第3話 泉町の道を覚える
通夜の支度というのは、座っていれば誰かが勝手に全部整えてくれるものではないらしい。
夕方が近づくにつれて、家の中の空気は少しずつせわしなくなっていった。台所では湯が足りる足りないという話になり、居間では茶請けの皿をどうするだの、座布団をもう少し出したほうがいいだのという声が飛ぶ。誰かが「お醤油切れてたんだよね」と言い、別の誰かが「紙コップも足りっかもしんね」と返す。大きな家ではないのに、人が増えるだけで必要なものがどんどん増えていくのが不思議だった。
「真帆、コンビニ行ってきてくんない?」
台所のほうから声がした。
「紙コップとお茶、あと足りなかったら適当に見て」
「はーい」
返事をした真帆が、居間の出入り口から俺を見た。
「恒一くんも来る?」
「俺?」
「そう。荷物持ち」
「雑だな」
「座ってても暇でしょ」
「まあ……暇だけど」
図星だった。
家の中にいても手持ち無沙汰だし、外へ出られるならそのほうが気が楽だった。俺は立ち上がり、さっき脱いだばかりの上着をまた羽織った。袖に腕を通したとたん、家の中の熱が少し惜しくなる。見知らぬ親類の家では、暖かさすら完全には自分のものにならない。
玄関を開けると、またあの風が待っていたみたいに吹きつけてきた。
「うわ、さむ」
思わず口に出る。
「だから言ったっぺ」
真帆が先に出ながら笑う。
「今日ほんと変だよ。三月なのに」
「さっきより寒くない?」
「夕方だからでしょ」
乾いた白いものが、また視界の端を横切った。
雪、と呼ぶには軽すぎる。雨、と呼ぶには音も気配も足りない。ただ風に混じって、紙の切れ端みたいな白さが横へ流れていく。俺は上着の襟元を少し引き寄せた。
家の前の細い道は、車一台が通れば十分というくらいの幅だった。そこを数歩歩くと、すぐにもう少し広い通りへ出る。住宅地の中なのに、流れが一本通っている感じがある。さっき車で来たときにも似たような道を見た気がしたが、曲がる角が多かったせいで、どこをどう通ったのかは曖昧だった。
「さっき来たとき、この辺通ったっけ」
俺が言うと、真帆は振り返りもせずに肩をすくめた。
「車だと分かんないよね」
「だよな」
「しかも伯父さん、ちょっと遠回りしてたし」
「やっぱり?」
「一回、曲がるとこ通り過ぎてたっぺ」
その言い方に少し笑う。
知らない町で車に乗っていると、自分が今どこにいるのかを道の名前で把握する前に景色だけが流れていく。けれど歩くと、道は急に細かくなり、角のひとつひとつに名前がありそうな気がしてくる。
真帆は迷いなく前を歩いていた。
交差点に差しかかる前から体が自然にそちらへ向いていて、この町が身体に入っている人間の歩き方だ、と思う。俺はその少し後ろをついていきながら、信号機の位置、コンビニの看板、道の伸びる方角なんかをなんとなく目で追っていた。
知らない町を歩いていると、俺は無意識に帰り道を探してしまう。
それは別に、今すぐ帰りたいからじゃない。
どこから来て、どこへ戻れるのかが分かっていないと、落ち着かないだけだ。
少し広い道へ出たところで、俺は何気なく尋ねた。
「こっちって、どこにつながってるの」
「こっち?」
真帆は前を見たまま答える。
「まっすぐ行けば植田のほう」
「植田」
「うん。もっと大きい流れなら旧六号だない」
「旧六号って、この辺からすぐ出んの?」
「出るよ。少し歩けば」
旧六号、という言葉を聞いたとき、頭の中の地図が少しだけ濃くなった。
「じゃあ、植田からもっと下れば勿来だよね」
俺が言うと、真帆が今度はちゃんと振り返った。
「へえ。そのへん分かるんだ」
「茨城側ならまあ」
「鹿嶋の人なのに?」
「いや、北茨城のほうは何回も行ってるし。父方の祖父ちゃん家あるから」
「ああ、関南だっけ」
「うん」
