第4話 3月9日の揺れ
夕方が夜へ変わっていくころの家というのは、昼間より少しだけ本音が出やすい気がする。
日が落ちると、人は自然に声をひそめる。
ひそめるのに、話の数は減らない。
むしろ、通夜の前後みたいに人の出入りが多い日は、昼よりも夜のほうが細かい確認ごとや段取りの話が増えていく。誰がどこへ座るとか、明日の時間はどうだとか、朝は何時に出るとか、車は何台必要だとか。そういう話が、湯呑みの湯気やストーブの熱の上に、絶えず小さく積もっていく。
居間の卓上には、さっき買ってきた紙コップとお茶のペットボトルが置かれていた。
菓子皿には、開けられたままのままどおると柏屋薄皮饅頭が並んでいて、誰かがひとつ取るたびに、包み紙の擦れる音がした。真帆はさっきから台所と居間を行き来していて、戻ってくるたびに「まだ何か足りない?」と半分投げやりみたいな顔で尋ねている。親類の女性たちは「大丈夫だない」と答えながら、次の瞬間には「やっぱりお盆もう一枚出しといて」と言う。大丈夫という言葉は、たぶんこういう家ではあまり信用してはいけないのだと思う。
俺は居間の端の座布団に座ったまま、そのやり取りを少し離れたところから眺めていた。
輪の中に入れないわけではない。
でも、入る理由が見つからない。
手伝おうと立ち上がっても「いいから座ってな」と言われるし、座っていれば「暇ならこれ運んで」と言われる。親類の家というのは、自分の居場所があるようで、最後まで借りもののままな感じがする。
母は台所側の人間になっていて、湯呑みを洗ったり、来た人へ茶を出したりしながら、合間合間に「明日、式場は何時集合だっけ」と確認していた。伯父は伯父で、居間の入り口近くで誰かと車の話をしている。明日の朝の混み具合だとか、鹿嶋まで戻るならどのくらいかかるだとか、そういう現実的な話だ。
「俺、やっぱ今夜のうち戻るわ」
伯父が言った。
「明日の朝はもう無理だな」
「そうだよねえ、仕事だもんね」
親類の男性が頷く。
「朝早いんでしょ」
「六時には出たいからな。ここで寝たら逆に遅れる」
「じゃあ通夜終わったらすぐか」
「まあ、そうなるな」
母も台所から顔だけ出して言った。
「私も一緒に戻るから」
「あら、そうなの」
「明日どうしても休めないの」
「そりゃしょうがないない」
その会話を聞きながら、俺はもう一度、自分がここへ残る側なのだということを確かめた。
分かってはいた。
昼間から何度も話に出ていた。
それでも大人たちが具体的な時間で「今夜のうちに戻る」と言い始めると、急に現実味が出る。ここに泊まって、明日はこの家から告別式へ行く。母も伯父もいない状態で。
いや、別に一人きりではない。
親類の家なのだから、誰かしらいる。真帆もいる。
それでも、自分の側の大人がいなくなる、というのはやっぱり少し違う。
湯呑みを持ち上げたときだった。
卓上の茶の表面が、ふっと細かく揺れた。
最初は、自分の手が少し動いたせいかと思った。
けれど、湯呑みだけじゃない。菓子皿の包み紙がかすかに音を立て、壁際のストーブの上のやかんが、かた、と小さく鳴った。
次の瞬間、家そのものがみしっと鳴った。
「……あ」
誰かが言った。
それが誰の声だったかは分からない。
床の下から、横向きの力が来る。
大きい、と思うより先に、知らない家で揺れているという感覚がきた。自分の家なら、どこが軋み、どこが落ちやすいかを何となく知っている。けれどここでは、柱の鳴り方も、棚の位置も、どこへ目をやればいいかも、とっさには分からない。
俺は反射的に身体を固くした。
湯呑みを卓上へ戻す。
座布団の上に置いた足の裏へ、揺れがじかに伝わる。畳の下の床板がわずかに遅れてついてくる感じがして、腹の底が落ち着かなかった。
「揺れてる」
真帆が言った。
「結構来たな」
伯父が続ける。
母は台所から戻りかけた姿勢のまま、すぐ俺のほうを見た。
「恒一、大丈夫?」
「うん」
そう答えたが、本当に大丈夫かどうかは、自分でもよく分からなかった。
倒れそうなほどではない。
飛び出すほどでもない。
でも、すぐには終わらない。
その「すぐには終わらない」感じが、妙に嫌だった。
棚に置かれた小物がかすかに触れ合う音を立て、吊り下がった照明の紐が左右に揺れた。テレビの画面も少し震えて見える。大人たちはざわついているが、悲鳴を上げるほどではない。誰も立ち上がって外へ出ようとはしなかった。そのかわり、全員が半歩だけ日常からずれた顔になっていた。
「この辺も揺れるときは揺れるのよ」
親類の女性が言う。
「やだない」
「やだ、で済めばいいけどねえ」
真帆はすでに携帯を見ていた。
伯父もポケットから携帯を出しかける。
誰かがテレビの音量を少し上げた。アナウンサーの声が、さっきまでより少しはっきり部屋へ流れ込んでくる。
地震情報。
津波注意報の可能性。
震源地の説明。
そういう言葉が断片的に聞こえたが、全部は頭に入らなかった。
耳が拾っていたのは、むしろ部屋の中の小さな音のほうだ。湯呑みを置き直す音。誰かの浅い息。ストーブの上のやかんの蓋がもう一度鳴る音。
揺れはじわじわと弱まっていった。
でも俺の中では、すぐには消えなかった。
足の裏に、まだ床の動きが残っている気がする。
腹の底にも、少しだけ遅れて嫌な感じが残る。
知らない土地での地震は、それだけで普段よりひとつ余計に不安なのだと、そのとき初めて思った。
