第2話 親類の家の座布団
玄関を開けた瞬間、外の冷たさとは別の熱が顔に触れた。
暖かい、というより、こもっている、という感じだった。人の息と石油ストーブの熱と、長く閉め切られた家の空気が混ざって、薄い膜みたいに玄関口に溜まっている。さっきまで頬に刺さっていた雪混じりの風が急に遠ざかって、その代わりに、線香の残り香と煮物の匂いと、少しだけ湿った畳の匂いが鼻の奥に入ってきた。
玄関には、すでに靴が何足も並んでいた。
男物の黒い革靴、女物の少し踵のある靴、子どもの運動靴、くたびれたスニーカー。きれいに揃えられているものもあれば、慌ただしく脱いだらしく斜めを向いているものもある。黒や紺の色が多いせいか、それだけで家の中の空気が少し沈んで見えた。
「やー、来てくっちぇありがとうない」
奥から出てきた母方の親類が、少し訛った声でそう言った。
柔らかいが、どこか急いているような声だった。
母が「いえ、こちらこそ」と頭を下げる。
伯父も続いて会釈する。
俺はそのあとに倣って頭を下げたが、相手の顔には見覚えがあるのに名前が出てこなかった。親類というのは、会えばちゃんと親類なのに、会わない時間のほうが長いと、こういう曖昧さだけが残る。
「恒一くんだっけ。大きくなったない」
「……ご無沙汰してます」
「やだ、ちゃんとしてんなあ。上がって、上がって。寒かったっぺ」
寒かったっぺ、と言われて、ああここはいわきなんだな、と変なところで思った。
テレビや旅番組の中で聞く福島の言葉より、ずっと普通の会話の温度で、その語尾はそこにあった。
靴を脱いで上がると、家の中の熱が足元から上がってきた。
廊下の向こうでは何人もの話し声が重なっている。泣き声は聞こえない。けれど誰も普段の調子で喋ってはいない。小さめの声、短く切れる会話、台所で皿の触れ合う音、鍋の蓋が鳴る音。そういう生活の音の中に、線香の匂いだけが静かに混じっていた。
母はそのまま台所のほうへ入っていき、「何か手伝えることある?」ともうこの家の動きに溶け込んでいる。伯父も居間の入り口で男衆の輪に入り、誰かと明日の段取りを確認し始めた。
俺だけが一瞬、廊下の真ん中に立ったままになった。
知らない家ではない。
でも、自分の家でもない。
この微妙な距離感は、親類の家に来るたびにある。
他人の家ほど緊張はしないが、気を抜けるほど馴染んでもいない。座っていていい場所を自分で決めてはいけない気がして、誰かに「こっち」と言われるまで身体の置き場が見つからない。
「あ、恒一くん」
助かった、と思う前に、真帆がこちらへ歩いてきた。
「久しぶり」
「うん」
「何、そこ突っ立ってんの。邪魔だない」
「いきなり言うなよ」
「だって邪魔なんだもん。ほら、こっち座んな」
その言い方が少しだけ乱暴で、逆にありがたかった。
真帆は親類の中ではまだ話しやすいほうだ。昔からそうだった気がする。優しいというより、変に気を遣わせない。
真帆に言われるまま居間へ入ると、ストーブの熱がいっそう濃くなった。
居間には人が多かった。壁際には座布団が並び、真ん中の卓上には菓子皿がいくつも置かれている。袋の開いたままどおる、箱から出された柏屋薄皮饅頭、包装を外したじゃんがらが皿に分けられていて、弔事の場なのに、いや、弔事の場だからこそなのか、甘い匂いが部屋の隅に溜まっていた。
俺は勧められた居間の隅の座布団に腰を下ろした。
座布団は少しへたっていて、座ると中の綿がゆっくり沈んだ。
その柔らかさが妙に生活っぽい。自分の家の座布団とは違うのに、誰かが普段から使っている重みだけはすぐに分かる。
「お茶、飲むべ?」
と、親類の女性が湯呑みを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「甘いのも食べな。ほら、ままどおる」
「いや、あとで」
「遠慮しなくていいない。じゃんがらもあるよ」
「そういう問題じゃねえべ、今」
別の誰かが苦笑まじりにそう言って、居間に小さな笑いが落ちた。
弔事の家なのに、生活の音が消えていない。
それどころか、人が多いぶんだけ普段よりも台所も居間も動いている。人が亡くなっても、湯は沸くし、菓子は出るし、座布団も足りるように並べ替えられる。悲しみだけで部屋が埋まるわけではないのだと、俺は湯呑みの湯気を見ながら思った。
真帆が俺の向かいに座り、菓子皿のひとつを自分のほうへ寄せた。