「じゃあ、そっちは詳しいんだ」
「詳しいってほどじゃないけど、泉町よりは」
真帆は少し感心したように「へえ」と言って、それからまた前を向いた。
関南町の父方の祖父母の家は、俺の中では泉町なんかよりずっとはっきりした場所だった。北茨城高校の近く。少し高いほう。車で行けば何度も通っているし、道の感じも覚えている。海が近い町ではあるが、祖父母の家のあたりは低い場所じゃない。津波なんて言葉をこのときは本気で考えていなかったが、それでも、あの家なら海がどうこうという話とは少し違うところにある、という感覚は昔からあった。
だから、つい口に出した。
「関南の祖父ちゃん家、北高の近くだから分かりやすいんだよ」
「あっち高いよね」
「うん。あそこなら海近くても、そのへんは平気だと思う」
「そりゃ泉町よりはね」
泉町よりは。
その言い方に、俺は少しだけ海のことを考えた。
見えてはいない。見えてはいないのに、この町の空気にはずっと海が混じっている。風の匂い、道の開け方、家と店の並び方、どこかへ向かう車の流れ。生活の中に海がある町なんだな、とあらためて思う。
真帆も、まるで何でもないことみたいに言った。
「こっち、海寄りに家ある人多いしね。うちの親戚もだいたいそうだし」
「そうなんだ」
「うん。港のほうに近い人もいっから」
「じゃあ、海ってほんと生活圏なんだな」
「まあね。近いの当たり前だから、あんまり意識してないけど」
その言葉が、冷たい風とつながった。
俺にとって海は、行く場所とか、見る場所とか、そういう少し外側のものとしてあることが多い。けれどこの町の人たちにとっては、海はもっと家に近いところにあるのだろう。風の匂いの中に、最初から混じっているくらいに。
コンビニは交差点の角にあった。
ガラス越しに見える蛍光灯の白さが、夕方の鈍い空の下で少しだけ浮いて見える。自動ドアが開くと、外の冷気が一瞬で切り離されて、店内のあたたかく乾いた空気に入れ替わった。
「紙コップ、お茶、あと適当にね」
真帆がかごを取りながら言う。
「適当って」
「雰囲気」
「雑だなあ」
とは言いながら、こういうときの“適当”が案外いちばん難しいことを俺は知っている。足りないと困るし、余っても困る。人が来る家の買い足しというのは、そういう曖昧な読みでできている。
店の中は、どこにでもあるコンビニだった。
飲み物の棚、カップ麺、電池、雑誌、洗剤、菓子パン、レジ前のホットスナック。鹿嶋で見る店と大きく変わるわけじゃない。違うのは、ここが泉町にあるというだけだ。
俺は何となく棚を眺めた。
乾電池が並んでいて、ペットボトルの水があり、カップ麺が積まれている。そういう「どこにでもあるもの」は、普段は目に入ってもすぐ流れていく。けれど知らない町で見ると、同じもののはずなのに、少しだけ安心の材料みたいに見えた。
「何見てんの」
真帆が紙コップの棚の前から声をかける。
「いや、別に」
「カップ麺食べたいとか?」
「そうじゃない」
「じゃ、ままどおる買ってく?」
「さっき家にあっただろ」
「確かに」
真帆が小さく笑う。
そのくらいのやりとりが、知らない町での居心地の悪さを少しだけ軽くしてくれる。
会計を済ませて外へ出ると、さっきより風が強くなっていた。
「うわ」
真帆が紙袋を抱え直す。
「これ、夜もっと寒くなるな」
「ほんとだな」
「明日もこんなかな」
「どうだろ」
交差点で信号待ちをしながら、俺は自然と通りの向きを見た。
こっちが南か。
あっちへ行けば植田。もっと下れば勿来。そこから先は茨城だ。
そんなふうに考えている自分に、少しだけ妙な感じがした。
今ここで必要なのは、親類の家までちゃんと戻ることだけのはずなのに、頭のどこかではもう、もっと遠い道筋をなぞっている。
「何見てんの」
また真帆が言う。
「いや、どっちが南かなって」