「海のほうだと、ちょっと気味悪いねえ」
そう言ったのは、母方の年長の女性だった。たぶん祖母の妹だか従姉だか、そのあたりの関係の人だと思う。声は小さかったが、居間の空気が一瞬だけそちらを向いた。
「まあでも、このくらいなら大丈夫だろ」
すぐに別の男性が言う。
「この辺だって、たまにはあるし」
「そうだねえ」
「びっくりしたけどない」
その会話で、部屋の空気はまた少し元へ戻った。
誰も「前触れ」なんて言葉は使わない。
揺れは揺れとして受け取られ、それ以上でも以下でもないまま、通夜前の家の中へ吸い込まれていく。
それが妙だった。
さっきまで確かに皆が手を止めていたのに、収まってみれば、まるで何分か会話が途切れただけのように、すぐ元の段取りへ戻っていく。台所ではまた鍋の蓋が鳴り、居間では「お茶もう少し出したほうがいいかな」という話になり、真帆は携帯の画面から顔を上げて「別に大したことないっぽい」と言った。
人は揺れても、日常をやめない。
やめられないのかもしれない。
弔事の家だからなおさらなのだろう。来る人は来るし、時間は進むし、通夜は待ってくれない。地震があっても、やることの列は消えない。
俺も結局、その流れに戻っていった。
湯呑みを持ち直し、台所へ皿を運び、言われた通りに座布団を一枚増やす。
それでも、どこかの一枚向こう側からこの家の動きを見ている感じが消えなかった。
「恒一、明日ほんとに大丈夫?」
地震の話が一通り落ち着いたあと、母が小さく言った。
台所と居間の境目あたりで、周りに聞こえないような声だった。
「何が」
「一人で。ここから式場行ったり」
「平気だよ」
「でもさっきみたいに揺れたりしたら」
「いや、今のは別に……」
そこまで言って、別に、の中身が曖昧なのに気づく。
別に大丈夫。
別にたいしたことない。
さっきまで周りの大人たちが使っていたのと同じ言葉だ。
伯父が近くへ来て、母のほうを見た。
「明日の朝はもう無理だからな。俺ら戻るしかないし」
「分かってるけど」
「恒一なら平気だろ」
「そうだない、こっちで見るから」
近くにいた親類の女性が言った。
「真帆もいるし」
「うん、明日は私いるから」
真帆があっさり言う。
その言葉に場は自然にまとまり、俺がここへ残ることもそれで確定したみたいになった。
「……平気だよ」
俺はもう一度言った。
本当に平気かどうかは、自分でもまだ少し分からなかった。
でも、ここで「やっぱり帰る」みたいなことを言うほど子どもでもないと思ったし、言ったところで今さらどうにもならないことも分かっていた。
通夜が終わるころには、外はすっかり夜になっていた。
玄関先に出ると、昼よりも風が細く冷たくなっている。雪はもうほとんど見えなかったが、空気の底にはまだ同じ寒さが残っていた。門のあたりに停めてあった伯父の車の窓はうっすら曇っていて、エンジンをかけると白い息みたいな排気が夜の中へ流れた。
母はコートの襟を立てながら、最後にもう一度俺の顔を見た。
「明日終わったらちゃんと帰ってきなさいよ」
「うん」
「それと、何かあったら関南の祖父ちゃん家のほう行きなさい」
「分かった」
「ほんとに分かってる?」
「分かってるって。北高の近くだし、あっちなら俺でも行けるから」
「ならいいけど」
母はそう言いながらも、すぐには車へ乗り込まなかった。
俺の顔を見て、玄関のほうを見て、それからまた俺を見る。その迷い方が、少しだけ申し訳なかった。
伯父が運転席から窓を下ろした。
「おい、寒いからもう乗れって」
「分かった」
母はようやく頷いて、車の後部座席へ乗り込んだ。
窓が閉まる。
車内の灯りが一瞬だけ、母の顔をオレンジ色に照らした。
エンジン音が少し大きくなる。
車がゆっくり門を出て、角を曲がり、見えなくなる。
それだけのことなのに、道の先の闇が急に深くなった気がした。
俺はしばらくその場に立っていた。
寒い。
頬がすぐに冷える。
でも、すぐ家へ戻る気にもなれなかった。
今夜から、自分はここへ残る。
母と伯父のいない泉町の夜に。
それは決して大げさな孤独ではない。玄関の向こうには親類の家の灯りがあるし、人の声もする。けれど、その灯りの中へ戻る前の数十秒だけ、自分がこの町にぽつんと置かれた感じがした。
風が、また細く鳴った。
海の匂いを少し含んだ冷たい風だった。
家へ戻ると、さっきまでいたはずの居間が、ほんの少しだけ違って見えた。
同じ座布団。
同じストーブ。
同じ菓子皿。
なのに、母と伯父がいないだけで、そこは急に「親類の家」に戻る。
自分の居場所が、もう一段だけ借りものになった感じがする。
「送ってきた?」
真帆が襖の向こうから顔を出した。
「うん」
「寒かったっしょ」
「うん」
「お茶飲む?」
「飲む」
そのやりとりに少しだけ救われて、俺はまた座布団へ戻った。
さっきの地震の揺れは、もう終わっている。
家の中もまた普通の通夜前の空気に戻っている。
けれど俺の足の裏と腹の底には、まだわずかに、あの揺れの残りみたいなものがあった。
大きく揺れたのに、皆はもう普通にしている。
俺も結局、その普通の中に座っている。
そのことが、少しだけ不思議だった。
けれど、このときの俺はまだ知らなかった。
あの揺れが、ただの「今日の地震」では終わらないことを。
そしてこの家の中で続いている普通が、二日後にはどれほどあっけなく崩れるのかを。




