第5話 線香と魚の匂い
夜の親類の家というのは、静かになればなるほど、かえっていろいろな匂いが立つのだと、そのとき初めて知った。
通夜を終えて人の出入りが少し落ち着いても、家の中にはまだ誰かの気配が残っている。玄関で脱がれた靴の湿り気、廊下を歩いた人の足音、襖の向こうで小さく続いている話し声。そういうものが一つずつ薄くなっていくのと同じ速さで、今度は匂いのほうが部屋の輪郭をはっきりさせていく。
いちばん残っていたのは、線香の匂いだった。
甘いような、乾いたような、少しだけ喉の奥に引っかかる匂い。仏間のほうから流れてきているのだろうが、家の中に人が多かったせいで、それはもう一部屋のものではなく、家全体に薄く染みついた匂いになっていた。居間に座っていても、廊下へ出ても、茶を飲んでいても、ふとした拍子にその匂いが先に鼻へ届く。
それだけなら、葬儀の家の匂いだ、で済んだのかもしれない。
けれどこの家には、同じくらいはっきりと、別の匂いもあった。
台所から漂ってくる出汁の匂い。
煮物の甘じょっぱい匂い。
味噌汁の湯気の匂い。
焼き魚の皮が少し焦げた匂い。
漬物を出すときに立つ、酸っぱく乾いた匂い。
そういう生活の匂いが、線香の匂いと同じ家の中に当たり前の顔で混ざっている。
俺は居間の隅に座ったまま、湯呑みの湯気の向こうでそのことをぼんやり考えていた。
人が亡くなった家なのに、台所は普通に動くんだな。
そう思ってしまった自分が少しだけ気になった。
不謹慎なのかもしれない、と一瞬思う。
だが実際、台所は止まっていなかった。止まっていないどころか、むしろ普段より忙しそうだった。人が集まるから湯は絶えず沸かされるし、誰かに何かを食べさせなければならないし、茶菓子も出る。悲しいからといって、家の機能は止まらない。止まったら、来た人を迎えることも、自分たちが食べることもできなくなる。
だからたぶん、これが正しいのだ。
悲しみと生活は、別々の部屋に分かれているわけではない。
同じ家の、同じ空気の中にある。
「恒一くん、饅頭食べる?」
真帆が菓子皿を持ってきて、俺の前へ少し突き出した。
皿の上には、包装を外された柏屋薄皮饅頭がいくつか並んでいた。もう半分以上減っている。横の皿にはままどおるが二つだけ残っていて、別の小皿には割ったじゃんがらが置かれていた。皿の上の減り方を見ていると、この家に今日何人来て、何人が茶を飲み、どれだけ「どうぞどうぞ」と勧められたのかが見える気がした。
「さっきも勧められた」
俺が言うと、真帆は「だよね」と笑った。
「ここ、来た人みんなに勧めるから」
「それは見てて分かった」
「しかも断っても二回目くるし」
「それも分かった」
真帆は饅頭を一つつまんで、自分で食べた。
「線香の匂いで腹減んなくなるかと思ったけど、こういうときほど食べなきゃだない」
台所のほうから親類の女性の声がした。
「食べないと、あとで一気に疲れっから」
「そうなんだよねえ」
別の人が相槌を打つ。
「来る人来る人、お茶だけってわけにもいがねし」
「恒一くんも何か食べな。遠慮しなくていいんだかんね」
「はい」
そう答えながら、結局俺は少しだけ間を置いてから饅頭に手を伸ばした。
皮がしっとりしていて、あんこの甘さが思ったより濃かった。
さっきまであまり腹が減っていない気でいたのに、口に入れてしまうと、身体のほうはちゃんと糖分を待っていたらしい。
居間の襖は半分ほど開けられていて、その向こうに台所が見えた。鍋の蓋を少しずらして中を見る人、茶碗を重ねる人、布巾で手を拭く人。母もその中に混じっていた。もうすっかりこの家の台所の流れの一部になっていて、来客側の人間という感じがしない。
