まるから湯は絶えず沸かされるし、誰かに何かを食べさせなければならないし、茶菓子も出る。悲しいからといって、家の機能は止まらない。止まったら、来た人を迎えることも、自分たちが食べることもできなくなる。


 だからたぶん、これが正しいのだ。


 悲しみと生活は、別々の部屋に分かれているわけではない。

 同じ家の、同じ空気の中にある。


「恒一くん、饅頭食べる?」


 真帆が菓子皿を持ってきて、俺の前へ少し突き出した。


 皿の上には、包装を外された柏屋薄皮饅頭がいくつか並んでいた。もう半分以上減っている。横の皿にはままどおるが二つだけ残っていて、別の小皿には割ったじゃんがらが置かれていた。皿の上の減り方を見ていると、この家に今日何人来て、何人が茶を飲み、どれだけ「どうぞどうぞ」と勧められたのかが見える気がした。


「さっきも勧められた」

 俺が言うと、真帆は「だよね」と笑った。

「ここ、来た人みんなに勧めるから」

「それは見てて分かった」

「しかも断っても二回目くるし」

「それも分かった」


 真帆は饅頭を一つつまんで、自分で食べた。


「線香の匂いで腹減んなくなるかと思ったけど、こういうときほど食べなきゃだない」

 台所のほうから親類の女性の声がした。

「食べないと、あとで一気に疲れっから」

「そうなんだよねえ」

 別の人が相槌を打つ。

「来る人来る人、お茶だけってわけにもいがねし」

「恒一くんも何か食べな。遠慮しなくていいんだかんね」

「はい」

 そう答えながら、結局俺は少しだけ間を置いてから饅頭に手を伸ばした。


 皮がしっとりしていて、あんこの甘さが思ったより濃かった。

 さっきまであまり腹が減っていない気でいたのに、口に入れてしまうと、身体のほうはちゃんと糖分を待っていたらしい。


 居間の襖は半分ほど開けられていて、その向こうに台所が見えた。鍋の蓋を少しずらして中を見る人、茶碗を重ねる人、布巾で手を拭く人。母もその中に混じっていた。もうすっかりこの家の台所の流れの一部になっていて、来客側の人間という感じがしない。


 伯父は男衆のほうへ行っていたが、時々居間へ戻ってきては湯呑みを持ち、また誰かに呼ばれて廊下へ出ていく。人の多い家では、落ち着くということ自体が後回しになるのかもしれない。


 玄関のほうで戸が開く音がした。


「ただいま」

 年配の男の声に続いて、冷たい空気が廊下を通って流れ込んでくる。


「おかえり。どうだった?」

 台所から誰かが訊く。

「港のほう、風つえがったない」

「あらあ」

「今日は魚屋も早かったわ。みんな店しめんの早え」

「そりゃこの寒さだもの」


 その会話と一緒に、外から戻った男の上着に混じった匂いが、廊下を通って居間まで届いた。


 潮っぽい匂い。

 それだけじゃない、魚市場や港の近くに行ったときのような、生臭いとまではいかないが、水と魚の気配が混ざった匂い。俺はそれを嗅いだ瞬間、ああ、この町の海は景色じゃなくて生活のほうにあるんだな、と思った。


 観光地みたいに、海を見に行く、という距離ではない。

 外から帰ってきた服に少し移るくらい、家の近くに海の気配がある。


「やっぱ海のほう、寒いべ」

 真帆が言う。

「寒いっていうか、刺さる」

「昼もそう言ってたな」

「今日ほんとやだ。顔痛いもん」

「でも地元の人は慣れてんだろ」

「慣れても寒いもんは寒いって」


 真帆はそう言って、じゃんがらを半分に割った。

 中の餡が少し崩れて、皿にぽろっと落ちる。


 俺は湯呑みを持ち直して、また家の中の匂いに意識を向けた。


 線香。

 味噌汁。

 煮物。

 潮。

 魚。

 ストーブの灯油。

 茶の湯気。

 饅頭の甘い皮。


 泉町という地名は、昨日まで俺の中ではほとんど文字だけの場所だった。いわき市の中のどこか、母方親族の家があるところ、というくらいの意味しか持っていなかった。けれど今は、そこに匂いがつき始めていた。


 知らない土地が、匂いを持つ場所へ変わるときがある。

 それは、道を覚えたときより早いのかもしれない。


 台所から真帆の母親が顔を出した。


「真帆、漬物そっち出して」

「はいはい」

「恒一くんも、お腹空いてっときは言ってね」

「はい」

「男の子は食べっからない」

「そんな雑なくくりある?」

 真帆が言うと、母親は「あんたよりは食べるっぺ」と笑った。


 そのやりとりを聞いて、居間の何人かも小さく笑った。

 笑い声は大きくない。けれど確かにあって、しかも誰もそれを不自然だと思っていない。そのことが、俺には少し意外だった。


 弔いの家なのに。

 人が亡くなったばかりなのに。

 そう思ってしまう自分のほうが、むしろまだこの家の感覚へ入りきれていないのだろう。


 たぶん、泣き続けているだけでは家は持たない。

 人を迎え、茶を淹れ、食べさせ、話をし、少し笑う。そういう生活の手つきがあるから、悲しみも家の中へ置いていられるのかもしれない。


 俺はそのことを、理解したというより、匂いで先に覚え始めていた。


 台所で味噌汁の鍋がまた温め直される。

 廊下の向こうで誰かが線香を足す。

 玄関先では濡れた靴が乾いていく。

 居間の皿からは、またひとつままどおるが減る。


 死と生活は、矛盾しないまま同じ家にある。


 そのことにまだ少し戸惑いながら、俺は饅頭の残りを口に入れた。

 甘さは思ったよりもまっすぐで、熱い茶で流し込むと、胸の奥に少しだけ落ち着くものがあった。


 泉町はまだ、自分の町ではない。

 けれど、知らない町のままでもなくなり始めていた。


 少なくともこの家には、

 線香の匂いと、魚の匂いと、味噌汁の湯気の匂いがする。

 そのことだけは、もうはっきり分かった。

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