「何それ」
「なんか気になって」
「変なの」
「そういうとこあるんだよ」
真帆は呆れたみたいに笑って、それから前を指した。
「ほら、この道まっすぐ行けば、明日ひとりでもたぶん平気だよ」
「そういう問題じゃないんだけど」
「じゃあ何」
「……知らない町に残るって、ちょっと落ち着かないだけ」
「ああ」
真帆はそこで、少しだけ真面目な顔になった。
「まあ、分かるけど。大丈夫だよ。明日も私いるし」
「うん」
「通夜終わっておばさんたち帰っても、別に放り出したりしないから」
「そこまでは思ってない」
「でも顔にはちょっと出てる」
「うそ」
「ほんと」
そう言われると、少しだけ恥ずかしい。
俺は紙袋を持つ手を持ち替えて、信号が青に変わるのを待った。
帰り道、来たときと同じはずの通りを、俺はさっきより少しだけ詳しく見ていた。
この角を曲がる。コンビニは交差点の南東側。さっきの広い道はこの先。植田はあっち。旧六号はたぶん、もっと流れの太いあの通り。そんなふうに、言葉にならない地図が頭の中にうっすら重なっていく。
住宅地へ戻る手前で、真帆がふと思い出したように言った。
「そうだ、恒一くん」
「ん?」
「お盆にまた来る?」
「お盆?」
「新盆あるじゃん。今年」
「ああ……そっか」
言われて初めて、頭の中で時間が先へ伸びた。
法事や新盆のことなんて、今はまだ遠い話に思える。けれど親類の家では、こういう場の先にある次の集まりが、もう半分予定みたいに口にされるのかもしれない。
「来るなら、今度ハワイアンズ行こうよ」
真帆が言った。
「新盆のあととか。どうせ親戚いっぱい来てても暇でしょ」
「なんでそんな観光みたいな話になるんだよ」
「だって、せっかくいわき来るならさ。ずっと家で座ってるのもつまんないべ」
「お前が行きたいだけだろ」
「それもある」
真帆はあっさり認めた。
「前さ、学校の友達と行くはずだったのに流れたんだよね。だから新盆で来るなら、ちょうどいいかなって」
「新盆でハワイアンズって、なんか不謹慎じゃない?」
「法要の最中に行くわけじゃないって。終わったあと、時間あったらって話」
「まあ……」
「いいじゃん。あったかいし」
「雑な理由だな」
「プールもあるし、スライダーもあるし」
「俺、そんなに泳がないけど」
「見てるだけでも面白いって」
「なんで俺が行く前提なんだよ」
「来る前提で話してるから」
その言い方が、妙に当たり前だった。
新盆。
お盆にまた来る。
ハワイアンズに行く。
そういう数か月先の話を、こんなふうに何でもない声でされると、少しだけ安心する。人はちゃんと先の予定を口にするのだ、と。今日の寒さも、明日の通夜も、その先へつながっているのだと。
「まあ、予定合えば」
俺が曖昧に答えると、真帆は「よし」と満足げに言った。
「じゃ、決まり」
「決まってねえよ」
「だいたい決まった」
「雑だなあ」
そう言いながら、俺も少し笑っていた。
家へ戻る最後の曲がり角で、俺はまた一度だけ通りの向きを見た。
どっちが南か。
どっちへ行けば広い道に出るか。
どこから来て、どこへ戻るのか。
そんなことをいちいち確かめる自分が、少しだけ変に思えた。
明日ここから一人で動くことへの、軽い不安がそうさせているのだろう。真帆は「大丈夫」と言うし、たぶん本当に大丈夫なのだと思う。
それでも、知らない町の道を歩くと、人は無意識に帰り道を探してしまう。
家の門が見えてきたとき、さっきよりも少しだけこの町の線が頭に入った気がした。
それは安心というほど大きなものではない。
ただ、何も分からないわけではない、という程度の小さな手応えだった。
その小さな手応えが、二日後にどれほど頼りなく、それでもどれほど必要なものになるのかを、そのときの俺はまだ知らなかった。