伯父は男衆のほうへ行っていたが、時々居間へ戻ってきては湯呑みを持ち、また誰かに呼ばれて廊下へ出ていく。人の多い家では、落ち着くということ自体が後回しになるのかもしれない。
玄関のほうで戸が開く音がした。
「ただいま」
年配の男の声に続いて、冷たい空気が廊下を通って流れ込んでくる。
「おかえり。どうだった?」
台所から誰かが訊く。
「港のほう、風つえがったない」
「あらあ」
「今日は魚屋も早かったわ。みんな店しめんの早え」
「そりゃこの寒さだもの」
その会話と一緒に、外から戻った男の上着に混じった匂いが、廊下を通って居間まで届いた。
潮っぽい匂い。
それだけじゃない、魚市場や港の近くに行ったときのような、生臭いとまではいかないが、水と魚の気配が混ざった匂い。俺はそれを嗅いだ瞬間、ああ、この町の海は景色じゃなくて生活のほうにあるんだな、と思った。
観光地みたいに、海を見に行く、という距離ではない。
外から帰ってきた服に少し移るくらい、家の近くに海の気配がある。
「やっぱ海のほう、寒いべ」
真帆が言う。
「寒いっていうか、刺さる」
「昼もそう言ってたな」
「今日ほんとやだ。顔痛いもん」
「でも地元の人は慣れてんだろ」
「慣れても寒いもんは寒いって」
真帆はそう言って、じゃんがらを半分に割った。
中の餡が少し崩れて、皿にぽろっと落ちる。
俺は湯呑みを持ち直して、また家の中の匂いに意識を向けた。
線香。
味噌汁。
煮物。
潮。
魚。
ストーブの灯油。
茶の湯気。
饅頭の甘い皮。
泉町という地名は、昨日まで俺の中ではほとんど文字だけの場所だった。いわき市の中のどこか、母方親族の家があるところ、というくらいの意味しか持っていなかった。けれど今は、そこに匂いがつき始めていた。
知らない土地が、匂いを持つ場所へ変わるときがある。
それは、道を覚えたときより早いのかもしれない。
台所から真帆の母親が顔を出した。
「真帆、漬物そっち出して」
「はいはい」
「恒一くんも、お腹空いてっときは言ってね」
「はい」
「男の子は食べっからない」
「そんな雑なくくりある?」
真帆が言うと、母親は「あんたよりは食べるっぺ」と笑った。
そのやりとりを聞いて、居間の何人かも小さく笑った。
笑い声は大きくない。けれど確かにあって、しかも誰もそれを不自然だと思っていない。そのことが、俺には少し意外だった。
弔いの家なのに。
人が亡くなったばかりなのに。
そう思ってしまう自分のほうが、むしろまだこの家の感覚へ入りきれていないのだろう。
たぶん、泣き続けているだけでは家は持たない。
人を迎え、茶を淹れ、食べさせ、話をし、少し笑う。そういう生活の手つきがあるから、悲しみも家の中へ置いていられるのかもしれない。
俺はそのことを、理解したというより、匂いで先に覚え始めていた。
台所で味噌汁の鍋がまた温め直される。
廊下の向こうで誰かが線香を足す。
玄関先では濡れた靴が乾いていく。
居間の皿からは、またひとつままどおるが減る。
死と生活は、矛盾しないまま同じ家にある。
そのことにまだ少し戸惑いながら、俺は饅頭の残りを口に入れた。
甘さは思ったよりもまっすぐで、熱い茶で流し込むと、胸の奥に少しだけ落ち着くものがあった。
泉町はまだ、自分の町ではない。
けれど、知らない町のままでもなくなり始めていた。
少なくともこの家には、
線香の匂いと、魚の匂いと、味噌汁の湯気の匂いがする。
そのことだけは、もうはっきり分かった。