「恒一くん、明日もこっちなんでしょ」
「たぶん」
「たぶんって。聞いてないの」
「聞いてるけど、まだ実感ない」
そこへ、台所のほうから母の声がした。
「私は明日の朝どうしても無理だから、通夜が終わったら戻るね」
「あら、そうなの」
「うん、外せないの入っちゃって」
「伯父さんも?」
「俺も仕事あるし、今夜のうちに鹿嶋帰る」
伯父が居間の入り口から言った。
「明日の朝は無理だわ」
「そっかあ。でも恒一くんなら大丈夫だっぺ」
「こっちは人いっから、残しておけばいいない」
その言い方は自然で、悪気も何もなかった。
ただ事実として、「俺は残る側」なのだとそのとき初めてはっきりした。
ああ、自分は明日もここにいるのか。
そう思った。
嫌ではない。
でも、少しだけ心細い。
知らない土地に一人置かれる、というほど大げさな話ではない。ここには親類がいて、真帆もいて、明日は告別式があって、誰かがどこかへ連れていってくれるのだろう。そう頭では分かっている。分かっているのに、胸のどこかで、自分だけがまだこの家の空気に馴染みきれていない感じが残っていた。
母が居間へ戻ってきて、俺のそばに腰を下ろした。
「せっかくだし、明日の告別式までちゃんといてきなさい」
「うん」
「終わったら、真帆ちゃんたちに駅でも何でも聞いて」
「明日はこっちで案内するから大丈夫だよ」
真帆がすぐ言った。
「この辺、そんな複雑じゃないし」
「それ、たぶん慰めになってない」
「だいじだいじ。迷ったら旧六号さ出れば、なんとかなんべ」
「いきなり雑だな」
そう返すと、真帆はようやく少しちゃんと笑った。
俺は湯呑みを持ち直しながら、居間の中を見回した。
障子。柱。壁際のストーブ。テレビの小さな音。菓子皿。廊下へ続く襖。台所から聞こえる包丁の音。見慣れない天井の木目。自分が会話の中心に入れないとき、人はこんなふうに部屋の配置を覚え始めるものなのかもしれない。
そのとき、母が思い出したように小さく言った。
「もし何かあったら、関南のおじいちゃんたちのところ頼りなさいよ」
「分かってるって」
「分かってるならいいけど」
「北高の近くだし、あっちなら迷わないし」
言ってから、少しだけ自分で安心した。
関南町の父方祖父母の家は、俺の中では泉町よりずっと輪郭のはっきりした場所だった。北茨城高校の近くの高台。海に近い町ではあるけれど、あのへんは低い場所じゃない。津波のことまでこのとき本気で考えていたわけじゃないが、「何かあってもあそこなら大丈夫だ」という感覚は昔からあった。
「そうだない、あっちは高いし」
と、近くにいた親類の誰かも頷いた。
「関南のほうなら海寄りでもまだ安心だっぺ」
「だから何かある前提みたいに言うのやめてよ」
俺が言うと、母は「そういう意味じゃない」と苦笑した。
夜になるにつれて、人の出入りは少し落ち着いていった。
それでも家の中のざわめきは完全には消えない。玄関先で小さく挨拶が交わされ、襖の向こうで誰かが湯を注ぎ、ストーブの上のやかんが時々鳴る。母は親類の女性たちと話し込み、伯父は廊下で携帯を耳に当てて仕事の段取りを確認している。
俺だけが、少し手持ち無沙汰だった。
テレビを見るには内容が重い。
親類の輪へ自然に入るには少し距離がある。
何か手伝おうにも、今どの皿を運べばいいのかも分からない。
だからまた、俺は部屋の中の細かいものを目で追った。
見知らぬ家の天井。
居間の隅の時計。
卓上のじゃんがらの包み紙。
真帆の前で半分に割られたままどおる。
誰かが「薄皮、こしあんのほう残ってっか?」と訊く声。
そういう細部ばかりが、妙にはっきり見えた。
外ではまだ風が鳴っていた。
障子の向こうで細いものがこすれるような音がするたび、玄関を入る前のあの冷たい空気を思い出す。雪混じりの風。海の匂いを含んだ冷たさ。泉町へ来る途中に見た、まだ名前しか持っていない道路。
明日はここから一人で動くのか。
そう思うと、ぼんやりしていたことが少しだけ現実味を帯びた。
大丈夫だろう。
告別式に出て、また帰るだけだ。
真帆もいるし、親類もいる。もしものときは関南へ行けばいい。
分かっているのに、「ここは自分の家ではない」という感覚だけは消えなかった。
受け身のまま残ることになった違和感。
それはまだ小さく、たぶん明日の朝には薄れているくらいのものだった。
そのときの俺は、そう思っていた。




